本編《雨月》

第十七章 雨と鞭5



 なぜ珠恵がこんな男に頭を下げる必要がある。怒りを含んだ言葉が、喉元までせり上がる。けれど、珠恵の顔を見た風太は、それを辛うじて飲み込んだ。
 珠恵の表情は、もう癖になってしまっている謝罪の言葉を口にする時の、どこか卑屈にさえ感じるいつものそれとは、異質な気がしたからだ。
 珠恵の言葉が耳に届いていたはずの男は、自分が今名前を呼ばれた人物ではないかのような無関心さを纏ったまま、口を開くことも、表情を変えることもなかった。
 やけに静まり返っている空間に、束の間、足を止めていた男が、まるで何事もなかったかのように再び動き始める。真っ直ぐに背筋を伸ばした男は、もう二度と振り向くことなく、やがてロビーにいる人々に紛れて、視界から消えた。
 怒りを呑み込んだ身体から、少しだけ力が抜ける。振り返ると、顔を上げていた珠恵と視線が絡んだ。
 ホテルの従業員が水の入ったグラスを持ってくると、珠恵が慌てて頭を下げようとする。
「あ、あの」
 けれど、まだ膝に力が入らないのだろう、ふらついて椅子に手をついてしまう。真那が慌てて手を差し伸べるが、風太もすぐに近付いて身体を支えた。
「あの……申し訳、ありませんでした。こ、こんな……騒ぎを、起こしてしまって、ご迷惑をお掛けして、私、本当に、申し訳ありません」
 泣きそうな声で必死に頭を下げようとする珠恵の姿に、風太の胸のどこかが軋む。隣で珠恵を支えている真那も、涙目になりながら、その背を擦っていた。
「どうぞ無理をなさらず、お掛け下さい」
 副総支配人の笠原、と名乗った先ほどの男は、気遣うような眼差しを珠恵に向け、柔らかな口調で諭すようにそう声を掛けてから、風太へと視線を移し小さく頷いてみせた。
「私共も、流石にこのような公の場で、女性に手を上げる行為を黙って見過ごす訳にも参りません」
「でも……最初に、手をあげたのは私です」
「そうでしたか?」
 何も見ていないというように、僅かに悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた笠原は、落ち着くまではごゆっくりなさって下さい、とそれ以上詮索することはなく、洗練された仕草で丁寧に頭を下げその場を立ち去って行く。
 何も咎められないことに、わずかながら戸惑いを感じたが、今の風太にはそれよりも優先すべきことがあった。
 珠恵を椅子に腰かけさせ、色を無くした頬を撫でる。指先に微かな震えが伝わってきた。
「――珠恵」
 放心したように手のひらを見つめている珠恵に声をかけると、その手を握り締めて俯いてしまう。風太は、心配そうに珠恵を気遣う真那と視線を合わせてから、立ち上がり周囲を見渡した。もう、騒ぎを起こした当初の静寂はなく、ざわめきが戻っている。それでも、まだ時折こちらをチラチラと見ているいくつかの視線があった。
「福原さん、大丈夫、ですか?」
「真那ちゃん……ごめんね」
「なんで、私にまで謝るの」
 真那に謝る珠恵の姿は、いつもの見慣れたものだ。
「それに、あんな男、殴ってやって正解だよ? なのに何で」
「……そのことを、謝った、訳じゃないから」
「だったら何に? だって、あの男、福原さんに何かしたんでしょ。私だってさっきちょっと聞いてただけでも、無茶苦茶やな感じって思ったもん。なのに何で福原さんが」
「真那ちゃん」
 しゃがみ込んで腕を擦りながら声をかける真那に、珠恵が小さく首を横に振る。そんな二人に「ちょっと待ってろ」と声をかけてから、風太は先程の笠原の後を追った。

 しばらくして戻って来た風太の気配に、真那は顔を上げたが、珠恵は俯いたままだった。
「森川さん、どこ行って」
 ティーラウンジの椅子に置き去りにしていた風太の鞄を持ってきてくれていた真那は、ついでに支払いも済ませてくれたようで、そのことに先に詫びを入れる。財布から金を取り出した風太は、遠慮する真那にそれを受け取らせた。
「あと、場所を変えるから、悪いけど俺と珠恵の荷物持ってついて来て貰えるか」
「あ、はい」
 頷いた真那が、二人分の荷物を手に取る。
 風太は、強張った表情でこちらを見上げた珠恵の腕の下から手を差し込み、身体を引き寄せ抱き上げた。すぐそばに寄った瞳が見開かれ、白かった顔色が薄い赤に染まる。
「風太さ」
「さっすがぁ、軽々ですね」
 さっきまで神妙にしていたかと思えば、もう喜んでいる真那に苦笑いしながら、首を横に振る珠恵へと視線を向けた。
「ここじゃ、落ち着かねえ」
「下ろしてください」
「いいから」
「自分で、歩けます」
「黙ってろ」
「風太さん」
 珠恵の制止を聞くこともなく、ロビーラウンジを抜けた場所で待つ笠原の方へと向かう。
 何の事情も知らないだろうホテルの客の間から、心配そうな表情や好奇の眼差しが向けられる。そして、なぜかその合間に拍手や指笛が聞こえ、こちらへと声をかけてくる者までいた。外資系らしいこのホテルには外国人客も多く、周りの日本人も彼らに釣られて手を叩いている様子だ。
 真っ赤になった珠恵は、居た堪れないのだろう、風太にしがみ付く力が強くなり、顔を隠すように胸元に埋めている。
「……なんだ、これ」
「コングラッチュレーション、とか言ってますよ。笑えるー、森川さんヒーロー扱いされてるみたいですよ」
「……意味がわからねえ」
 正直、溜息しか出ない。実際のところ、風太は何もしていない。珠恵が全て自分自身でケリをつけただけだ。
「何が楽しいんだ」
 呆れながら呟いてフロアを抜けると、好意的な笑みを浮かべた笠原が、こちらに背を向けて歩き始める。問い掛けるような真那の視線を感じたが、一緒に来てくれ、と目線で返し、その後に続いた。

 部屋をしばらく借りたい、との申し出に、案内されたその部屋は、頼んだランクとは明らかに様相が違っている。「どうぞ」と風太を促す笠原を、戸惑いながら見つめた。
「この部屋」
「先程、キャンセルが出た部屋です。もう本日の予約が入ることもないでしょう。当ホテルからのサービスですので、ご自由にお使い下さい。御用の向きは、わたくしの名前を告げて、そちらの内線電話をお使い下さい」
「いや、でも」
「風太さん、下ろして。私、もう平気です。ご迷惑をかけておいてこんなことまでして頂く訳には」
 腕から降りようとする珠恵を見て、笠原が目配せをする。真那はといえば、促す前にさっさと部屋の中に入り、感嘆の声を上げている。風太は珠恵を連れて部屋へと入り、ソファにそっと下ろした。
「ここにいろ」
 立ち上がろうとする珠恵を制すると、振り向いた真那が興奮した口調で珠恵に話し掛け始めた。
「ここ、なんか超いい部屋そうですねー」
 困惑した表情のまま、風太に向けて首を横に振る珠恵を部屋に残して、ドア付近で笠原を呼び止めた。
 確かに騒ぎを起こし迷惑をかけたはずで、ここまでのことをしてもらう理由が見つからない。それに、着古したTシャツにカーゴパンツという自分の出で立ちが、このホテルやこの部屋から浮いていることも十分よくわかっていた。
 風太の疑問に応えるように、笑みを浮かべた笠原が頷き、口を開いた。
「当ホテルのお客様に、もう随分と長い間、来日の際には当ホテルを長期でご利用頂いているドイツ人のご夫妻がいらっしゃいます」
 突然他の客の話を始めた笠原に、さらに戸惑いが深くなる。
「お連れの女性が先程の男性とお話されていた際、そのご夫妻が、ちょうどお二人の後ろの席にいらっしゃいました。旦那様は日本語はほとんどお分かりになりませんが、奥様は実は日本にお住まいだった方で、日本語を大変流暢に話されます。お気づきでなかったのか、日本語が理解出来ないだろうと思われたのか、それはわかりかねますが。どうやらお二人の会話が耳に入っていたらしいのです。それでどうも、先ほどの男性のお客様の言動をかなり、何と申しますか、まあ、不快に思われたご様子で」
 騒ぎの最中に席を立ったその夫婦が、笠原に何かを耳打ちしたらしく、ある程度事情を理解しているかのように頷く笠原は、何をどう聞いたのかまでは口にしなかった。ただ、聞いているだけの人間を不快にさせるような、どんな発言をあの男が珠恵にしていたのか、それを思うだけで、あの男を黙って行かせたことを後悔しそうになる。
 しかし、だからといって好意を黙って受け入れる訳にはいかない。料金は支払うという風太の申し出に、浮かべた笑みを崩さぬまま、笠原が首を横に振った。
「本日この部屋にキャンセルが入ったのは本当のことです。ですので、気兼ねなくお使い下さい。またいずれ、何かの折に当ホテルをご贔屓頂ければそれで。それより、お連れ様のご様子を。何かございましたら、医師を手配いたしますので」
 部屋を後にする笠原を、頭を下げて見送る。部屋の中へと戻った風太を認めると、珠恵に寄り添っていた真那が立ち上がった。

「じゃ、福原さん、私も帰りますね」
「真那ちゃん、でも」
 顔を上げた珠恵の不安そうな表情に笑みを返して、真那が首を横に振った。
「いいから。まあなんて言うか、今日は凄いもの見ちゃったし。ちょっと得した気分」
「え、あ……」
 気まずそうに視線を逸らす珠恵の目元が赤くなる。それを笑いながら見ていた真那が、改まった口調で少しだけ頭を下げた。
「でも……。黙って後をつけたりして、約束も破ってすいませんでした」
 泣きそうな顔を横に振った珠恵から視線を移した真那が、風太を見上げ、口許にもう一度笑みを浮かべた。
「じゃ、森川さん。あと、お願いしますね」
「ああ、また世話んなったな。色々……悪かった」
「いえ、私も、偉そうなこと言って福原さんあんな目に合わせちゃってすみませんでした」
 また明日――
 と明るく声を掛けた真那が、静かに扉を閉めて部屋を出て行く。
 その背を見送っていた視線を振り向け、風太は、目線だけを動かして部屋の中を見渡した。

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