「待たせましたか」
「いえ……」
答えながら、この人にとってこの言葉は、答えを望むものでなく挨拶のようなものだったと思い出す。席から立ち上がった珠恵は、夏だというのに涼しげな、寧ろ冷たいとさえ感じさせる表情で目の前に立つ門倉の顔を見上げて、頭を下げた。
「先ほども言いましたが、あまり時間は取れません」
「はい。あの、お忙しいところを呼び出したりして、申し訳ありません」
あの日、あのホテルでの出来事があって以来、門倉とは一度も連絡を取っていなかった。結婚の話を正式に進めると言ったその直後から一度も話すことすらなかったことを、門倉がどう思っているのかは、その表情からは伺うことはできそうもなかった。
真那に話したとおり珠恵は、見合いの話がどうなっているのかを確かめるためにも、門倉と話さなければならないと思っていた。それでも、実際に連絡を取ることには幾度も躊躇した。躊躇うというより、門倉のことを思い出すだけで身体が強張り息が苦しくなった。けれどこのままの状態でいるのは、抜けずに刺さったままの棘があるみたいで、どうしても落ち着かなかった。
携帯を父に取り上げられたままの珠恵には、この数日の間に門倉から連絡があったのかを確かめる術はない。考えた末に、財布に入れたままになっていた名刺に書かれたプライベートの携帯番号に連絡を入れ、こうして門倉を呼び出すような形になった。
電話をかけた時の反応からは、父が見合いの話を断ったのかどうかはわからなかった。
門倉の職場からも比較的近い外資系のホテル。珠恵がここを指定したのは、その名を告げただけで場所がわかるという地名度もあるが、なにより、ロビー内の人の出入りもきっと多いだろうということが一番の理由だった。
門倉と二人で会うのに、人目の少ない場所を選ぶことはさすがにできなかった。今でもやはり、ホテルのロビーに入って来たこの人を見た時から。いや、電話で門倉の声を聞いた時から、緊張と恐怖心のためだろうか胃のあたりが重く、今も指先が冷たくなっている。
挨拶を済ませ椅子に腰を下ろした珠恵は、両手を、膝に置いたバッグを握るようにその上に置いた。
ロビーラウンジの奥まったテーブル席で、向かいに腰を下ろした門倉は、ウェイターにコーヒーを頼むと、それをテイクアウト用の容器に入れるようにと注文を付け加えた。持って帰りたい訳ではなく、きっとこんな場所でも、使い回しのコーヒーカップでは飲む気にならないのだろう。
「それで。風邪はもう、治りましたか」
「え?」
「随分と長引いているようなことをお父様は仰っていましたが」
コーヒーが運ばれる前に、先に口を開いたのは門倉だった。テーブルの前で組まれた門倉の白く長い指が目に入ると、途端に、胸を打つ音が早くなる。すぐに視線を逸らしながら、あの指が身体に触れた時のことを思い出して、拒絶するように肌が泡立つ。
「寒い、ですか」
無意識のうちにカーディガンからのぞいた手首を、手のひらで擦っていた。きっと、門倉には伝わっているに違いない。珠恵が、門倉を目の前にして感じている緊張や恐怖心が。
「……いえ」
それを認めたくなくて、指先に力を入れる。俯いたまま、珠恵は気持を落ち着かせようと一度強く目を閉じた。
「自身の体調管理などは、成人として最低限の責務です。当然、あなたもそれは理解されているでしょう。確かに私は医師の資格は持ってはいますが。妻にそれを当てにされては困ります」
門倉の言葉に、息を呑み、顔を上げた。やはり、父からは見合いを断るという話はされていないということなのだろうか。
「あの」
「もっとも。あの日のことは」
「……え」
「処女であるあなたには、多少ストレスが強かったかもしれませんが」
「やめてっ……下さい」
頭に上った血が、一瞬のうちに引いていく気がした。本当は、門倉の口からこの話をさせることも今日の目的のひとつではあった。誘導などしなくても目の前の人が自らそれを口にしたことに安堵しなければならない。なのに、さっきよりも大きくなった手の震えを誤魔化すこともできず、珠恵は無意識のうちに指先が白くなるほど、強く鞄を握り締めていた。
何か言わなければ――そう思うのに、上手く言葉が出てこない。
声を張るわけでもない静かな門倉の声は、恐らく、周囲には聞こえてはいないだろう。けれど珠恵の耳には、周囲の音が遠ざかり、囚われたかのように門倉の声だけが届く。
「あの日のことが原因だというのであれば、まあ……もちろん元はと言えばあなたの言動が招いたことではありますが――。ご両親は私と会っていたことをご存知だというのに、体調が悪いと聞いてそのままという訳にもいきません。ですから、見舞いに伺うと申し上げました。ですが、私にうつることを心配されたお父様に断られました」
まるで世間話をするかのように、声色ひとつ変えずに淡々とあの日のことを口にする門倉にとって、あれは、瑣末な出来事でしかないのだろう。
鼓動がこめかみに響いて、胸が何かに圧されたように息苦しくなる。その時、『――忘れろ』と、風太の声が、耳の奥に聞こえた気がした。その声が、冷たくなった珠恵の身体に仄かな温もりを灯し、少しずつ震えが小さくなる。
「わ、私」
「勿論、私は自分の体調管理を怠るような愚を犯しません。ですが余計な心配だともいえませんので、お言葉に従って見舞いは控えさせて貰いました。代わりに送った果物は届きましたか」
「かどくらさ」
「珠恵さんの携帯にも連絡してみましたが繋がりませんでした」
「門倉、さん」
「連絡ができないほど酷い症状なら医者を紹介するとも申し上げましたが」
「門倉さんっ」
少し大きな声を上げると、門倉の口が閉ざされた。僅かに眉根を寄せたその顔を真っ直ぐに見つめるために、胸の内で何度も、何度も風太の名前を呼んだ。
話を遮られたことが気に入らないのだろう、より張り詰めたような空気が漂う。
「お待たせいたしました。こちら……」
ちょうどそんなタイミングでコーヒーが運ばれ、珠恵は詰めていた息をそっと吐き出した。ウエイターが下がり、門倉がポケットから取り出したハンカチでテイクアウトのカップを拭ってから口にする様子を見ながら、珠恵はもう一度顔を上げた。
窓際のこの席は少し奥まっていて、後ろの席には外国人らしき老夫婦が座っている。ガラス張りの窓からは、狭いながらも手入れの行き届いた庭が見えていたが、石庭を模したそこを楽しむような余裕は今の珠恵には全くなかった。ロビーのざわめきも煩わしくない程度に聞こえてはいたが、それもどこか遠い世界のように思えてくる。
コーヒーを口に含み僅かに顔を顰めた門倉の視線が、再び珠恵を見据えた。
「何でしょうか」
「わ、私は……」
微かに苛立ちを含んだ声に呑まれないように、息を吸い込み手を握り締める。
「私は、物でも人形でもありません」
固い声でひと息に吐き出す。コーヒーの入ったカップをテーブルに戻した門倉は、しばらくの間無言で珠恵の目を見つめ返していた。何がそこに映っているのか、感情の読み取れない瞳で。
「仰っている意味がわかり兼ねますが」
「わかって……いると、思います」
か細いその声に、目の前の人の唇が、どこか呆れたように僅かに上がる。
「珠恵さん。遠回しにせず、要点を纏めて手短に仰って頂けますか」
「……本当は……知っていたのではないんですか」
「何を。ですか」
わざとらしく言葉を区切る問い掛けには、人を威圧するような響きが混じっている。
この人が。ほんの短い付き合いの珠恵でもわかる程に怜悧な門倉が、父の説明や珠恵と連絡が取れない不自然さに何も気付かなかったなど、到底信じることはできない。
「本当は、風邪では……なかったことをです」