学校が休みに入り、皆と揃って夕食をとり終えた風太が風呂に入っている間に、先に部屋に戻ったらしい珠恵が客間に布団を並べ敷いていた。
風呂から上がり、当たり前のようにその部屋に戻った風太は、言葉を交わしながら、珠恵の様子に僅かな違和感を覚え始めていた。
いつもより明らかに饒舌なのに、話に相槌を打つ風太とは、ほとんど目を合わせようとしない。それが緊張や気恥ずかしさによるものでないだろうことは、色づくことのない頬の色からも伝わってきた。歯を磨きに出て部屋に戻ってからは、今度は無口になり、ぼんやりと敷布団の上に座り込んでいる。
タオルで額の汗を拭ってから、風太は珠恵のそばに腰を下ろすと、後ろから腕を廻しその身体を抱き寄せた。
「珠恵」
ピクッと動いた珠恵が、振り返り風太を見つめた。
「何か、あったか」
「……いえ」
後ろを向いていた顔を元に戻し、首を横に振って答えた珠恵の手が、前に廻した風太の腕を、ギュッと握り締めた。
「……風、太……さん」
もう一度振り返り、風太を見上げた珠恵の眼の縁が、さっきより赤くなっている。
「ん?」
何だ、と問うように見つめ返した風太から視線をずらしてしまった珠恵は、目を伏せると、身体ごと振り返り首元にしがみ付くように腕を伸ばし上体を寄せてきた。
背中に廻された手に、いつもより強い力が入っている。風太も珠恵の身体を緩く抱き寄せ、あやすように背を撫でた。
「……どうした」
無言のまま、僅かに首を横に振る気配だけを感じる。躊躇いを含んだような声で風太の名を呼んだきり、しばらく待っても何も口にしようとしない。
普段の珠恵は、慣れていないせいもあるが、多分恥ずかしさが勝るのだろう、こんな風に自分から甘えるような態度をみせることは殆どなかった。だから、今の様子からも何かがあったらしいことは明白だった。
黙ってしまった珠恵に、もう一度声を掛けようと口を開いたその時、背中に廻された指が風太のシャツをギュッと掴むのを感じた。
「……たぃ……です」
耳に届いたその声に、背を撫でていた手が思わず止まる。肩越しに顔を埋めたまま、消え入りそうな声で珠恵が呟いたのは、したい――という言葉だった。
一瞬、言葉を呑み込んでしまう。何を、なんてことは聞き返さなくても流石にわかる。けれど、歓迎すべきその言葉も、今の珠恵の様子を見ていると単純に喜んではいられない。
「何があった、ちゃんと、言え。何かあったんだろ。……珠恵?」
首筋に顔を埋めたまま何度か首を横に振った珠恵は、引き離そうときてもより強くしがみ付いてくる。仕事のことか、風太とのことか――きっと後者だろうが、いずれにせよ珠恵がそう簡単に口を割らないことも、流石に少しはわかってきていた。
「なあ、珠恵」
頑なに離れようとしない珠恵に、つい溜息を零す。
「何でも一人で、抱えようとすんな」
少しだけ柔らかな口調で、言い聞かせるように口にする。
「……た…さ……」
ようやく少し身体の力が抜けたのを感じ、珠恵の顔を掬うように上げさせて、じっと瞳を見つめる。
「俺は、頼りになんねえか」
「違い、ます」
強く首を横に振った珠恵は、目を逸らして再び俯いてしまった。
「そんなんじゃ……ありません」
「だったら」
「ちゃんと……言います。でも……今は」
耳元が赤く染まり、それを隠すように風太の肩口に顔を伏せた珠恵が、もう一度消え入りそうな声で告げる。
「……た、さんを……ただ、か、感じて……いたい、です」
耳元を掠める熱い吐息と、震える小さな声とが、身体にゾクリと甘い痺れを走らせる。
「……引い、て……ますか」
「そうじゃなくて」
「いや、ですか」
腕の中にある身体が、僅かに強張るのを感じた。
「んな訳ねえだろ」
しがみついていた身体を、半ば無理矢理引き離す。一瞬顔を上げた珠恵の、乞うように風太を見つめる泣きそうな表情に、思わず苦笑いが漏れそうになった。
何も言わず、もう一度その身を抱き寄せて、膝の上を跨ぐように座らせる。さっきよりもずっと近く、隙間もないくらいに重ね合わせた珠恵の身体越しに、風太は、静かに息を吐き出した。
「お前は……それで、いいのか」
答えの代わりのように、首筋に、濡れたものが充てがわれる。珠恵の唇が触れたそこに、同時に温かな雫が零れ落ちる感触があった。
「珠恵」
辛うじて残る理性が、やはりちゃんと確かめるべきではないかとそう命じようとする。けれど、しがみついた身体を引き離そうとすると、手のひらで頬を拭った珠恵が、何も聞くなというように風太の唇を塞いだ。
涙の味がする。こんな風に、珠恵の方から風太にキスをするのは初めてのことだった。
「……こ、こんなんじゃ……スイッチ……なんて入り……ませんか」
唇を離した珠恵が、震える声でそう口にした。揺れる瞳を見つめ返して、今度こそ、苦笑いが零れた。
「んなの……もうとっくだ」
朱に染まる目元にそっと、そして涙の痕を辿り、頬を伝い口元へと唇を滑らせていく。
「俺が……欲しいか」
唇が触れる直前、そう問うた風太の声はもう、煽られて剥き出しの本能が滲み出ていた。僅かばかりの理性など、もはや消えたも同然だ。小さく頷いた珠恵の瞳も、いつになく熱を宿しているように見える。
自棄になっているのか、嫌なことを忘れたいのか。本当は何があったのかを問い詰めて聞き出してしまいたい。けれど今は、珠恵が求める物を与えてやりたかった。それは、同じぐらい、いや、きっと風太の方が強く、いつでも飢えたように求めているものだった。
髪を撫で上げ、額にも唇を落とす。ほんの僅かに俯いた珠恵の熱を孕んだ瞳から、涙が零れ落ちていった。捕らえて飲み込んで、全てを奪い尽くしたい。そんな狂気じみた欲望が、少しずつ風太の頭の中を侵していく。けれど、この女に。自分が与えられるものは全部、与えてやりたいと思う気持ちも、同じような強さで確かに存在している。
もしも珠恵が望むなら、きっと、何の躊躇いもなく、己の全てを差し出せるだろう。
「なら、も一回お前から」
静かに増した熱が膨れ上がる。寄せた唇から吐き出されるのは、欲を孕んだ吐息だった。
「――してくれ」