本編《雨月》

第十七条 雨と鞭3



 テスト期間も終わり、その日は夏休み直前の幾日かの登校日のため学校に向かっていた風太は、駅の改札を潜ったところで、ポケットに入れた携帯が震えるのを感じた。
 萱口真那、と表示された着信に、怪訝に思いながら通話ボタンを押すと、いきなり耳に飛び込んできた声は遠く擦れていた。
「あっ、森川さっ……ですか」
「ああ」
「私のことわかります?」
「珠恵の図書館の、あん時世話になった」
「あーよかった、わかって貰えて」
 歩きながら話しているのか、潜めているらしい真那の声は小さく時折ひどく揺れる。
「あの……前に森川さん、言ってましたよね」
「……何が」
「福原さんの、お見合い相手のこと、クソヤローって」
 突然、何を言いだすのかと、眉を潜める。
「ああ、まあ……言ったかもな」
「一応確認しますけど、本当に、クソヤローなんですよね」
「そう、だけど。あのな、さっきから何」
「あの、福原さん今日――」

 風太の言葉を遮り真那から告げられた話の内容に、いつしか手にした携帯を強く握り締めていた。それは、珠恵が一人で見合い相手に会いに行った、というものだった。
「どういうことだ、それ」
「お見合い、どうなってるか何もわからないから、ケリをつけたいって。福原さん、どうしても自分で話をつけたいから一人で行くって言って」
「あの馬鹿」
 恐らく、珠恵が風太に話したことは、その男との間にあった全てではなかっただろう。けれどそれだけでも十分にわかるくらい、見合いの相手は、珠恵を酷く傷付けた男だ。そんな男と一人で対峙して、またどんな目にあうかもわからないというのに。
 風太には何も話さず、一人でそんな無謀な行動に出た珠恵にも、腹立たしさを覚えた。
「どんな目にあったか忘れたのか」
 舌打ちと共に、思わず声に出して呟いていた。
「えっ?」
「あ、いや、それで」
「今日、仕事終わりに、今からその人に会って来るって言われて、それで」
「どこで会うつもりか聞いてるか」
「いえ、でも実は……今、福原さんの……後をつけてるんです。森川さんが言ってたことが私……なんか、どうしても引っかかっちゃって」
「どこにいる、場所は」
 急き立てるように問い掛け、返ってくる答えを聞きながら、学校へ向かうのと逆のホームへと急ぐ。電車が入ってくる音に、階段を駆け上がる足を早めた。
 今真那がいる場所であれば、急げば三十分も掛からず辿り着ける。すぐに向かうから頻繁に連絡を入れて欲しいと頼み、風太は扉が閉まる間際の電車にすべり込んだ。

 イライラしたところでどうにもならないとわかっていても、電車が駅に止まる度に、早く閉まれと苛立つ。脳裏に浮かぶのは、雨に濡れそぼった珠恵の、縛られた痕が赤く傷つき熱を持っていた手首や、腕の中で泣きながら震えていた姿で、記憶に呼び起こされた怒りとともに、珠恵がその男に囚われているかのような錯覚に、焦りばかりが募る。
 何度目かの真那からの連絡で、珠恵が入っていったのが、風太でも名前を知るホテルのロビーラウンジだとわかった。目的の駅にようやく辿り着くと、人を押し退けるように電車から飛び出し、殆ど足を止めることなくホテルへと向かった。
 人通りの多さに走るのもままならないことに苛立ちながら、ホテルへと辿り着いて。息を切らせたままロビーへと入っていくと、外の世界とはまた違う種類の、洗練された明るさと落ち着いたざわめきに包まれた。ラウンジらしきものがある方向へと足を向け、案内の女性に声をかけようとしたタイミングで、後ろから強く腕を引かれた。
「森川さん」
 振り返ると、腕を掴んだまま「こっち」と、声を潜めた真那が風太の手を引く。
「珠恵は」
「とりあえず、こっち来て下さい」
「そっちにいるのか」
 返事もせずに風太の腕を引く真那について行くと、彼女は、ロビーラウンジの席のひとつに腰を下ろしてしまった。
 眉根を寄せ口を開こうとすると、腕を強く引っ張られる。
「いいから、そこ座って下さい」
 こちらを見上げてくる真那の言動の意味がわからず、風太は苛立ちも露わに、そこに立ったままで顔を振り向けようとした。
「ちょっ、駄目ですって、とにかく座って」
「なに言ってる」
「あっちの奥に福原さんいるんです。今、ちょうど見合いの人と話して……って、だから待ってって」
 すぐに珠恵の元へと向かおうとした風太を、真那が強い力で引き止めた。
「あんたの話は後だ、手離せ」
「ダメですってば」
「……いい加減に」
「しっ、大丈夫ですって、ここからならちゃんと見えますから。何かおかしなことがあれば、すぐに助けられます」
 席に着こうとしない風太と、腕を引く真那の遣り取りに、少しずつ周囲の目が注がれ始めている。気づけば注文を取りに来た従業員が、戸惑いながら二人を交互に見ていた。

「あの……お客様、ご注文はいかがいたしましょうか」
 会話が途切れたタイミングを見計らい声を掛けて来た店員に、風太が断りを入れるより先に真那が口を挿む。
「アイスコーヒー二つ、あ、やっぱ一つはアイスロイヤルミルクティーで」
 どういうつもりだと視線を向けた風太を、真那は宥めるように見遣った。
「とにかく、しばらくここから様子を見ましょうって。ね」
 妙に緊迫感のない真那の態度と強引さに、腹が立ちながらも、さっきまでの焦燥感が少しだけ薄れる。僅かに冷静さを取り戻した風太は、舌打ちをしてドサッと席に腰を下ろした。クッションがいい椅子は、その衝撃も吸収するようでそれにもやや気勢を削がれる。
 深く息を吐き出してから、不機嫌さを取り繕うこともなく、真那を睨むように見据えた。全くたじろぐ様子のない真那が、風太の方へと顔を寄せてくる。
「森川さん、斜め後ろ。なんかでっかい昆布っぽいオブジェと観葉植物がありますよね、その奥、覗いてみて下さい。多分、福原さんが見えると思うんで。そっと、見つからないようにですよ」
 指先を右側に向けた真那の言葉に、もう一度溜息を零してから後ろを覗き込む。確かに、オブジェと観葉植物の間から、こちらに横顔を見せている珠恵の姿が見えた。視線の先に、見合い相手だろう、このホテルの雰囲気にも馴染む、パリッとしたスーツ姿の男が姿勢よく腰かけている。
 離れているため、会話の内容まではもちろん聞こえてこないが、遠目にも二人が決して楽しい話をしているようには見えない。初めて目にするあの男が、珠恵の肌に触れ、傷つけたのだと思うだけで、引き摺り倒し息の根を止めたい程の怒りが身の内に湧き起こる。席を立たない為に、風太は酷く忍耐を強いられていた。

「なーんか。嫌味なくらい、いかにもなエリートって感じですよね、あの見合い相手」
 ちらっと視線を門倉の方へと向けた真那が、グラスにストローを入れて軽くかき混ぜながら口を開く。風太の方は、コーヒーに手をつける気にもならない。
「ここで見てるだけで、息つまりそ」
 ストローに口を付けたまま軽く顔を歪めている真那から、視線を逸らした。風太の位置からは、覗き込まなければ珠恵が見えないだけに、余計に様子が気に掛かる。
「……心配なのはわかりますけど」
 何がわかる、と口に出したくなるのを、すんでの所で呑み込んだ。風太の苛立ちを感じてはいるのだろうが、真那のペースが変わる様子はない。
「何となく、福原さんの邪魔したらダメな気がするんです」
 顔をあげ、問い返す声が刺々しくなる。
「邪魔って、どういう意味だ」
 珠恵達の様子を気にするように窺ってから、グラスの氷をカラカラと掻き混ぜた真那が風太へと向けたのは、怯むでも楽しむでもない、真剣な眼差しだった。
「福原さん、言ってたんですよ。自分のことなのに、何もわからないのは嫌だって。いい加減な気持ちで見合いした自分にも責任があるって。福原さんらしいですよねー。私なら、絶対そんな風に思わないけど」
 珠恵が見合いをしたそもそもの理由に自分が関わっているだけに、複雑な気分になる。
「深い事情までは知らないけど、多分これって、福原さんの闘いなんだなって、そう思ったんですよね」
「……何だそれ。あんな奴と闘う必要ねえ。傷つくのは珠恵だ。あいつが一人で闘って傷を負うのを、ただ黙って見てろっつうのか、何のために俺が」
「だって」
 少しだけムキになったような口調で、真那が風太の言葉を遮る。
「森川さんのためじゃないですか。福原さん、森川さんといるために、強くなりたいんですよ、きっと」
 虚をつかれ、一瞬口を噤んでしまう。
「……だからって、あんなまともじゃねえ奴と」
「あのエリートと闘ってるわけじゃないと思います。多分ですけど」
 話を切るように、真那は再び顔をロビーの奥へと向けた。納得はいかないが、彼女と口論するためにここにいる訳ではない。組んだ手に額をのせ俯いて、風太はただ時間が過ぎるのを待っていた。
「あっ、あのエリート、帰るみたいですよ」
 真那が潜めた声で呟くのに釣られ、すぐに顔を上げる。
「話、無事終わった――えっ、何? あっ福原さんっ」
 焦ったように声を上げて慌てて立ち上がった真那の動きと殆ど変わらぬタイミングで、風太も珠恵達がいる席へと顔を向けた。
 途端に、目に映った光景に、頭に血が上る。真那の視線が振り向けられるのと入れ違うように、テーブルを離れた風太は、ロビーラウンジの中を珠恵の元へと駆け出していた。


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