この家で過ごすようになって4日目。およそ一週間ぶりに出勤する日曜の朝、珠恵は目覚まし時計よりも早くパッチリと目が覚めた。
――どうせ一緒に寝んのに、何でわざわざ二枚敷くんだ。
揶揄っているのかそうでないのもかわからない風太の問い答えられないまま、夕べはもう初めから、一組しか布団を敷かせて貰えなかった。そこに横になったまま、隣で眠る風太の様子をそっと伺ってみる。
流石に暑かったのだろう、眠る時にはしっかりくっついていた身体は、今はタオルケットからもはみ出し、膝から下が畳に落ちてしまっていた。早朝とはいえ、部屋の温度が上がり始めていることに気がついて、珠恵は少し考えてから、緩めに冷房を掛けてみた。
そうして再び横になり、少し口を開けて眠る風太の無防備な寝顔をしばらくのあいだ見つめていると、不意に昨日の朝のことが思い出されて、珠恵はくすぐったさと恥ずかしさに、ついひとり目を逸らしてしまった。
昨日目が覚めた時は、今日とは逆に珠恵より先に起きていた風太に、こんな風にじっと視線を注がれていたのだ。
***
瞬きを二、三度繰り返し、ボンヤリとした頭で、どうしてこんなにそばに風太の顔があるのだろう、とそんなことを思った瞬間、「起きたか?」と目の前の唇が額に触れて、一気に心臓が凄い勢いで跳ね上がり目が覚める――。そんな、落ち着かない朝の目覚めだった。
寝顔を見られていたことにも、眠る前に交わした濃密な時間にも、そして上半身に何も纏わない風太の素肌が触れていることにも――珠恵は流石に服を着せて貰っていたが――羞恥が込み上げて、朝の光の中では余計に、顔をまともに見ていられなかった。
風太の唇から漏れた溜息が、肌を通して伝わり、そっと顔を上げてみようとしたその時。
「――ヤリてえ」
ボソッと独り言のような不穏な呟きが耳に届いて、いつの間にか囲い込まれていた珠恵の身体がピクリと動いた。
「あっ……あのっ」
「んー……?」
「ふっ、風太さんっ」
あー、とか、んー、とか言いながら、何気に服の上から珠恵の胸を弄ってくる風太の手を押し止めるのに必死だった。
「な、何してるんですかっ、だ、駄目です。こんな、朝から……起きて、下さい」
「あ?」
「しっ、仕事行く支度、しなくて、いいんですかっ」
「駄目か?」
「あっ、当たり前ですっ……夕べ、しっ、したじゃないですか」
しどろもどろながらも、小声で叫ぶようにして押し止めようとする珠恵に対し、駄目か、と言いながら風太の手は、防御を掻い潜り胸元でまだもぞもぞと動いていて――。
「一回しかやってねえじゃねえか」
「い、一回で、十分」
「んなわけあるか」
「……で、でも」
「お前、寝るし」
不満気な声でそんな事を言われて、確かに風太の腕の中にいる心地よさに、あの後、吸い込まれるように眠りに落ちたことを思い出した。
「だっ、だって……」
やめさせるつもりで文句を言おうとしたはずの唇が、全く違うことを問うていた。
「あの……ま、満足……出来なかった、ですか?」
珠恵は身も心も満たされた気がしていたけれど、やはり風太には物足りなかったのだろうかと、つい悪い方へ考えてしまう。そんな思考を遮るように、大きな溜息が耳を擽った。
「満足するかよ」
胸が、ほんの少しチクッとした。けれど続けて風太が口にした言葉で、今度は鼓動が跳ね上がる。
「一日中、お前の中にいてえ」
「……へっ?」
「ってくらい、いいから」
「あの、えっ」
「お前とやんの」
絶句したまま固まった珠恵の顔はきっと真っ赤になっていて、多分そこも赤いであろう耳を楽しそうに弾きながら、風太の身体が揺れた。からかわれたのだとわかり、つい顔を上げてしまった。
「もう……っ」
途端に唇をはじくようにキスをされ、もう一度固まった珠恵を緩く抱きしめた風太は、ようやく名残惜しそうに腕を離し身体を起こした。
「まあでも、しょうがねえな。ぐずぐずしてたら、おかみさんにどやされっからな」
そう言って立ち上がった身体からタオルケットが滑り落ちると、そこには何も纏わない風太がいて、驚いて声を上げそうになった珠恵は慌てて背を向けた。
珠恵のリアクションに笑う声に続けて、服を着替える音が聞こえてくるその間、ずっと枕に顔を伏せ鼓動を落ち着けるように小さな溜息を幾度も落としながら――。
珠恵はもう、風太に振り回され、その日のエネルギーを朝から全部使い果たしたみたいだった。
***
昨日は、そんなふうに始まった一日だったけれど、夜は珠恵が翌日から仕事だとわかっていたからか疲れていたからか、何もせず、ただ一緒の布団で眠っただけだった。
思い出したことにひとりで勝手に頬を赤くしていた珠恵の視線の先で、風太が僅かに頭を動かした。何か言いたそうに口元が微かに動いて、しばらくすると、また穏やかな寝息を立て始める。そんな様子を見ているだけで、胸がくすぐったく、そして少しだけ切なくなる。
眠る風太を見つめながら、このままこの人の中に溶けてしまいたいと願っていたのは、ほんのついこの間のことだったのだ。あの時の気持ちは、まだ消えずに生々しく自分の中に残っている。
「おはよう……ございます」
風太を起こさない程の小さな小さな声で、そっと呟いてみる。
「ふうた、さん」
何も返事はなくても、もう、いつでもこうしてそばに居られるのだと思うと、鼻の奥がじわりと痛くなり、泣きそうになる。
もっと見てたいな――そう思いながら、そろそろ起きて支度を始めなければならないと自分を鼓舞するように深く息を吸い込んで、珠恵はゆっくりと布団を離れた。
今日は送って行ってやると言っていたけれど、風太は久しぶりの休日のはずだ。最近は余りまともに寝てなかっただろうから、ゆっくりと眠らせてあげたい。
まだ鳴らない目覚まし時計のスイッチを切り、もう一度だけ寝顔を見つめてから、珠恵は、静かに音を立てないように部屋から出て行った。
いつもの早番より一時間程早く出勤した珠恵は、まずはすでに出勤しているらしい館長の須澤の元へ向かった。突然の長い休みで迷惑を掛けたことを詫びて、頭を下げる。
「ご家族から連絡を頂いていましたが、日頃真面目な福原さんのことだから、よほど具合が悪いんだろうって言ってたんです。身体は、もう大丈夫ですか?」
体調が悪かったというのは、結果的に半分は嘘ではなかったが、もう半分は真実から外れている。そのことに内心恐縮しながら、もう一度頭を下げた。
「はい……申し訳ありませんでした。もう、大丈夫です」
「そうですか。確かにこういうことがないに越したことはありませんが、無理し過ぎるのもよくはありませんしね。シフトを変わって下さった方には声だけでも掛けておいて下さい」
「はい」
「では、今日からまた、頑張って下さい」
その言葉にもう一度頷いた珠恵は、頭を下げて、ロッカールームへと歩きかけた足を止めた。
「あ……あの」
振り返ると、何か? と問うように須澤が顔を上げる。
「個人的な事なんですが。実は、あの……お見合いのお話は、なかったことになりました」
「え……。ああ、そう、なんですか」
反応に困ったのだろう、複雑な表情で珠恵を見た須澤に、再度頭を下げた。
「色々と勝手なことを言って、本当に、ご迷惑ばかりお掛けしました。あの……これからもここで、できれば長く働かせて頂きたいと……そう、思っています」
顔を上げると、暫くの逡巡の後、須澤が穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「わかりました。では、また今日から宜しくお願いしますね」
それを最後に、デスク上の書類へと視線を落とした館長にもう一度頭を下げて。
挨拶を終えた珠恵は、ロッカールームへと向かい、エプロンを身につけ髪を束ねて、一週間ぶりの慣れた仕事仕様の姿になった。それだけで、やはり身が引き締まる気がする。
まだ誰も人がいない図書館のフロアへと向かいながら、何故だろうか、まるで初めてこの仕事に就いた時のように、胸の高鳴りを感じていた。