見つめた視線の先で、門倉が微かな溜息を零した。
「知る、と、思う、はイコールではありません。知っていたのかと聞かれれば、いいえ、ですが。思っていたかと問われれば、はい、です。疑わしいだけでは百パーセント否定することまではできません」
やはり、気がついていたのだと思いながら、珠恵は、薄い唇が続けて動くのを見ていた。
「あなたとは連絡が取れない。お父様の仰ることは辻褄が合わない。もしも本当に自身で連絡さえできないほど風邪が悪化しているのなら、入院させるなりそれなりのことをなさるのが普通でしょう。普段の冷静なお父様なら、ご自分の言動がいかに愚かなものかおわかりになったのでしょうが。しかし、それが本当であろうが嘘であろうが、私にとってさして重要なことではありません。そんなことに関わっていられる程、私も暇ではありませんから。何故そんな嘘をつく必要があるのかは、いずれ」
門倉の声を聞いているだけで、身体は冷たいのに、嫌な汗が背を伝う。
どうして――。
どうしてこの人と、共に生きていけると思ったのだろうか。この、体温も優しさも何一つ感じられない、門倉という人と。
珠恵は、指を握り締め、力を入れるように息を吸い込んで背筋を伸ばすと、平坦で滑らかなその口調を遮るように口を開いた。
「私は、家を出ました」
口を噤んだ門倉のメガネのレンズに、外からの光が反射し、瞳の動きを隠してしまう。
「好きな人が、います。今、その人と一緒にいるんです。ですから……わ、私は……門倉さんとは、結婚できません。一旦お受けしておきながら、申し訳ありませんがこのお話は」
「森川、風太」
声色も表情も変えないまま、門倉が口にしたのは風太の名前だった。
「と、言いましたか。あなたが私の問いに、友人だ、と答えた男は」
噤んだ口を結んだまま、気圧されないように門倉の顔を真っ直ぐに見つめ続けた。
「あの男のことを言っているのですか」
「そうです」
酷薄そうな口元に、薄っすらと笑みが浮かぶ。あの日、ホテルの部屋で風太のことを話していた時と同じ、あからさまな侮蔑をその目に滲ませて。息苦しい程に、鼓動が胸を打つ。珠恵に向けられた門倉の表情から、次第にその笑みが消えた。
「それは、あの男とセックスをした、という意味ですか」
息を止めて、門倉を見つめ返した。何の感情の起伏も羞恥も躊躇いも感じられない声で、こんなことをこんな場所で問う門倉に、動揺をみせたくなくても、珠恵は顔が熱を持つのを止めることができなかった。目を逸らしたくないのに、思わず視線を落としてしまう。
「答えないのは、肯定と捉えて構いませんね」
「……そんな、こと、まで、こ、答える必要が」
「ああ。下品な勘違いはしないで頂きたい。ただの事実確認です。あなたがあんなヤクザ紛いの男に身体を開き、穢されてしまったのか」
「森川さんはっ」
落ち着け――。と言い聞かせ息を整えながら、珠恵は机の上に置いた手を強く握った。
「私は……穢されたりなんかしてません」
「あなたの見解は聞いていません。事実だけで結構です」
門倉の態度は、ある程度予想していた。だからといって、胸中穏やかでは居られない。門倉の言葉を認めてなどいないのに、動揺し混乱した頭ではすぐに上手く反論する言葉を見つけることができない。
「残念です、珠恵さん。あなたはもう少し賢い選択をなさる女性かと思いましたが。ご両親もさぞ失望されていることでしょう。特にお父様には、同情の念を抱かずにいられませんね。よもやご自分の娘があんな低劣な男に傷物にされるとは」
門倉の言葉に、今まで感じたことがないような熱が胸の奥からせり上がってくる。それは、珠恵が初めて誰かに対してはっきりと感じた怒り、だった。その感情が大きくなるにつれ、門倉と対峙してからずっと、つい先程まで感じていた不安や怖さが薄らいでいく気がした。
私は、この人のいったい何が怖かったのだろう――。
頭の隅で、不思議な程冷静にそう思う自分がいた。
「門倉さん」
珠恵の静かな、けれどはっきりとした声色に何かを感じたのか、門倉の表情が怪訝なものに変わる。
「あなたは……とても悲しい人ですね」
虚を突かれたのか、僅かに視線を眇めた門倉が、意図を確かめるように珠恵を見つめた。
「あなたには、傷付けられる痛みも苦しみも、理解出来ない。誰かのことを思って、一喜一憂したり、どうしようもなく気持ちが揺さぶられたり、胸が痛くなったり、温かなもので満たされたり、そういう気持ちも、わからないんですね。それは……とても悲しいことだと思います。森川さんは……知っています。森川さんは、温かいです。森川さんは、優しいです。森川さんは……あなたとは全然違う。あなたがどんな風に言おうが、私にとって、男の人としても……人としても、あなたより、ずっとずっと、森川さんの方が上です」
目の前にいる門倉の目が、不快感を隠しきれず苛立ちと仄暗い怒りを宿すのを見つめながら、それでも、怯むことはなかった。珠恵は、まるで風太自身がここにいるかのように、ただ風太の温もりや優しさや彼の抱えている孤独を感じていた。
「あんなクズと比べられるとは非常に不愉快ですね」
「取り消して下さい」
腕に嵌めた時計で時間を確かめた門倉は、伝票を手に立ち上がった。
「門倉さ」
「自分より劣る人間に吠えられるほど、不快なことはありません」
「待って、下さい」
背を向けた門倉を引き止めるために、咄嗟に腕を掴んでいた。振り返った門倉が冷たい目で珠恵を見下ろす。今は怒りが力になり、その目に怯むことはなかった。
「さっきの言葉を取り消して」
「触るな、汚らわしい手で私に」
嫌悪感を露わにした門倉が、珠恵が掴んだ腕を強く振り払った。その拍子に、胸に当たった手に押され、身体が椅子の方へと倒れ込んでいた。
「珠恵っ」
走り寄ってくる人の気配を感じると共に、珠恵を呼ぶ風太の声が聞こえた気がした。と同時に、力強い手に引き上げられ、目の前にいるはずがない人の姿に目を見開く。
「大丈夫か」
眉根を寄せた険しい表情で、珠恵の身体を気遣うように確認していく風太を、混乱し訳もわからないまま、瞬きもせずに見つめる。
「福原さんっ」
息を弾ませるような声がした方へ顔を向けると、そこに、風太を追って来たらしい真那の姿もあった。
「……え? 真那、ちゃん……風太、さん? ど、して」
「話は後だ」
そう口にした風太の声には明らかな怒りが滲んでいて、その視線が、背を向けて立ち去ろうとしていた門倉へと向けられた。
「待てよ」
いつの間にか後ろの席にいた客が席を立っていたことも、奥まっているとはいえ、騒ぎに周囲が静まり注目を浴びていることにも、珠恵は気が付いていなかった。