本編《雨月》

第十七章 雨と鞭6



 恐らくは超がつくであろう一流ホテル。これまでの人生に無縁だった高級な客室。品のある調度品で整えられたこの部屋は、あの日珠恵と泊まったホテルとは雲泥の差だった。世間的にみれば、差し詰めこの部屋が門倉で、あのラブホテルの部屋は風太なのだろう。
 そんなことを考え胸の内で自嘲しながら、風太は僅かに伏せた視線を上げた。目が合った途端に顔を俯けてしまった珠恵の元へとゆっくりと近付き、目の前にしゃがみ込む。
「珠恵」
 呼びかける風太の口調の硬さに、珠恵の身体がピクッと小さく揺れた。質の良さそうなソファに浅く腰かけ、呼んでも顔を上げようとしない珠恵を見つめながら、ともすれば頭をもたげそうになる抑え込んだ憤りや苛立ちを静めるように、深く溜息を吐いた。
「お前、一人で何やってる」
「…………」
「何かあったら、どうするつもりだった」
 俯いたまま、唇は硬く結ばれている。
「珠恵」
「……い、言ったら……駄目だって、言われると思って」
「あたり前だ」
「心配、かけたくなくて……門倉さんとのお見合いは、私が、自分で撒いた種だから、自分のことだから、ちゃんと……自分でけじめをつけ」
「そうじゃねえだろ」
 自分のことだと口にした珠恵に、つい口調がきつくなる。
「違うだろ……お前は、俺といるんじゃねえのか」
 硬い表情の珠恵を見上げる。
「だったら、もうお前だけのことじゃねえだろ」
 膝の上で握り締められた珠恵の手に、ぎゅっと力が込められるのがわかった。
「お前さっき、何に怒った」
 細い肩が、小さく揺れる。
「あいつにあんなことしたのは、あいつが俺の事を馬鹿にしたからじゃねえのか」
「…………」
「俺も同じだって、わかんねえのか? 前にも言っただろ。お前に何かあったら……俺はそいつを」
 俯いていた顔を上げて、珠恵が首を横に振った。強い意思を込めた瞳が、必死で風太を見据える。
「何も、ありません……何もされてない、何も。私は、あの人のせいで、傷付いたりしてません。だから……だから今日はただ、お見合いを断りに来ただけです。私が……いい加減な気持ちで、お見合いをしたから、だからそれを」
 硬い声でそう口にした珠恵の唇が、目元が、微かに震える。
「珠恵」
「……忘れろって」

 目の淵に溜まった涙を落とすまいとする意志に逆らうように、滴が一つ、頬を伝い流れ落ちた。
「風太さん忘れろって、言いました」
 じっと、睨むように強く風太を見つめる珠恵は、泣いていると認めたくないのか、それを拭うこともしない。ただ震えた声が、少しずつ上擦っていく。
「だ……だからもう、忘れました。私は、門倉さんに何もされてません。私に……私に触れたのは、風太さんだけです。風太さんだけ……だから」
「お前……」
 あの男と一人で向き合うために、珠恵がどれほどの恐怖や緊張を強いられていたのかを考えてやる余裕をなくしていたことにその時ようやく風太は気が付いた。
 ギュッと、白くなるほど握り締められた手を掴んで、強くその腕を引く。ソファから滑り落ちた珠恵の身体を、風太は腕の中に抱き止めた。
 風太のシャツの袖を握り締め、しがみつくように胸に顔を埋めた珠恵が、堪えきれずにしゃくり上げる。髪をそっと撫で下ろしながら、風太は天井を向きそこへ向けて溜息を吐き出した。
「……ごめっ……なさい」
 胸元から聞こえる絞り出すような声に応え、頭に手を置く。
「……黙って……心配、させて」
「ほんとだ、ったく、俺の心臓止める気か」
「ごめっ、ふ、た…さ」
「もう、いい」
 ゆっくりと繰り返し髪を撫で、珠恵が泣き止むのを待っていた。

 これまで、女の涙は、ただ面倒なだけのものか、嫌悪を覚える類のものでしかなかった。けれど、珠恵が流す涙には、いつも気持ちのどこかを揺さぶられている気がする。
 しばらくして、少し震えが収まった頃合を見計らい、胸元から身体を引き離した。目を赤くして風太を見上げた珠恵は、ばつが悪そうにくしゃくしゃになった顔を俯けてしまう。
「シャツで拭いていいぞ」
「……え」
「顔」
 顔を押さえたまま恥ずかしそうに首を横に振った珠恵は、片手を伸ばすとソファに置いていた自分の鞄を引き摺るように下に落とし、中からハンカチを取り出した。その拍子に、細長い機械のようなものが滑り落ちた。
「何だ、これ」
 珠恵が手を伸ばすより先に、それを拾い上げる。
「あの」
「何で、こんなもん」
「……か、門倉さんとの会話を、録音しました」
 聞きながら、恐らくその答えはわかっていたが、それでもやはり驚きに顔を上げる。
「もし、き、今日のことで何か、言われるようなことがあったら……これに、少しだけ、あ、あの日のことっ……でも、あんまり、上手く、聞けなかっ」
 話し始めた口元が、また震える。忘れたと自分に言い聞かせながら、自らの傷をもう一度抉ろうとしたのだ。痛くないはずがない。
「馬鹿言うな」
 小さなボイスレコーダーを、手の中で握り締めた。本当なら、目の前で叩き潰してやりたい。けれど、これは珠恵が必死で手に入れた戦利品なのだ。
「何か、あったらの……保険です」
「こんなの、使う必要ねえ。無茶、しやがって」
 あの男も、珠恵が相手だからどこかで隙を見せていたのかもしれない。恐らく気が付いていなかったのだろうが、それでも、危険なことに代わりはなかった。
 黙って珠恵を見つめた風太は、ハンカチで頬を拭うその手を。あの男の頬を打った小さな手を、そっと掬い上げた。

 ピクッと動いた指先は少しだけ冷たい。騒動の動揺をまだ引き摺っているのだろう。力を入れたら簡単に折れてしまいそうな華奢な手を、慈しむようにそっと握る。
「……痛かったか」
 顔を伏せたまま、珠恵が、何度か首を横に振った。
 ――福原さんは、森川さんといるために強くなりたいんです。
 真那の言葉が、頭の中を過る。きっと、彼女の言ったことは正しいのだろう。
 この華奢な腕で。優しく柔らかな心を傷付けて。珠恵が守ろうとしていたのはきっと風太だった。殴った手の痛みそのものよりも、きっと胸の痛みの方が強かっただろう。そのことに、堪らない気持になる。
 ――風太さんの手が汚れる
 そんなものは、もうとうの昔に汚れてしまっているというのに。こんな男の為に、馬鹿な奴だと言ってやりたい。
 もっと容赦なく徹底的に、皮膚を抉り骨を砕くような暴力を、風太は身をもって知っている。この手や身体は、今でも消えることなくその感触を覚えていた。それが日常だった過去、誰かを傷つけるその行為に痛みを感じたことなど一度もなかった。
 それなのに今、珠恵の手を握りながら、彼女が感じているであろう痛みをまるで自分のもののように感じていた。知らぬ間にどこかに閉じ込めていた感情が一気に噴き出したかのように、胸を突き刺すような痛みを感じる。
 指先にそっと唇を落とし、指の一本一本、そして手のひらに唇で触れて、風太は、その手の持ち主へと視線を向けた。ゆっくりと互いの指と指を離れないように絡め合う。濡れた睫毛と赤くなった目を伏せた珠恵が、ギュッと風太の手を握り返した。
「……この手は」

 か細い声が、風太の耳に届く。
「風太さんの手は……この手は、家を……物を造る手です。親方さんの代わりに、道具を磨くための手です。だから」
「……おかみさんから、何か聞いたのか」
 黙って小さく首を横に振った珠恵は、何を、とは問い返したりしなかった。それは、風太の問い掛けの意味がわかっているということなのだろう。
 ――出てくつもりなら、あんたのその右手、お父ちゃんにやってから行きなよ
 ――できないなら、あんたが、お父ちゃんの右手の代わりになりな
 溜息を吐き苦笑いを零した風太を、珠恵の視線が伺うように見つめた。
「俺の手は」
 まだ少し濡れた頬に手を当てて、そっと親指の腹でそこを撫でる。
「こうするためのもんだ」
 そうして、珠恵の手を引き寄せ風太の頬に触れさせた。
「お前のこの手も、俺に、こうするためのもんだ」
 目を見開いた珠恵の目元が、また少し潤いを帯びる。
「だから、もう二度と。この手で、他の男に触んな」
 言いきかせるように、じっと目を見つめながら告げる。
「いいな」
 視線の先で、口元を震わせた珠恵が「はい」と頷くのを待って、その唇を静かに塞いだ。
「……風太、さ」
 まだ少し冷たいそこに、体温を移すように、何度も何度も、優しく唇を重ねる。やがて頬に触れていた珠恵の手がゆっくりとそこを離れ、風太のシャツの肩口を掴んだ。
 そっと唇を離し、閉じていた瞼がゆっくりと開かれるのを待って、瞳を軽く睨むように見つめる。
「聞かれる前に言っとくけど……」
 珠恵の瞳が、不安気に揺れる。
「今日、学校、サボったから」
「え? あ……」
 言われて初めて気が付いたのだろう、珠恵が目を開いて、気不味そうに眉根を寄せる。
「あ、の、私」
 その表情を見ながら、口角を上げ笑みを浮かべてみせた。
「……ごめん、なさい」
 小さな声でそう呟いた珠恵が、風太の顔を見つめ、ほんの少しだけクスッと笑った。
 熱を持った瞼に、そっと唇で触れ額を寄せる。互いの存在だけを互いの瞳の中に映し、そこに同じ気持を宿して、珠恵の唇が、声もなく風太の名前の形に動く。
 その口元に吸い寄せられるように、また唇を合わせ、強く、隙間がない程強く、掻き抱くように柔らかな身体を引き寄せた。

 珠恵が風太へ与えてくれる想いは、歪みも澱みもない真っ直ぐなもので、自分のような男には相応しくない。今でも、それはわかっている。それでも――。
「お前は……」
 ――この女は、俺だけのものだ。
 そんな強い想いが、風太の身の内から湧き上がる。
 この女が手に入るのなら、他に、何もなくていい。珠恵に会うことが約束されているなら、クソみたいだった過去を、もう一度繰り返しても構わない。
「すげえ……女だな」
 私に触れたのは、風太さんだけ――珠恵が必死で口にしたその言葉に、心の奥底で、狂気にも似た喜びを感じていた。

 突然、深く激しさを増したキスに、珠恵も、必死で応えようとしているのがわかる。背中に回された手が、同じように強く風太を抱き締めるのを感じていた。
「お前には……俺だけでいい」
 無意識のうちに呟いたその言葉に、珠恵が、はい、と小さく答えた声は、唇に飲み込まれ風太の耳には届いていなかった。


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