「改めて言うのもなんだけど、とりあえず当面はあの部屋使ってていいからね。あそこは使ってないから。これからの事はあんた……珠ちゃんが少し落ち着いてから考えればいいよ。とにかく遠慮はいらないから、ここを自分の家だと思って、足りない物があれば何でも言うんだよ」
食事を終えた風太が風呂に入っている間、台所で後片付けを手伝っていると、喜世子が思い出したように珠恵の名を呼んでそう口にした。
皿を棚に戻す手を止めて、小気味いいリズムでザクザクと明日の朝食のための大量のコメを研いでいる喜世子の後ろ姿を見つめる。
この家はとても居心地がいい。人見知りをするはずの自分が、自然と甘えてしまえる空気があった。なにより他人に過ぎない珠恵をこうやって受け入れてくれていること自体、いくら感謝してもし足りないくらいだ。
「あの……喜世子さん」
「ん? なに」
「本当に、ありがとうございます」
言葉にならない思いを詰め込んで頭を下げた珠恵に、手を止めて顔を振り向けた喜世子は、頷いて唇を上げだけで、再び背を向けて米を研ぎ始めた。続けてシンクに研ぎ汁を流す音が聞こえてくる。
「うちも、賑やかになっていいよ。それに、こっちも遠慮はしないからね。ちゃんと手伝いだってしてもらうし」
「はい。あの、何でも言って下さい」
「もちろんそうさせてもらうよ。手はいくらあっても困らないからね。あの子らも手がいる時は出来るように仕込んであるけど、今はまあ学校もあるからね。そうそう、珠ちゃんだって仕事があるんだから、そっちが勿論優先だよ」
「……はい」
口を挟む間もない話しっぷりに、何とか返事を返す。
「それから。あんたはまだ病み上がりなんだからね、今日はもうこの辺で十分。助かったよ」
「あの」
「いいから、そろそろ風太が風呂から上がってくるし、珠ちゃんあんたも部屋でゆっくりしといで」
「あの……でも」
最後まで手伝うと言おうとした珠恵の手から、皿が取り上げられる。
「ただでさえ慣れない人の家にいるんだから、最初から無理する必要はないよ。ほら、風太の相手してやりな」
顔を赤らめる珠恵を見ながら目を細めた喜世子が、「そうそう」と何かを思い出したように、噴き出した。
「さっき風太にさ、あんたはどっちの部屋で寝るつもりかって、聞いてやったんだよ」
「えっ」
「そしたら、あの子ちょっとムスッとした顔して」
「あ、の、喜世子さ」
「んなわかりきってること聞くなって」
恥ずかしさに目を泳がせている珠恵の後ろにある食器棚に、手に取った皿を戻しながら笑っていた喜世子は、しばらくするとその手を止めた。
「風太はね……」
ポツリと風太の名前を口にした声色に、顔を上げる。どこか遠くを見るような目をした喜世子の横顔を見つめた。
「自分を待ってくれてる人がいる家に帰るってこと、知らずに生きてたから」
ゆっくりと珠恵の方へ顔を向けた喜世子が、溜息のような笑みを落とす。
――ただいま、珠恵
脳裏に、珠恵を抱きしめた風太の嬉しそうな顔が浮かぶ。切なさに胸が詰まりそうになって、目を伏せた。
「だからね……できるだけ、そばにいてやるといいよ」
泣いたりしないように唇を強く結んで、慈しむような喜世子の声にしっかりと頷く。
「……はぃ」
顔を上げて、泣き笑いのような表情を浮かべながらもう一度小さく返事をすると、珠恵を見つめた双眸が、それでいい、というように微笑んだ。
部屋へ向かった珠恵は、風太が風呂に入っている間に、夕べと同じように布団を二組並べて用意した。
並んだ寝床を改めて見ると、隙間なく敷いてしまった敷布団が恥ずかしくなり、ほんの十センチ程間隔を開けてみる。それでもまだ近すぎる気がしてもう少し距離を作ると、今度は離れすぎているような気がしてくる。布団を敷くのにどれだけ時間が掛かっているんだろうと思いながらも、さっきからずっと、落ち着かない気持ちを持て余していた。
やっぱり、ほんの少しだけ近づけてみようか――と敷布団にもう一度手を掛けた時、扉が開いて風太が部屋に戻って来た。
「……あ」
立ち止まり、二組並んだ布団をなぜか物言いたげに見つめている風太に、頭の中の葛藤を知られるのが恥ずかしくて、珠恵は顔を伏せたまま慌てて布団から手を離した。
結局――二枚の敷布団の距離は十五センチ程。
「疲れたか」
「あ……いえ。本当に、大丈夫です」
「ならいいけど、あんまり無理はするな」
気遣う言葉に、小さく頷く。二人しかいない部屋の中では、静かに話す風太の低い声が身体に直接響くように聞こえて、胸がずっとドキドキとしていた。
「はい。でも、あの……ここの家、とっても居心地がよくて、つい寛いでしまいそうです」
「いいじゃねえかそれで。今更、気い使うこともねえしな」
口角を上げた風太の視線が、布団の横に膝をついている珠恵に注がれる。意識し過ぎてまともに風太の顔を見ることができない珠恵は、すぐに視線を逸らしてしまった。
「あ、あの……お水か何か貰ってきます」
立ち上がってそそくさと部屋を出て行こうとする珠恵の手首を掴んだ風太が、「水ならある」と、手にしたペットボトルを持ち上げた。
「飲みてえのか?」
「えっ、いえ、あの風太さんが」
「何だ、飲ませてやろうかと思ったのに」
「へっ……あ、私は、いい……です」
途端に夕べの風呂でのことを思い出して、顔が赤くなる。必死で首を横に振る珠恵を見ながらクッと笑った風太は、そんな反応を楽しんでからかっているようにも見える。
「そりゃ残念だな。ほら」
「ひゃっ」
火照った頬にペットボトルが宛がわれ、その冷たさに声を上げると、もう一度唇の端を引き上げて笑った風太の視線が、ふと部屋の隅へと移動した。
熱くなった頬に冷えたペットボトルは気持ちよく、それを押し当てたままで、珠恵も同じ場所へと視線を移す。風太が顎の先で「――あれ」と、昌也が持ってきたバックを示した。
「あ、はい……あの、今日昼間に弟が」
「ああ、俺にも連絡があった」
「え?」
「様子、知らせてくれって頼んでたからな」
今日も二人が連絡を取り合っていたことに少し驚く。昌也はそんなことは何も言ってなかった。口を噤み荷物を見つめている風太が、知らせてくれと昌也に頼んだのは、珠恵を連れ出した後の家の様子だったのだろうか。
「お母さんが」
ポツリと口にした珠恵の声に、風太が顔を向けた。
「母が……荷物を用意してくれたって、そう、弟が言ってました。お金も、何かの時に使いなさいって、預けてくれてて」
「……そうか」
「……はい」
本当は触れなければならないとわかっていても、今はまだ、父の話はしたくなかった。
俯いてしまった珠恵を、風太が見つめているのがわかる。顔を上げようとした途端、腕が伸ばされ肩を引き寄せられた。
抱き締める腕に強引さはなく、ゆっくりと慰撫するように髪を撫で下ろす風太に身体を預けて、いつの間にか詰めていた息をそっと吐き出す。
「そうか」
静かに繰り返された風太の声が、小さな振動を通して身体に伝わるように届く。家のことを思えば、確かに感じる胸の痛みがある。けれど、今は何よりもこの場所が大切だった。
「はい……」
珠恵ももう一度そう頷いて。風太の肩口に顔を埋めるように、しばらくは目を閉じていた。
トクトクと耳に響く自分の鼓動はさっきより早いのに、触れ合う温もりの心地よさに、少しずつぼんやりとしてくる。頭の中が風太で一杯になって、他のことは何も考えられなくなりそうだった。
ゆっくりと目を開けて顔を起こすと、視界に色が飛び込んでくる。さすがにこの時期、眠るときは肩を出している風太の腕に描かれた、絵の色彩だった。
「……ん?」
動きを止めた珠恵に、どうした、と問い掛けるように声を漏らしてから、視線に気付いた風太が小さく笑みを漏らす。
「ああ、まだ、見慣れねえか」
「あ……いえ、あの……昌也が」
少しだけ身体を離して、風太を見上げた。
「弟が、見たって……そう」
「え? ああ、確かに見せたな。何か言ってたか」
「あ……の、びっくり、したって」
言葉を選ぶように答える珠恵に、風太が苦笑する。
「びっくりってか、ビビったっつってたろ」
「あ、えと、……はぃ」
「そりゃま、そうだろうな。こんなもん見たことない方が普通だって言ってたしな」
唇の端を僅かに上げて笑う風太を見つめながら、ふと昼間の昌也との会話を思い出した。
「あの、風太さん」
「ん?」
「昌也に、他に何か、言いましたか?」
「他に? 何のことだ」
問い返す風太は、本当にピンと来ていない様子だ。
「あ、いえ……あの……わ、私のことで」
「お前の? ああ、まあ……少し話したかもな」
「少し……ですか」
「何でだ?」
「まあく……昌也が、あの、は、恥ずかしいことを聞いたって」
言いながら、答えを聞いてもいないのになぜか恥ずかしさが込み上げてくる。知りたい気持ちも確かにあったけれど、珠恵はもう既に問い掛けたことを後悔し始めていた。
「恥ずかしい? 何のことだ」
「いえ、あの、やっぱりもういいです」
顔の火照りが戻ってきて、首を横に振ってからまたペットボトルをそっと頬に当てた。
「あの、明日も風太さん早いから、もう」
そろそろ休もう、と口にしようとした珠恵の様子を見ていた風太が、口元にニヤッとした笑みを浮かべた。
「あれか」
「あれ?」
ひとり楽しそうな風太を見ながら、珠恵は自然と一歩後ろに下がっていた。
「聞きてえか?」
「え……あの、いえ、やっぱりいいで」
「可愛いって」
「……え?」
「可愛くて仕方ねえってそう言った」
口をぽかんと開けて、風太の顔を見つめる。
「……へ……あの」
次に襲われたのは、頭が沸騰するんじゃないかと思う程の恥ずかしさだった。手にしていたペットボトルが床に落ちて転がり、少し先で止まったことにさえ気がいかない程、狼狽えて途端に顔を伏せてしまう。
「なんかあれだな。お前と弟って」
風太が、クッと笑う声が聞こえる。
「時々、すげえよく似た反応するのな」
まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかっただろう昌也が、それを聞いた時のことを想像すれば、恥ずかしいと言われた訳がよくわかる。次に会う時、弟にいったいどんな顔を見せればいいのだろうか。
「わ……たし、あの、歯……、歯を磨いてきます」
羞恥と熱さで、とてもまともに顔を見られそうになくて、まだ楽しげな笑みを浮かべているだろう風太に背を向けた珠恵は、逃げるように部屋を後にした。