実は今、家を出て風太の元に身を寄せているのだ――
そう告げると、真那は、あんぐり、というのはこういう状態なのだと絵に描いたかのように口を開いたまま、珠恵を見つめた。
「ま、真那ちゃん、大丈夫?」
一度口を閉じた真那は、長く綺麗にカールしたまつ毛をパチパチとさせてから、「うわー」と小さく息を吐き出した。
「何ですかそれ。てか、何その展開、急過ぎてついていけないんですけど。えっ、てそれってカケオチじゃないですか。うっわーっ生カケオチだあ」
生カケオチ……そんな言葉があるのだろうか。本人は、至って真剣なようだが、真那が口にすると深刻さが半減して、気持ちが少し軽くなるから不思議だ。
「だいたいこの前森川さんが突然図書館に来て、そんで福原さんとできてる? 的なこと聞かされて、あれでももう十分ビックリだったのに」
珠恵自身、状況の劇的な変化にまだ何処か夢を見ているような気がするくらいなのだ。何も知らない真那の反応は尤もなものだろう。
「私も、あの……自分でもびっくりしてる」
ちょうど運ばれてきたサラダとスープ、湯気を上げるオムライスが、小さなテーブルの上に並べられていく。いったん口を噤んだ真那は、店員が席を離れた途端に「ですよねー」と何度も頷きながら、スープの入ったマグカップに手を伸ばした。珠恵も、フォークを手に取って、頂きますと手を合わせてからサラダを食べ始めた。
「あー美味しいこのスープ。私、人参超苦手なんですけど、これいけますよ」
オレンジ色をしたキャロットのポタージュを美味しそうにスプーンで口に運んでいた真那は、次にオムライスに手をつけ始めた。スプーンを入れると、トロトロの卵が茶葉を混ぜ込んだライスに絡み、微かに紅茶の香りが漂ってくる。
スプーンを口に含んで珠恵を見た真那は、至福の笑みを顔中に浮かべた。まだ食べていない珠恵の口元も自然とほころぶ。サラダを置いて、珠恵もオムライスを口に運んでみた。
「あ……美味しい」
「ですよねー」
互いに少しの間、黙って優しい卵の味と、その後に口の中に広がる紅茶の香りを楽しんだ。けれどそれも束の間で、気がつけばオムライスを食べる手を止めないまま視線だけを上げた真那が、じっと珠恵を見つめている。
「にしても……福原さんて」
「え」
「意外と」
珠恵が手を止めて見つめ返すと、オムライスを三分の一程平らげたところで、今度は真那も手を止めて、ふうっと大きく息を吐き出した。
「あれですよね、普段大人しい人ほど、いざとなると大胆っていうか、思い切ったことするっていうの、ほんとですね」
聞き覚えのある言葉にも、今回のことはさすがに自分自身でさえそう思うだけに、違うとは言えず顔が熱くなってくる。
「あの……他の人にも、それ言われた」
吉永の眉間の皺を思い出しながら、そう口にする。
「そりゃ言いますって。だって意外過ぎだし」
「あ、うん……」
どう答えていいものかわからずに、またスプーンを動かし始めた。真那もスープやサラダに手を伸ばす。食べ進めながら真那の疑問に答え、かいつまんで事情を説明していく。慌ただしさのせいか真那の性格のおかげなのか、それほど感傷的にならずに話すことができた。
「でも……」
先にオムライスを平らげた真那が、顔を上げて、少し改まったような声を出した。
「家出ちゃって、それになんか聞いてたらお見合いもまだ正式に断ったかどうかわかんないんですよね。それって、不安じゃないですか?」
声色に気遣いを滲ませた真那にそう問われて、手に持っていたスプーンを下げた。しばらく躊躇ってから口を開く。
「会って……こようと思って」
長い沈黙の間、何度も睫毛を瞬かせた真那の顔が、怪訝なものに変わる。
「え? 誰に、ですか」
「かど……あの、お見合いの、相手だった人に」
「え、何で? 本気ですか? だって、どっちにしろ断るんですよね。だったら、普通そんなの、誰かを通じてとかするんじゃないんですか、よく知らないけど」
驚きに少しだけ大きくなった声のトーンをまた落として、真那が、今まであまり見たことがない真剣な眼差しを珠恵に向けた。
「うん、あの、本当なら、そうなんだけど。でも私、今家にも戻れないし、親とも……ちゃんと話せる状態じゃなくて」
「はい」
「だから、自分のことなのに、どういう話になってるのかも、お見合い、断ったのかも、何もわからないから」
「ああー、うーん、でも、でもね……ちょっと話聞いただけですけど、その人ちょっとなんか嫌な人みたいだし、大丈夫なんですか?」
さすがに門倉との間にあったことを全ては話せなかった。話の流れで、仕事を辞めるように言われたことや、誰とも付き合った経験がない女性というのが相手の希望だったとは話した。けれど、それだけで真那が門倉を嫌な人だと口にすることが不自然に思えて、問い掛けるような眼差しを向けた。
「嫌な、って」
「あ、そっか。あの、私ちょっとだけですけど、その人のこと森川さんから聞いてて」
「え、風太さんから?」
目を丸くして問い返した珠恵を見る真那の瞳が、嬉しそうな弧を描く。
「へえ……」
「え、な……何?」
急にニヤニヤし始めた真那に戸惑う。
「風太さん、とか呼んじゃってるんだ、ふうーん」
「へっ……あ、え、あの……そ、れは」
そんなことを指摘されて、思わず顔が赤くなるのがわかる。愛華といい真那といい、年下の子にからかわれていちいち狼狽えてしまう自分もどうかと思う。
「いいなぁー」
「あの、真那ちゃん?」
「だって、なんか森川さんも福原さんに連絡取れないって必死んなって、私にまで頼みごとするくらい本気ってことじゃないですかぁ。で、福原さんを家から攫ってきちゃうんだもん。ドラマみたい。福原さん、超愛されちゃってますよね」
「愛さ、れ……って、あ、あの」
その言葉ひとつで心臓がドキドキして、恥ずかしさにどんな顔をしていいのかもわからなくなる。黙ってしまった真那にチラッと視線を送ると、やはり嬉しそうな笑みを唇に浮かべたままひとり満足そうに頷いて、耳まで赤くしている珠恵を見ている。
「な、何?」
「今まで福原さんのこういう話、聞くことなかったからあんまわかんなかったけど。こういう時の福原さんって、なんかめちゃくちゃ可愛いですよねー。こういうのが森川さんも堪んないのかな」
「真那ちゃん、あの、もう」
「ていうかぁ。だからその顔」
「へっ、顔?」
「そういう顏されると、ついもっと言いたくなるんですよ。ほら、なんせSですから」
「ま、真那ちゃん」
熱くなった顔を手で押さえたまま目を泳がせていると、また楽しそうに笑った真那の口調が、少し変わった。
「まあ、今日はこのくらいにしておいてあげます。けど、真剣な話。その人、その見合い相手って、福原さんに何か酷いことしたんじゃないんですか」
「え? 門、倉さん?」
ようやく話が元に戻り、顔の熱を冷ましながら言葉を返した。いつの間にか真那の皿はきれいに何も残っておらず、珠恵の方も、少し冷めてしまったオムライスがあと二口程度しか残っていなかった。
「うん。あ、でも……言いたくなかったらすいません」
もう笑ってはいない瞳が、心配するように珠恵を見ている。
「なんていうか、私なんかじゃ聞いてもアレかもですけど、ほら、言うだけでもちょっと気が楽になったりすることってあるかもしれないし。あの、ただの興味本位じゃないですよ。まあ、ちょっとはそれもあるけど」
今度はちょっと気恥ずかしそうに笑った真那に、首を横に振って応える。気持ちが伝わってきて胸が温かかった。そこまで深く付き合いがあった訳でもない珠恵を、気遣ってくれるその思いが嬉しい。ほんの少しは興味本位だと、わざわざ口にしてしまう真那の正直さやその明るさも、今は有難かった。
「ありがとう。色々、心配してくれて。あの、門倉さんのこと、風……太さんは、何て?」
「私、福原さんは見合い相手と会ってるってことしか知らなかったから、あ、いやそれはいいんですけど。だから森川さんに話を聞いたときに、見合いはどうなったのかって聞いたんですよね。そしたら森川さん、こっわい顔して」
その時のことを思い出しているのか、少し空に視線を遊ばせた真那は、また珠恵の方へとそれを戻すと、風太が言ったという言葉をそのまま口にした。
――あんなクソ野郎に誰が渡すか
「って。まあ、それ聞いた時は私もキャーッとかなってましたけど。よくよく考えたら、何ていうか見合いしただけではさすがにクソ野郎とか言わないなあって思って。あの時の森川さん、すっごく怒ってる感じだったから、何かあったのかなって。何か嫌なこと言われたり、されたりしたとか」
ホテルの部屋で、門倉に問い詰められ縛られた時の彼の行為を思い出すと、今でも身体が冷たくなり嫌悪感に襲われる。珠恵は無意識のうちに手首を握り締めて、脳裏に浮かぶその記憶を封じ込めるように一度目を閉じた。
門倉が触れたのは、ただの上辺にしか過ぎない。この手首に、そして珠恵の身体に刻まれる記憶は、風太のものだけでいい。風太だけが自分の身体と心の中に触れたのだと、優しく切ないその熱を思い浮かべて、自分にそう言い聞かせながら目を開く。
「それは……大丈夫だから」
「でも」
「真那ちゃん、あの……私ね。私、あの人に、傷つけられたって、思いたくない」
「え?」
「私に傷をつけたって、そんな風にさえ思われたくない。門倉さんの痕跡を……例え傷でも、何一つ、ほんの欠片も自分の中に残したくないって思ってる。でも多分、それって本当は凄く酷いことだなって……。だって、上手く言えないけど、誰かの存在を全部なかったことにして消してしまうんだから。でも、それを全然何とも思わない自分がいて。私……それくらい、いい加減な気持ちだった」
「福原さん」
「いい加減だったから。風太さんのこと、忘れるために自分の気持ちを誤魔化して……どうでもいいって、誰でもいいって、そんな気持ちで多分、お見合いしたから」
そんな自分が恥ずかしくて、上手く言えないもどかしさも相まって苦笑いが浮かぶ。
「だから。最後ぐらいちゃんと、自分で、けじめをつけたい。こんなのただの、あの、自己満足だけど。私、風太さんと……いっしょにいたいから。だから……ちゃんと終わりにしたいって、そう思って」
「でも、いいんですか? 森川さん、嫌がるんじゃ」
「……うん……多分。でも、自分で蒔いた種だし」
「もしかして、内緒でとか思ってません?」
内心ギクリとしながら黙って真那を見つめ返して、そっと頷いた珠恵に向けられた表情が、難しそうなものに変わる。
「え、ほんとに?」
「駄目って……言われると思うから。でも、断ってくるだけだから。ただでさえ負担を掛けてしまってるのに、これ以上、心配かけたくなくて」
「うーん、でもそれって」
「終わったら、ちゃんと風太さんにも話すつもりだから。真那ちゃんにも……あの、ちゃんと、報告する」
「…………」
「あ、……迷惑、かな」
「え、ないないない。そうじゃなくって。それは凄く嬉しいけど……ほんと大丈夫ですか」
「うん、あの、ありがとう。話せる人がいなかったから……だから、真那ちゃんに聞いてもらえるだけでも、あの……凄く、嬉しい。ごめんね」
「何でごめんなんですか、私だって嬉しいのに。ごめんは、いりません」
照れながらも、真顔でそう答えた真那に、思わず笑みが零れる。
「何ですか? 私おかしなこと言いましたっけ?」
「ううん、あの……同じこと言うなって、思って」
「同じこと?」
「真那ちゃんと……風太、さん」
しばらく珠恵の顔を見ていた真那が、またニヤッと口の端を上げた。
「だから、前に言ったじゃないですか。森川さんと私じゃ被るって。それにその代り、遠慮なく色々聞いちゃいますから私」
「色々……って」
「だーかーらぁ、いろいろです。あーもー楽しみすぎる」
色々何を聞かれるのだろうかと、ちょっと怖気づく。少し笑ってから、思案するような表情を浮かべた真那が、口を開いた。
「わかりました。まあ正直、賛成ではないですけど」
「え?」
「見合い相手に会ってくるって話」
「あ……うん」
「その変わり、条件があります」
「条件?」
「会いに行く時は、必ず私に言って下さい」
「え?」
「会う前にですよ」
「……あの」
「そうしてくれたら、森川さんには内緒にしときます」
「……はい」
意図がわからず戸惑いながら、それでも、真剣な真那の眼差しに小さく頷いてみせる。確かにどこかで、真那が知っていてくれるのだということに、ホッとする気持ちもあった。
「にしても……」
ふーっと大きく息を吐き出した真那が、肩の力が抜けたような笑みを向けてくる。
「なーんか、お昼に濃いぃ話しちゃいましたねー」
「え、あ……うん」
「色々お腹いっぱいだ」
「あの、真那ちゃん」
「はい?」
「本当に、色々ありがとう」
「いえいえ」
本当は誰かに聞いて欲しかったのだと、珠恵は少し軽くなった胸の内にそう気が付いた。
顔を見合わせ互いに少し照れたように笑い合ってから、時計を見て慌てて残りのご飯を平らげて、殆ど時間ぎりぎりに走り込むように図書館へと戻る。
「さっきの、絶対ですからね。約束守らなきゃ、バラしますから」
仕事に入る間際、最後に門倉とのことをそう念を押すように珠恵に約束させた真那は、どちらが年上かわからないほど、しっかりした顔をしていた。