本編《雨月》

第十八章 雨と背中1



 騒動の翌日、昼休みに財布を取りにロッカールームへと向かっていた珠恵は、その途中、後ろから凄い勢いで腕を引かれた。危うく声を上げそうになるほど驚いて、振り返る。
「ま、真那ちゃん?」
「よかったぁ捕まえられて。もう、あんなに待っててって視線送ってたのに、気付かなかったんですか?」
 今日も時間ギリギリにやって来た真那とは、朝、顔を合わせたタイミングでほんのひと言礼を言ったきりで、すぐに就業時間に入ってしまっていた。
 言われてみれば確かに仕事中、やたらと目が合ったような気はする。
「あの……ごめん、なさい」
「さっさと出て行っちゃうし、焦りましたよ」
「あ、ご飯、買いに行こうと思って」
「あーそっか……。あっ、それなら後で私のパン分けたげます。うん。それよりちょっと、ちょっとこっち来て」
「え、あの」
「遠慮なんていりませんからね」
 一瞬思案顔を浮かべ、そしてまた一瞬で結論が出たらしい真那は、有無を言わせず、エプロンを掛けたままの珠恵を人気のない廊下の隅へと引っ張って行った。
「で? 昨日あれから、どうでした」

 珠恵が口にしようとした礼や詫びなどはどうでもいいとばかりに、真那は、やけに真剣な眼差しを向けてくる。
「あれから……あの、え?」
 問い返しながら、真那が帰ってからの風太との遣り取りや、そのあとのことが頭に浮かんで、顔が一気に熱くなってしまう。
「あれ? ……福原さん?」
 真那が目を丸くしているのにも気付かず、しどろもどろに答えを口にする。
「あれから……あの、えっと、そんな何も。あ……少し怒られた……けど、それだけで、あの、だから」
 長い睫毛をパチパチとさせ瞬きを繰り返した真那が、若干気まずそうに口を開いた。
「あー……あのですね。私一応、あのエリ男がまた何か言ってきたりとか、そっちの事? 聞いたつもりなんですけど」
 エリオ、というのがどういうあだ名かはわからないが、どうやら門倉のことらしいとは察しがついた。途端に、自分の勘違いに、今度は顔どころか身体まで熱くなる。
「えっ、あっ……あのそれ、それは……何もないから、大丈夫……です」
 目をウロウロさせ狼狽える珠恵を見て笑った真那だったが、またすぐに真顔に戻った。
「でも、まだわかんないか」
「あ、あのね、でも多分……」
「ん?」
「門倉さんは……もう、私には関わろうとしないんじゃないかって」
「そうなの? でも」
「多分……何となく、そんな気がして」
 怒りを滲ませた門倉の顔を思い出すと、不安もなくはない。けれど門倉という人は、自分にとって無益な、ましてや侮蔑している人間などとは、一瞬でさえ関わることを忌み嫌うような気がした。
 そういう相手は、可能な限りすぐにでも切り捨ててしまいたいと思うような人ではないだろうか。彼にとって、そういった人間と関わることは、無意味で無駄でしかないのではないかと、短い付き合いながら、珠恵はそんな風に感じていた。
「まあ、そうならその方がいいんですけどね。もうほんっと、昨日はビックリでした。まさか福原さんがあんな」
「真那ちゃん、あの、それはもう」
 気まずそうな珠恵を見て、真那は、少しだけ笑った。
「でも、そっか。女に殴られたんじゃカッコ悪くてさすがに何も言えないかもですねー。エリ男、無駄にプライド高そうだったし。それにあれ、もし森川さんがやってたらそれこそシャレんなんないことになってますよねー。多分」
「あ……うん」
「森川さんは気が済まないかもですけど、向こうも、あれくらいで済んでよかったんじゃないですか」
 どこか納得したように頷いている真那のいうように、もしもあそこで風太が怒りの全てを門倉にぶつけていたら、どうなっていただろう。
 昨日は、考えるよりも先に勝手に身体が動いてしまっていた。我に返った直後は、自分のしでかしてしまったことに、頭が真っ白になり混乱していた。
 けれど、必死で風太を止めた頭の片隅にあったのは、喜世子が聞かせてくれた話だった。
 夕べ風太の問いに答えることはなかったが、そうだったのだと、ホテルの部屋で抱き締められながら、気が付いたのだ。

***

 それは、母家で喜世子と二人きりで話をしていた時のことだった。
 話の途中で喜世子の携帯に、病院に行っていた親方から、今から帰るという連絡が入ったすぐあと。珠恵を見つめた喜世子は、前置きもなくぽつぽつと、親方の病気のことを少し話して聞かせてくれた。
 もしかしたら、珠恵の方が無意識に、通話を終えた喜世子に物問いたげな顔を向けてしまっていたのかもしれない。

 喜世子の話を聞きながら、ふと、風太が焼き鳥屋の帰り道、呟くように口にした言葉を思い出し、珠恵は躊躇いながらも尋ねてみた。
 ――俺のせいだ
 僅かに目を見開いた喜世子は、「ああ……」と呟くように口にしてから、仕方がないねとでも言いたげな、溜息混じりの笑みを零した。
 安見の死を知り親方の元を飛び出した風太は、一寿に連れ戻されて以降は、仕事をサボったり自分から喧嘩を売るようなことは以前より随分減ったのだという。だからといって、皆無という訳でもなかったようで、その殆どが相手がつけてきた因縁であったとはいえ、売られた喧嘩は当然のように買ってしまっていた。
「あのナリで、目付きも愛想も悪くて、そりゃ可愛げもなかったからね。何かしたって訳じゃなくても、生意気だって思う人もいたと思うよ。あの頃の風太は、今とはちょっと……いや、随分違ったからね」
 嫌がらせじみたものもあったけどね――と、喜世子は、そんなふうに当時の風太のことを語った。
 笑いながらそう話す喜世子の言葉に、珠恵は、初めて会った日の吉永の話を重ねていた。
 揉める相手は、時には仕事の関係者や施工主、建主のこともあり、確かに親方が倒れる少し前にも、仕事絡みの小さなゴタゴタがあったらしい。
 親方が倒れたのは、その揉め事がどうにか落ち着き、しばらく経った頃のことだった。
「珠ちゃんが言ったみたいに、今でも風太は、お父ちゃんが倒れたのは自分のせいだってそう思ってるみたいだけど」
 その頃のことを思い出すような遠い目をした喜世子は、先程と同じような、優しげな苦笑を微かに浮かべていた。

 病室で目を覚ました親方は、自分の置かれた状況を理解することはできない様子で、喜世子や愛華が呼びかけても、通じない言葉を呟きながら、ぼんやりとした目を天井に向けていたのだという。
 しばらくして、ようやく病院にいることを認識したとき、やはりどこか鈍い表情のまま喜世子達を見るともなく見ていた親方は、ゆっくりと顔を動かすと、後ろに佇む風太のところでその視線を留めた。
 その時、ほんの極僅かではあったが、親方の目に力が込もるのがわかったのだという。
 ――風太、道具、手入れしとけ
 微かにしか動かない唇が紡いだそれは、ほとんど言葉になっていなかった。けれど、喜世子と風太には、親方がそう言ったことが確かに伝わった。
 喜世子は、そういって切なげな笑みを浮かべた。
「それから、風太はお父ちゃんの道具の手入れを始めて、それは今も続いてるんだけどね」
 話を聞いていた珠恵の脳裏に、部屋で道具を扱う風太がみせる真剣な眼差しが浮かんだ。
「風太は、絶対に私らが病院にいる時間や、お父ちゃんが目を覚ましてる時間には、病室に来なかった。病院の人に聞いた話だと、毎晩、消灯時間を過ぎてからこっそり見舞いにきてたみたいでね……。あの頃、風太はね。お父ちゃんがベッドから起き上がれるようになったら、ここを、出て行くつもりだったんだよ」
 驚いて思わず目を見開いた珠恵は、同時に胸の奥にちりちりとした痛みを感じた。
 親方がリハビリを始めてしばらく経った頃、ようやく自身の気持ちも落ち着いてきた喜世子は、少しだけ冷静に周りを見ることができるようになったのだという。そんな折、ふとしたきっかけで、風太が荷物をまとめていることに気が付いたのだと。
「腹が立ってね……怒鳴ってやった。あんたが居なくなったら、お父ちゃんの道具、いったい誰が手入れするんだって。弟子のくせに親方を見捨てるのかって。出てくんなら、あんたの右手をお父ちゃんにやれ……って」
 どこか自嘲めいた笑みを浮かべた喜世子は、珠恵から逸らした目を、その時のことを思い出すように空に向けた。
「それが出来ないなら。悪いと思ってるなら、あんたがお父ちゃんの右手になれって。それで、あの人が認めるくらいの大工になってみせろって、そうね……殆ど無理矢理、何も答えられない風太にね、そう、約束させたんだよ」
 自分を責めているのは、風太だけでなく私も同じだと、喜世子はそうも言った。
 親方が倒れた直後、すぐに駆けつけた吉永は、病院へも付き添ってくれ、自分や周りの誰かを責めるなと何度も喜世子に言って聞かせていたようだった。だがそれでも。
「もちろん、本気で風太のせいだとか思ってたわけじゃないよ……いや、もしかしたら、あの時は少しだけそう思ってたのかもしれないね。色々やらかす弟子なんて、風太に限ったことじゃなかったし、昔から気性の荒い者なんてしょっちゅう相手にしてたしね。若い時にはそれなりにお父ちゃんだって無茶してたとこもあったし、タバコも、止めても聞きやしなくて散々吸ってた。私とだって喧嘩なんて山ほどしたし。だからね、何が原因かなんて正直わからない。風太に言ったあれは……八つ当たりだった」
 何も言えずに、ただ黙って話を聞いていた珠恵の顔を見つめると、喜世子は、何ともいえない優しい顔をして、そっと頷いた。そうして話を終える前に、ぽつりと口にした。
「風太が、ちょっとずつだけど、本当に変わり始めたの、それからだったんだよ」
 ――と。




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