本編《雨月》

第十五章 雨と飴2



一瞬のうちに頭の中が真っ白になる。
「……まっ…ふ、た、さっ…んっ」
 押し止めようとしてもびくともしない身体が、珠恵を逃がさないように囲い込んで。息を飲み込もうと口を開いた途端に侵入してきた舌が、まだ戸惑っている珠恵のそれを絡め取り、解すように蠢く。
 ズルズルと身体が落ちていきそうになると、腕を取られ肩に掴まるように引き上げられた。無意識のうちに指に力が入りシャツにしがみつくと、より近くなった風太の匂いと体温が伝わってきてもう何も考えられなくなる。
 小さく水を弾くような音が耳の奥に響いていて、頭の中が熱い。ぼんやりと目を開くと、焦点が合わないほどすぐそばにある風太の瞳が、珠恵を見つめている。その視線の強さに眩暈がしそうになって、再び目を閉じた。

 腕の力が少しだけ緩められ、何度も角度を変えて珠恵を翻弄していた唇がようやく離れた時にはもう、目は潤み、肩で息を繰り返していた。
 キスをしていた時よりほんの僅かだけ距離を取った風太の、まだ熱を灯したままの瞳が、珠恵をじっと見つめている。
「ぁ……あの」
「……何だ」
 ボソッと聞き返されて、言葉を見つけられないまま、ただ赤くなった顔を俯けてしまう。
 ――あれっ、珠ちゃんと風太さんは?
 居間の方から翔平の声が聞こえてきて、慌てて風太の身体を押しやろうとした。
「あ、の風太、さん、向こうで、翔平君が」
「だから?」
 少しも動じることのない風太は、珠恵から目を逸らさないまま、口元だけを僅かに動かしそう問い返してくる。深い色をした瞳と低い声に、珠恵の方はもう容量オーバーで眩暈がしそうだ。
「だから、だって……あの……皆が変に」
「珠恵」
「……はぃ」
 名前を呼ばれ、小さく頷く。
「皆はどうでもいい」
 何がどうでもいいのかもわからないまま見つめ返すと、風太が珠恵の瞳を覗き込むように見つめた。夕べ、目覚めた珠恵を見つめていたのと同じような目で。
「身体……ほんとにどこも、辛くねえか」
 拘束がほんの少しだけ緩むと、片方の手が伸びてきて頬に触れる。指が、抱き締めている腕の強さとは対照的に、まるで壊れ物に触るみたいにそっと珠恵の頬をなぞった。
「本当に……もう、大丈夫です。心配かけて、ごめんなさい」
 頷いてから、もっと風太を安心させたくて、笑みを浮かべてみせた。
「そう、か」
 風太の口元から安堵したような溜息が零れる。しばらく頬を擦っていた指の動きが止まってからも、珠恵を離す気配はなかった。何か言いたいのか、唇が僅かに開いては閉ざされる。それを繰り返した風太が、何度か瞬きをしてようやく声を発した。
「なあ……」
「はい」
 それだけ言うとまた口を噤んだ風太を、珠恵は問い返すように見つめ返した。
「あの、な……」
「はい」
「さっきの、アレ……も一回、言ってみてくれ」

「……あれ?」
「あー、翔平の奴が」
 翔平が、という時だけ、どこか不本意そうに視線を逸らして。
「言ってたあれ」
 返された風太の答えに、珠恵は腕の中で少しだけ目を丸くした。
「え? あ、の」
 なぜだか睨むように見つめ返されているが、恐る恐る口に出してみる。
「もしかして……おかえり、なさい、ですか?」
 答えの代わりに、風太は、何か文句があるか、とでも言いたげな顔で珠恵を見つめて、ほら、と促すように顎を上げた。
 そんな風太の目を見つめて口を開こうとした瞬間、頭の中に「お帰りなさい、あなた」というフレーズが浮かび、途端に頬が熱を持つ。
「……お、おかえり……なさい」
 動揺して、つい声が小さくなってしまう。それでも、たったそれだけの言葉に満足したかのように、風太の表情が柔らかなものに変わる。恥ずかしくて照れくさいのに、思わず、珠恵はもう一度その言葉を繰り返していた。
「お帰りなさい……風太さん」
「……ただいま」
 片側の頬を窪ませて、風太が笑う。珠恵の頬を指の腹でなぞりながら、「ただいま」と、そう繰り返し口にして。
 もう一度近付いた唇が、今度はそっと重ねられた。優しく啄み緩やかに食んで、やがて最後に小さな音を立ててゆっくりと離れていく。まるで離れたくないとねだるみたいに、珠恵の手は風太のシャツを強く掴んでいた。

 視線を上げた珠恵に苦笑いのような笑みを返してから、ようやく風太は拘束を解いた。
 胸の中が甘くてドキドキしてフワリと温かくて、笑みを返したいのに笑おうとすると涙が浮かびそうになる。深く溜息を吐いた風太が、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「学校行く前は、我慢したんだけどな」
「あ、の……風太、さん?」
「ん?」
 もしかして、仕事から戻って来た時に距離を感じたのは、そのせいだったのだろうか。
「じゃあ……仕事から戻った時、少し、よそよそしかったのって」
「ん? ああ……そうか、悪かったな」
「あ、いえ」
 理由がわかり少しほっとした珠恵は、慌てて首を横に振った。
「にしても、ったく翔平の奴、デレデレしやがって」
「え?」
「だいたい何がお帰りなさいあなた、だ」
「あの、え? 風太さん」
 ブツブツと呟く様子を目を丸くして見つめていると、風太の口元に再び笑みが浮かんだ。
「ああ、腹減ったな」
 ようやく完全に珠恵を解放して、ご満悦そうにそんなことを口にするのを聞きながら、解き放たれた方の珠恵は、途端に力が抜けてそのままその場にしゃがみ込んでしまった。
「おい、大丈夫か?」
 腕に顔を埋めて、首を横に振る。
「珠恵?」
 屈みこんで珠恵の様子を伺おうとする風太から、顔を隠してさらに小さくなる。
「どうした」
「どっ、どうしたって……こんなの。恥ずかしくて、どうやって、戻ればいいんですか」
 クッと笑う声に続けて、風太の体温がそばに近付いたと思うと、耳元で声が響く。
「なあ、耳、真っ赤だぞ」
「だ、誰の……せい」
 誰のせいだと思っているのか、口にしようとして顔を上げると、風太の目が思いがけないほど優しく珠恵を見つめている。その視線にドキドキしてそれ以上言葉を継げなくなる。
 ずるい――。
 こんな顔をされたら、もう何も言えなくなってしまう。
「珠恵、お前、あと五分くらいはここにいろ」
「え?」
「ちょっと熱冷ましてから戻ってこい」
「……風太、さん?」
「……見せたく、ねえからな」
「え?……あの、でも」
 意味がわからず呆けた答えを返す珠恵の額に、軽く唇が落とされる。立ち上がった風太は、それ以上何も言わず、動揺した珠恵を残しひとり廊下を曲がって姿を消してしまった。

 心臓がいくつあっても足りないくらい、昨日から風太には翻弄されっぱなしだ。鼓動を鎮めるように深く息を吐いて、もう一度腕の中に顔を埋めてみたけれど、風太の気配がまだ身体のそこかしこに残っていて、いっこうに熱が引いてくれそうにない。
「……もう」
 溜息を零して、珠恵が呟くように独りごちたとき――。
「もう、は、こっちのセリフなんですけど」
 冷たい声が聞こえて、驚きの余り声を上げそうになった。顔を上げると、階段の踊り場から呆れ返ったように珠恵を見下ろしている愛華と目が合い、固まってしまう。
 立ち上がり、わざとらしく音を立てて階段を下りてきた愛華が、目の前で立ち止まる。斜めに見下ろされる視線が痛い。
「マジここでヤリ出したらどうしよっかって思ってたんだけど」
「……や、やり出すっ、て」
「ハッキリ言っていいわけ?」
「あの、いえ……いいです」
 思わず必死で首を横に振ってから、珠恵は恐る恐る愛華を見上げた。
「あ、の」
「なに」
「……すみ、ません」
「べつに。つーかさ、大変だね」
「え?」
「盛った風太の面倒みんのも」
「さかっ……えっ」
 愛華の顔には、なぜだか憐れむような笑みが浮かんでいる。恥ずかしさと居た堪れなさに言葉を継げずにいると、廊下をほんの二、三歩進んだ愛華の足が、再び止まった。
「あ、珠ちゃんさあ」
 ――え?
 オネーサンからあんた、バカ珠恵を経た呼び方が、珠ちゃんに変わっていた。そのことに気が付いて、愛華の背中をじっと見つめる。
 ひと呼吸置くかのように間を空けて振り返った愛華が、珠恵を見つめて勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべた。
「風太と今何かやってましたーってダダ漏れな顔してるから、しばらくあっち行かない方がいんじゃない」
 それだけを言い残して、愛華もまた居間の方へと、廊下を折れて行ってしまった。
 ――あれ、愛華。あんた珠ちゃん見なかった?
 ――知んないけど、便所でも行ってんじゃないの
 居間の方から、喜世子に答えるどこかぶっきらぼうな声が聞こえてくる。
 去り際に愛華が告げた言葉で、さっき風太の言ったことの意味がようやく繋がって、また顔が火照ってしまう。
 これじゃあ五分どころか、当分居間になんて戻れないと、泣きそうになりながら、珠恵は小さく甘い溜息を、自分の胸元に落とした。



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