本編《雨月》

第十六章 雨とオムライス8



 週の半ば、風太達の学校の試験が始まった二日目、珠恵は早番の仕事を終えると、駅前のスーパーに寄ってから帰宅した。
 夕べのうちに風太達の食事を作らせて欲しいと喜世子には伝えていたが、もう一度、あとで台所を借りたいとお願いすると、ニッコリ笑って快諾してくれる。
「癖んなって、これから毎日珠ちゃんのご飯がいいっていうかもしれないよ」
 そんな風に揶揄する喜世子の言葉に慌てて首を振りながら。風太達の居ない食卓で皆でご飯を食べていても、どこか気持ちがそわそわして落ち着かない。
 ここ数日は喜世子に頼まれて、夕食後に期末試験だからと大人しく家に帰ってきている愛華の勉強をみていた。途中で大きな欠伸をしたり雑談をしようとすると、喜世子の鋭い視線と言葉が飛んでくるため、流石に愛華も渋々ながら珠恵の説明を聞いている。
 今日も食事後は、そうして時間が過ぎていき、風太たちが学校から戻って来る頃には、愛華も風呂に入るからと居間を出ていってしまっていた。

「あとは好きに使っていいからね。今度、私らにも食べさせてよ」
 喜世子と親方も、そう珠恵に声を掛けてから自分たちの部屋へと引き上げていった。
 一人残った珠恵は、エプロンをつけて台所に立った。食事の支度は家でも手伝っていたから、不慣れな訳ではない。けれど、家族以外の人に作るのは初めてで、しかも風太に食べて貰うと思うと包丁を持つ手につい力が入ってしまう。
 それでも、ご飯に混ぜる具材を順に小さく刻んでいくうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。時計を見て焦りながら、フライパンを火にかけてベーコンと刻んだ野菜に火を通し、余った切れ端はスープに使用する。
 ちょうど下準備を終えた頃、玄関の扉が開く音が聞こえた。卵を割り解していた手を止めた珠恵は、手を洗い玄関へと足を向けた。
「おかえり、なさい」
「ああ、ただいま」
 玄関口に佇んでいた風太が顔を上げて、珠恵の恰好を物言いたげに見つめる。いつもこの時間には身に着けていないエプロンをしているのが珍しいのだろう。
「あの……テストは、どうでしたか」
「あー、聞くな。それ」
 苦笑いして、靴を脱ぎ玄関を上がった風太の後を追い居間へと戻って行く。
「あの、風太さん」
「ん?」
「翔平君は、一緒じゃないんですか」
「部屋に寄ってからこっち来るって。何でだ」
 振り返った風太を見上げて、少し顔が熱くなる。
「あ、食事を……」
「ああ」
「今日は、あの……私が、つ、作ろうと思って」
 少し目を丸くした風太が、珠恵の恰好をもう一度見て「それでそのカッコか」と、呟く。
「はい。あのでも、……作るって言っても、夜食なので簡単なものです。それに、口に合うか、わからないですけど」
 何を言おうとしたのか、開きかけた口を言い淀むように噤んだ風太は、結局何も言わず居間へと入りいつもの定位置に腰を下ろした。
「あの、すぐできるので、もう少しだけ待ってて下さい」
「……ああ」
 その背に向けて声を掛けながら、喜世子達もおらずこんな風に二人きりだと、何だかまるで新婚の遣り取りみたいだと一人で勝手に照れくささを感じて、珠恵はそそくさと台所へ戻った。
 フライパンを温めながら、炊飯器からボールに移したご飯を炒めていた具と混ぜ合わせて薄く味付けをする。温まったフライパンにバターとオリーブオイルを落とし、卵を流し軽く菜箸で掻き混ぜてから、半熟のうちに手早くご飯を乗せて、フライパンの取っ手を軽く叩き形を整えていった。
 よく使いこなされたフライパンだからだろう、殆ど卵がこびり付くこともなく、思った以上に綺麗に仕上りそうでホッとする。
 用意していた白いお皿に、卵をうまく巻きつけるようにして滑らせ、箸で形を整えると、オムライスができあがった。冷蔵庫から取り出していたケチャップを軽く振りながら、あの日の昼休み、ランチを食べながら真那と交わした会話が頭の中に浮かぶ。
 ――なんか、これ彼氏に作ってあげたくなりません?
 ――え?
 ――オムライス
 ――あ……そう、なのかな
 ――まー私は正直作ってもらう方がいいですけど
 ――そう……なんだ
 ――はい。あ、そうだ。作ってあげたら喜ぶんじゃないですか
 ――え?
 ――ふ、う、た、さん
 ――ま……真那ちゃん
 ――ベタですけどケチャップでハートとかラブ、とか書いちゃったり……
 ――あ、あの
 ――って、うわっ、どんな反応するんだろ森川さん。見たいー
 ケチャップを手にしながら、脳内で再生された会話に独りでに顔が熱くなる。風太のことを彼氏だとサラッと言われることすら、まだ慣れてなくて落ち着かなかった。
 このオムライスは、珠恵が初めて風太のために作る食事だった。食べて貰うだけでもういっぱいいっぱいで、ケチャップでハートを描くなんてハードルが高すぎると、頭に浮かんだ会話を否定するように首を振る。ひとつ息を吐いて、普通にケチャップを絞ろうと握り込んだちょうどそのタイミングで。

「珠恵」
 すぐ後ろから声がして、驚いた勢いでケチャップを強く握り締めてしまった。
「あっ……」
「どうかしたか」
 一か所に絞り出されたケチャップの山形が、崩れるようにゆっくりと流れ落ちていく。
「い、え、あの……ケチャップ」
「ケチャップ?」
「ちょっと、かけ過ぎたかも」
「ああ……。で、それできたのか」
「あ、はい」
 ケチャップが綺麗にかかってない以外は、見た目だけは比較的上手く仕上がっていた。皿に手を伸ばそうとする珠恵より先に、風太がそれを取り上げる。
「オムライス、か」
「あの、風太さん、食べたことがないって、この間」
「ああ、そういや、言ったっけな。それで、か」
「あの、でも。美味しくなかったら……無理して食べないで残して下さい」
「まずいのか?」
「えっ、いえ、あのそれは」
 焦ってしどろもどろになると、クッと笑う声がする。
「食うに決まってんだろ、全部」
 作っている最中は忘れていた緊張がぶり返してきて、珠恵は風太の顔が見れなかった。けれど、その口元がわずかに弧を描いたことはわかった。
 皿とスプーンを持った風太が居間に戻るのと同時に、「うわっ、なんかいい匂いがすると思ったらオムライスじゃないっすか」と、部屋に入ってきた翔平が反応するのが聞こえてくる。温めていたスープを慌てて風太の元に運びながら、翔平に声を掛けた。
「あの、翔平君の分も、今から作るから、もし、良かったら、食べて」
「えっ、珠ちゃんが作ってくれんの? しかもなにげにエプロン姿だし」
「え……あ、うん。私が作ったので、よければ」
 嬉しそうな翔平の反応に、照れ臭さを覚えながらも、食べ始めている風太の反応も気に掛かる。黙々とスプーンを動かして食べてはくれているようだが、ちょうど珠恵に背を向けて座った風太の後ろ姿からは、その表情は窺えなかった。
 キッチンに戻った珠恵は、二つ目のオムライスを作り始めた。ご飯を卵に乗せたところで、ボソボソ話す居間での会話が途切れ途切れに聞こえてくる。
「……っすか」
「……たり前だ……か、何でお前まで……」
「何で……くれるって……たし」
「……しろよ」
「いや、腹減って……し。でもオムライスって……っすよね。……に、エプロ…って……みたいだし」
「……か、お前」
「風太さんも……って……くせに」
「せえ」
「あっ……、俺、あれ……もらおっと」
 つい二人の遣り取りに気を取られている間に卵が固まりそうになっていて、珠恵は慌てて止まっていた手を動かし始めた。
「ねーねー珠ちゃん」
 居間から翔平の声がして、火を止めて皿にオムライスを滑らせてから、慌てて顔を覗かせた。
「ごめんね、翔平君、何?」
「あのさ、俺のオムライスさあ」
「うん」
「ケチャップで、ほらあれ、なんかハートとか、描いてくんない?」
「……えっ」
 さっき考えていたことを読まれたみたいで、つい耳が熱くなる。
「馬鹿かお前」
「いいじゃないっすかそれくらい。羨ましいっしょ。風太さんもお願いすりゃよかったんっすよ」
「珠恵、馬鹿の言うこと聞かなくていいぞ」
「お願い、珠ちゃん」
「え、あ……あの」
 狼狽えている間に、食べ終えた皿を手に立ち上がり、こちらへと向かってきた風太の姿に視界が遮られて、翔平が見えなくなってしまった。押されるように台所へと戻ると、シンクに皿を置いた風太が、珠恵を見つめる。
「あ、の」
「ごっそさん」
「は、はい」
「旨かった」
「え?」
「オムライス」
「ほんと……に?」
「全部食っただろ。また、作ってくれ」
「……はい」
 風太の口調や表情から、それがお世辞だけではない気がして、嬉しくて顔が火照り口元が緩みそうになる。ふと、見上げた風太の口元にケチャップがついているのに気が付いて手を伸ばして拭うと、何だ、というように見つめ返された。
「あの、ケチャップが」
 珠恵の手を握った風太が、指先についた赤いものを見て小さく笑みを漏らす。そのまま指先に唇が触れてケチャップを舌が舐め取ってしまった。
「っふ、風太さん」
「……なんだ」
 指はすぐに解放されたが、なぜか嬉しそうな笑みを浮かべる風太から顔を逸らしながら、胸を打つ鼓動が痛いくらい早まっている。
「……それ、翔平の分か」
「え……あっ、そうです」
 聞かれて我に返った珠恵は、調理し終えてていた翔平のオムライスにケチャップを絞ろうと、慌てて手を伸ばそうとした。
「あのっ、風太、さん?」
 珠恵の手から掠め取るようにケチャップを手にした風太が、口元に薄く笑みを浮かべた。
 ――え
 その手元から絞り出されるケチャップを見て、呆気にとられる。
「スプーンは」
「あ、はい……風太さん、でも、それ」
 満足気に頷いて皿を手にした風太に、慌ててスプーンを手渡す。本当にそれ――と確かめるように見上げると、スッと屈んだ風太の唇が軽く珠恵の唇に触れ離れていった。
 狼狽えた珠恵に背を向けた風太は、何もなかったかのように居間へとオムライスを運んでいく。
「なに、こそこそしてるんっすか」
「ほら、お前の分。持ってきてやったぞ」
「おっ、わっ……て、何っすかこれっ」
「見りゃわかんだろ」
「俺、ハートっつったのに……」
「みてえなもんだろ」
「ぜんっぜん違うじゃないっすか、何すか、バカって……珠ちゃんっ」
「っせえな、つか、早く食え」
「ちょっ、何するんすか」
「食わねえなら、俺が食うぞ」
「く、食いますよ。食うに決まってんでしょ。つか風太さんもう食ったじゃないっすか。これは俺の分っすよ、……いただきまーす、珠ちゃん」
「……うまいだろ」
「うまいっす……」
「お前、もっと味わって食え」
「るさいなもう……ってか、なんで風太さんがドヤ顔なんすか」
 漏れ聞こえてくる二人の会話がくすぐったくて、珠恵はスープを出しあぐねたまま、しばらくは、キッチンから顔を出すことができなかった。


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