本編《雨月》

第十八章 雨と背中2



「……はらさん? 福原、さん?」
 真那に名前を呼ばれて、珠恵は我に返った。喜世子との話を思い浮かべていたことに意識が捉われ、話を聞き洩らしてしまったようだ。
「え? あ、ごめんなさい」
「やっぱりちょっと、疲れてます?」
「あ、ううん違うの、ごめんね真那ちゃん、あの、さっき言い掛けてたのって」
「え、あれっ何だったっけ……」
 少しだけ眉を寄せた真那が、思い出したのだろうパチッと目を見開いた。
「そうそう。だから、今度はあれですよ、もし何かあっても、一人でどうこうしようって思っちゃ駄目ですからねって」
 真那の口調が、珠恵を心配していることがわかるどこか諭すようなものに変わる。心配を掛けてしまっている申し訳なさと、そして少しくすぐったいような嬉しさを感じた。
「うん。……心配かけて、ごめんね」
「私は、まあアレですけど。森川さんには、ちゃんと言ってあげた方がいいですよ。まあ、場合によってはちょっと、オブラートに包んだ方がいいかもですけど」
「あ、うん……」
 ――もうお前だけの事じゃねえだろ
 夕べ珠恵に向けられた風太の言葉や表情、その声色。それらを思い出して、胸が微かに痛んだ。
「でもまあ、さっき森川さんに怒られたって言ってたし、それはこれくらいで置いといて。――で?」
 目の前で大人びた溜息のような息を零した真那は、で? と言った途端、口元にニヤリとした笑みを浮かべた。瞬きを繰り返す瞳がキラキラと輝いて見えて、何かを言われる前から、たじろいでしまう。
「あ……の、真那ちゃ」
 笑顔のまま顔を寄せてきた真那が、僅かに声を潜める。
「昨日はあのまま、あの豪華な部屋にお泊まりでした? きゃーっもう、やだなあっ」
「えっ」
 さっきまでとは打って変わって声を弾ませる真那に、珠恵は首を思いきり横に振った。
「ちがう、あの、あそこは少し借りただけで、あ、あの後ちゃんと、部屋から出たから」
「えーっ何で? もったいない。どうせならゆっくりすればよかったのに」
 何故か、真那は不満げな顔をしている。
「騒ぎを起こした上に、あんな部屋をただで使わせて貰っただけでも、申し訳ないくらいで……。それに、何だかやっぱり……落ち着かなくて」
「えー、私なら喜んで泊まっちゃいますけど。まあ、そこが福原さんっぽいか。でも……でもでも、私が帰ってから、正直、ちょーっとは盛り上がりました? だって彼女のあんな姿見たら、私が森川さんなら多分堪んないだろうなーって、あ、……あれ……えっと、ふ、福原さん、大丈夫ですか」

 ホテルの部屋を、落ち着いてからすぐに出たのは本当のことだった。
 あんな騒ぎを起こして周りに迷惑を掛けてしまったのに。確かに門倉に手をあげたことにショックを受けていた筈なのに。それすらどこか遠いことに思えてしまう程、昨夜は、疲れ果てて眠るその時まで、風太で頭の中がいっぱいだった気がする。

* * *

 何度もキスを重ねた唇を離して、珠恵を見つめた風太は、舌打ちにも似た溜息を零した。
 たくさん泣いたからか、頭がぼうっとしてどこか酔ったような感覚を覚えていた珠恵は、ほんのついさっきまで、身体中が緊張や動揺で冷たくなっていた筈なのに、すぐそばに感じる風太の温もりに安堵したのか、強張りはいつの間にか解けていた。
 見つめる視線の先で苦笑いを零した風太は、珠恵を支えて立ち上がらせた。
「少し、落ち着いたか」
 問いに頷くと、頭に手をやり短い髪をクシャッと撫で上げた風太が、ぼそりと呟いた
「ここに長居もしてらんねえし。飯でも食って……帰るか」
 キスで生まれ始めていた熱の余韻を残しながらも、少しずつそれが冷めてくると、気恥ずかしさに風太の顔を真っ直ぐ見ていられなくなる。誤魔化すように腕時計を見ると、もう八時をとうに回っていた。
 珠恵は全く空腹感を感じないが、風太はそうでないだろう。
「あ、私、気がつかなくて……。風太さん、お腹すきましたよね」
「まあ、な。つか……この部屋じゃ、さすがにマズイしな……」
 最後は独り言のような呟きだったが、何を言ったのかは珠恵にも聞こえていた。
「そう、ですね、早く出ないといけなかったのに。こんなにいい部屋、使わせて頂いて。図々しかった、ですね」
 何か言いたそうな顔で珠恵を暫く見つめた風太は、何故かもう一度小さな溜息を零した。
「風太、さん?」
「……いや、いい」
 促され部屋を出てから、フロントに寄りもう一度だけ料金を払いたいと笠原に申し出てみたが、結局は好意に甘えさせて貰うことになった。礼と詫びを何度も重ねてから、二人でホテルを後にした。

 電車に乗って地元近くまで戻ってから、居酒屋風の店に入り遅い夕食を食べて。
 けれど、そのまま真っ直ぐ家に帰ることはなかった。
 ホテルを出てから、食事の間もいつもよりずっと口数の少なかった風太は、店を出て前を歩きながら、いつものように珠恵の手を取ることもなかった。
 やっぱり、まだ怒っているんだろうか。呆れているんだろうか。自分のしたことは間違っていたんだろうか。珠恵が泣いてしまったから強く言えなかっただけで。
 後ろを歩きながら、そんなことをグルグルと考えて泣きそうになっていた珠恵は、だから、風太がいつもとは違う道を歩いているのには気付いていなかった。
 前を行く風太の歩みが不意に止まって。慌てて足を止めた珠恵がその背中を見つめていると、ゆっくりと風太が振り返った。
「疲れてるって、わかってっけど」
 ぼそっとそう口にした風太を、おずおずと見上げる。
「……いいか?」
「――え?」
 頭のどこかでは意味を分かっていながら、つい問い返してしまう。風太の顔がすぐ横を指し示すように見るのに釣られて、顔を振り向けた珠恵は、途端に心臓が跳ね上がり、顔を俯けた。
「あ、あの……」
「嫌か」
 問いかけでなく結論を出したような溜息交じりの声が頭上から聞こえて、珠恵は咄嗟に首を横に振っいていた。
 ――この部屋じゃ、さすがにマズイしな
 今頃になって意味がわかってしまったホテルでの風太の言葉が、こんなにも時間を置いて羞恥心に火をつける。
 手が伸ばされ、指が絡まる。繋がれたその手は、とても熱くて。風太の指に痛いぐらいの力が込もり、手を取られて小さなホテルの入口を潜った。

 俯いたまま腕を引かれ入ったのは、初めて風太と入ったホテルのような、ゴテゴテとした装飾はないシンプルな部屋だった。
 扉が閉まると、閉ざされた部屋の中はとても静かで、視線を彷徨わせた風太が僅かに笑った。横顔を見上げると、風太が浮かべていたのは、どこか自嘲めいた笑みのように見えた。
「さっきの部屋とは、えらい違いだな」
 ポツリと呟く風太を見つめていると、その顔が珠恵へと向けられる。
「……私は……」
 繋がった視線を僅かに逸らして、珠恵は、繋いだ指先に少しだけ力を込めた。
「どこでも、風太さんと、一緒にいられるなら、それだけで」
 後に続くはずの言葉は。声になる前に、風太の唇に飲み込まれていた。

 * * *

「ああー、もういいですいいです。なんか答え聞かなくてもわかった気がするし。これ以上言ったら、福原さん仕事に差し支えそうだし。てゆっか、もうっ、なんか……私まで恥ずかしくなってきた」
「ご、ごめん……なさい」
「いやー……謝るとこじゃないですけど。でもやっぱあれですね、森川さんみたいなああいうタイプには、福原さんみたいなのがいいって私言ったの、当たってましたよね」
 ご満悦そうな笑みを口元に浮かべ一人頷いている真那に、珠恵は何も言えずにただ居た堪れない心地になっていた。

「あっ」
 突然声を上げた真那が、珠恵に時計を見せる。
「え、あっ時間」
「ご飯食べなきゃ」
 二人して慌てて、ロッカールームへと向かう。
「すいません、ついいっぱいしゃべっちゃって。あーでもなんか、まだ話し足りないです。そうだ、あの、今度遊びに行ってもいいですか」
「……え?」
「二人が、どんなところで愛を育んじゃってるのか、見てみたいし」
「愛を……って、そんな、あの」
「多分森川さんは私に借りがある筈だから、嫌とは言えないはずだし」
 歩きながらそんな会話を交わし、真那の勢いに押されて、頷いていた。嬉しそうに珠恵の腕を握った真那が、急にドアの前で、きまり悪そうな顔をして立ち止まる。
「あの……図々しかったですか? 本当は嫌だったら、ちゃんと言って下さい。聞き分けはいい方なので」
 急にしゅんとする真那がおかしくて、クスっと笑みが零れた。珠恵も、色々聞いてくれる真那の屈託のなさや明るさに、元気を貰えている。
「あの、私も……いろいろ、話したい」
「うん。……ですよねーっ、よかった」
 嬉しそうに笑う真那に笑みを返しながら、世話になってる家だから一度聞いてみると答えて、ロッカールームのドアを開けた。

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