待てという風太の声に、足を止め、しばらく間を置いてから振り向いた門倉の顔は、珠恵が何度か目にしたことのある冷たい侮蔑を滲ませたものだった。
「ああ……そういうことですか」
視線を細め、口元に皮肉げな笑みを薄く浮かべた門倉が、呆れたように呟き珠恵へと視線を向ける。初めから一緒だったのかと言いたいのだろう。
「何した」
静かな声が、却ってその怒りの強さを感じさせる。低い声に滲んだ風太の怒りが、すぐそばにいる珠恵の身体を震わせるように伝わってきた。
「てめえ、珠恵に」
珠恵の身体を引き離した風太の手が拳を握るのが目に入り、ハッと我に返る。こちらを振り向いた門倉へと掴みかかろうとした風太の腕に、身体ごとしがみついた。振り上げようとした手が珠恵に当たる寸前、恐らく咄嗟に力を緩めたのだろう風太が、眉根を寄せ珠恵を見下ろす。その目に縋るように、首を横に振った。
「……離せ」
「違います」
「止めんな」
「何もありません」
「何言ってる」
「勝手に転んだだけです」
「そうじゃねえだろ、離せ」
「嫌です」
引き離そうとする風太に、もっと強くしがみつく。背後で、門倉が笑う気配がした。
「暴力、ですか。さすがですね」
しがみついた風太の身体に、力が入るのを感じる。
「だめですっ」
「どけ」
必死で風太を止めようとしている珠恵の頭の片隅に浮かんでいたのは、喜世子の、静かに語る声だった。
――風太にね、そう約束させたんだよ。
顔を上げ、必死で首を横に振った。風太が纏う怒りの感情が、門倉へとそのまま向かうのを止めなければと、ただそれだけを思っていた。
「こいつがお前に何したか」
「何も、何もされてません。私はこの人に、何も、されたりしてません」
「違うだろが……離せ」
「いやっ」
「珠恵っ」
「風太さんの手が汚れます。風太さんが、殴る価値なんてない人です」
「お前……なに、言って」
呆然と珠恵を見下ろす風太の怒気を孕んだ目元から、僅かに力が抜ける。
「下らない茶番ですね」
門倉の嘲笑じみた口調に、風太の腕を掴んだまま、珠恵は顔を振り向けた。
「茶番……ですか」
「ええ茶番です。違いますか」
見下すような目を見た途端、口を衝いて言葉が溢れ出ていた。萎縮などではない感情に、唇が震える。
「あなたには、きっとわからない」
「吠えられるのは不快だ、と、言ったはずですが」
薄い唇から、笑みが消えスッと表情がなくなる。
「身の程を弁えることを知っていたはずのあなたが、随分とこの男に上手く飼いならされたものだ。低俗な人間と関わると、こうもくだらない人種に成り下がるのかと驚きますね」
背後にいる風太の纏う空気が、鋭利な刃物のように尖る。その身体が、その腕が動き出す寸前――
パシッっと、小さな破裂音が、そこだけ空気が凍ったような空間に響いた。
「取り消して……ください」
頭も、手のひらも熱く痺れている。自分が何をしたのか頭の隅ではわかっていても、心臓が大きく脈打つ音が頭に響いて、何も考えられない。
「え、ウソ……福原、さん……」
真那の唖然とした声が、珠恵にはどこか遠くから聞こえていた。
「取り消してください」
なおも門倉へと詰め寄ろうと無意識に動いていた身体を、誰かが――風太の腕が、強い力で止めた。引き戻されながら、珠恵はただ何度も強く、首を横に振っていた。
「取り……して」
「もういい」
「違い……ます、違う」
「珠恵、もう、いい」
僅かに赤くなった頬に指を当て、ゆっくりと撫で下ろした門倉が、その目にヒリヒリとした怒りを滲ませていく。それは、初めて門倉が見せた、抑制の効かない感情の露呈だったのかもしれない。
珠恵は、視線を落とし目を見開いた。まだ痺れている手のひらが赤くなっているのを見て、頭が真っ白になる。
「……あ……わ、たし」
生まれて初めて人に手を上げた感触に、身体が小さく震え出す。動揺のあまり、珠恵は自分が門倉に手を上げたのだということを、すぐには頭の中で上手く処理できなかった。
呆然としている珠恵を後ろから引き寄せたまま、風太もまた呆気に取られていた。あまりにも予想外の展開に、さっきまで血が上っていた頭から熱が抜け落ちていく。
空気がスッと冷えたように感じた瞬間、細めた目に怒りと侮蔑を浮かべた門倉の手が、珠恵に向けて振り上げられるのが目に入った。咄嗟に腕を引き、胸の内に抱え込むように庇う。身構えた身体には、いつまでも衝撃が伝わらず、その代わりに周囲に人の気配があることに気が付いた。
腕の中で、珠恵が青ざめた顔をぎこちなく上げた。戸惑いを滲ませたまま、風太を見上げたその瞳は揺れ、身体も微かに震えている。大丈夫だと言い聞かせるように、抱き締める腕に力を込めた。
他人に暴力を振るうことなど無縁だったろう珠恵は、人に手を上げたことに強いショックを受けているようだった。
「恐れ入りますがお客様……騒ぎが大きくなると困りますので、この辺りで収めては頂けませんか」
耳に届いた声に顔を振り向けると、門倉の肩に、ホテルの従業員らしき体格のよい男が手を置いていた。穏やかな口調の中に強く忠告を滲ませこの場を制止したのは、それとは別の、恐らくは従業員の中でも上の立場の人間と思われる、落ち着いた物腰の男だった。
腕の中にいた珠恵の身体が重くなったと思うと同時に、ずるずると床にしゃがみ込む。
「珠恵」
「福原さんっ」
傍らで茫然と成り行きを見つめていた真那が、我に返って珠恵の前にしゃがみ込む。
「大丈夫ですか」
「……い、じょふ……しが……」
青ざめた顔のまま震える唇が呟いた言葉に、風太はホッと胸を撫で下ろした。腰が抜けたという珠恵の身体を真那と支えて、椅子に座らせる。
立ち上がって振り返ると、心配そうな眼差しを珠恵に向けるスタッフに、大丈夫だというように小さく頷く。なぜだろうか、身なりや振る舞いからいっても、風太の方がこの場にそぐわないと思われても仕方がないはずなのに、その男からは風太達を責めるような空気が感じられない。それどころかむしろ――
「池戸くん、お客様に何かお飲物を」
止まっていた時間を進めようとするかのように、別の従業員に指示を出す男の傍らで、不快感を露わにハンカチで手を拭う門倉の姿があった。視線に気が付いた門倉は、風太に冷ややかな眼差しを向けてから、唇を引き結んだ。すっと目を逸らした門倉の周りの空気が、より冷めたものに変わる。
周囲の人々が、好奇や非難めいた眼差しをこちらへとチラチラ向けている。それに気が付いたのか、微かに唇を歪めた門倉は、まるで自分以外の人間はここには存在していないかのように、風太達にはもう一瞥もくれることなく、その場を立ち去ろうした。
擦れ違いざま、その手首を強く掴む。細い腕なら砕けるのではないかという程の力に、門倉は顔色も変えずに足を止めた。
「てめえには、感謝しなきゃな」
顔を動かすこともせず、静かにそう告げた。怒りは消えはしないが、今、風太の中にあるのは、それだけではない感情だった。けれどそれでも、握った腕を引き千切ってしまいたい衝動に駆られる。
「触るな」
抵抗するように拳を握り締めた門倉の腕に、力が入るのを感じた。それと共に、腕が粟立っていく気配がする。蔑んでいる男に触れられるのが、不快で堪らないのだろう。けれど風太は、何食わぬ顔のまま握る手を緩めたりはしなかった。
「……離せ」
「俺が珠恵といられんのは、てめえが……殺してやりてえくらいのクソ野郎だったお蔭だ」
門倉にしか聞こえない声でそう告げてから、ゆっくりと顔を向ける。射貫くような視線で男を睨みつけながら、口元にだけ笑みを浮かべてみせた。
「その汚い手を、離せ」
目を見開いた門倉の、手首を握っていた力を緩める。腕を振り払うように引き離した門倉は、風太を睥睨しその目に侮蔑と嫌悪感を一瞬浮かべた。けれど、視線を外した時にはもう、その表情からは何の感情も読み取ることはできなくなっていた。
この男をここに引き摺り倒して、二度と口がきけなくなるほど殴り倒してやりたい――そんな怒りを抑え込むために、風太は奥歯を噛み締め、強く拳を握っていた。
その時、珠恵が椅子から立ち上がるのが見えた。
「……門倉さん」
門倉の動きが、一瞬止まる。
青ざめた顔のままで、珠恵は、振り返ることもない背に向けて、ゆっくりと頭を下げた。
風太の目には、その場面がまるでスローモーションのように映っていた。
顔を上げた珠恵が門倉に向けて口にした言葉に、呆然とする。そばにいた真那も、戸惑うように大きく目を見開いた。
申し訳ありませんでした――。
震える、けれどはっきりとした口調で、珠恵が口にしたのは、詫びの言葉だった。
第十七章 雨と鞭4
