昌也が帰ってからしばらくは、喜世子の言葉に甘えて、奥でもう少し休ませて貰った。夕刻になって起き出したときには、随分身体が楽になったように感じられ、珠恵は夕食の支度を始めていた喜世子に申し出て台所で手伝いをしていた。
「あ、帰ってきたね」
調理し終えたおかずを食卓に並べていると、喜世子の声が耳に届いて、何か物音がしただろうかと珠恵が顔を上げるとほぼ同時に、玄関の扉を勢いよく開ける音が聞こえた。
「珠ちゃん、ちょっと迎えに出てやって」
頷いて玄関へと向かうと、丁度靴を脱いでいた翔平が顔を上げた。
「あっ、珠ちゃん」
「翔平君、あの……お帰り、なさい」
「え、あ……うん。ただいま」
なぜか俯き加減でボソっと返した翔平は、ハッと思い出したように珠恵を見上げた。
「身体、もう大丈夫? 起きてて平気?」
「あ、うん。病気じゃないから。それに、今日一日ゆっくりさせて貰ったし、大丈夫。あの……翔平君にも、心配かけてごめんね」
「や、でもよかったよ」
安堵したように頷いたあとも、翔平は玄関から動こうとしない。どうかしたのかと視線を返すと「あの、さ」と躊躇うように開いた口がまた口籠るように閉ざされる。
「何?」
「今のやつ……も一回、言ってくんない?」
「え? 今のって」
「あーほら。お帰りなさい、ってやつ」
珠恵が口にしたよりも女っぽい声色を出してみせる翔平が、なぜそんなことを言わせたいのかわからず、戸惑いながらも口を開く。
「翔平君、お帰りな」
――さい、と言い掛けたところで、それを掻き消す勢いで玄関の扉が開いた。
「だいまーっす」
声を上げて帰ってきたのは竜彦で、続いて親方が玄関へと入ってくる。そして、その後ろに佇む風太の気配があった。
「翔平、お前何やってんだ、早く上がれよ」
竜彦に背中を押され、なぜかむすっとした翔平が「いいとこだったのに」と舌打ちをして奥の居間へと向かう。そ知らぬふりで靴を脱いだ竜彦からも、身体を気遣う言葉を掛けられ、翔平に答えたのと同じような返事を返しながら、頭を下げた。
「そうか、良かった」
頷いた竜彦が奥に向かうのを見届けて顔を戻すと、続けて三和土から上がった親方と目が合った。その場で、深く頭を下げる。
「あのっ……この度は、本当にご迷惑をお掛けして」
「からだ……つらいとこ、ねえか」
そっと顔を上げてみると、眉根を少し寄せた親方が、珠恵を見つめている。
「……はい、あのお蔭様で」
「そう、か。えんりょは、いらねえから……うちに、いりゃあいい」
ゆっくりとした、どこかぶっきらぼうな口調でそう口にした親方は、珠恵の肩を喜世子と同じように二度軽く叩くと、すぐに目を逸らしてゆっくりと居間へと向かった。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
胸がまた温かくなって、後ろ姿に向けてもう一度深く頭を下げた。立ち止まり、何も言わずに小さく頷いた親方の耳はやはり赤くなっていて、そのまま振り向くことなく、居間へと消えた。
親方の姿が見えなくなり、そっと振り返る。最後に玄関に入って来た風太と目が合った。それだけで、胸がトクトクと鼓動を刻むのを感じる。真っ直ぐに見つめたいのに、こうして風太の帰りを家で出迎える気恥しさに、つい視線を俯けてしまう。
「……ただいま」
「あ……お帰り、なさい」
答えたあとも、玄関から上がる気配がないことに気が付いて顔を上げると、今度は風太が、ほんの少しだけ珠恵から視線をずらしてしまった。
「病院、行って来たか」
靴を脱いで三和土から上がりながらそう尋ねる風太に、吉永に叱られたことを話す。
「まあ、しょうがねえな」
少しの笑みを浮かべ、そのまま珠恵の横をすり抜けた風太は、気のせいだろうか、どこか余所余所しい感じがした。
昨日の夜との違いに、ほんの少し戸惑いを覚える。これから学校へ向かうのだからきっと気が急いているのだと、懸念を振り払い、皆が脱いだ靴を揃えてから、喜世子の手伝いをするために珠恵も急ぎ台所へと戻った。
風太と翔平は、慌ただしくシャワーを浴び軽く食事を取ると、すぐに学校へと出かけて行った。その様子を目の当たりにすると、大変さが身に沁みてわかる。これからまだ勉強をして、家に戻ってくる時間は九時半を回る。そんな中、自分のことで散々迷惑を掛けているのだと思うと、また申し訳なさが込み上げる。
玄関先まで二人を見送る時も、風太は翔平より先に出て行ってしまった。
「飯、ちゃんと食っとけよ。それから、待たなくていいから休んどけ」
そんなふうに、珠恵を気遣う言葉を残して。
居間へと戻り、その言いつけを守って喜世子や愛華達と一緒に、夕食を頂く。珠恵のためにだろう、今日の食卓には身体に優しい味付けと素材のメニューが並んでいた。
吉永から叱られた話を聞かれたり、竜彦や喜世子から美和の出産の話を聞いたりしながら、久しぶりにまともに食事を口にした。皆で食べるせいもあるのだろうけれど、それは身体の中に染み入るように美味しかった。
と、同時に、手を付けることのなかった母が用意してくれた食事のことが頭に浮かんで、少しだけ、ここでの食事を美味しいと感じていることに罪悪感を覚えた。
食事を終えると、愛華は早々に部屋に引き上げ、竜彦は近くに借りているアパートへと戻って行った。居間では、風呂から上がった親方がテレビを見ながらお茶を啜っている。とても、穏やかな時間だった。
「珠ちゃん、先に風呂済ませといたら。あの子ら帰って来てご飯食べたら多分もう一回入るから、待ってたら遅くなるよ。愛華は寝る前まで入んないし」
後片付けの手伝いが終わると、喜世子がそう声を掛けてくれる。人が多いから入れる者から済ませた方がいいのだろうと思いながらも、先に頂くことに躊躇していると、ゴミの始末をしていた喜世子が、からかうような笑みを浮かべた。
「ま、昨日みたいに風太と一緒に入りたいなら、野暮なことは言わないけどさ」
「へっ、いえっ、あのっ……一人で、入ります」
声がひっくり返りそうになりながら、慌てて首を横に振った。皆に知られているのだと思うと、羞恥のあまり顔が熱くなる。狼狽えたまま親方をチラッと見遣ると、そ知らぬふりをしてくれているのがまだ有り難かった。
また夕べのような風呂では参ってしまうと思い直し、先に入らせて貰うことにする。
「風太は多分、気に入らないだろうけどね」
そう言ってニヤッと笑ってから、浴室の使い方を説明してくれる喜世子の目を、珠恵はまともに見ることなどできなかった。
「あの、じゃあ、お言葉に甘えて、お先に頂いてきます」
そそくさと居間を後にした珠恵の耳に、どこか楽しそうに笑う喜世子の声が聞こえた。
十時少し前になって、翔平と風太が学校から戻って来た。風呂上りに、昌也の持ってきてくれた部屋着のような服装に着替えていた珠恵は、そのまま玄関へと迎えに出た。
「ただいまっ、珠ちゃん」
「お帰りなさい、翔平くん」
少し眠そうな、けれど楽しげな笑顔を浮かべる翔平に、笑みを返す。
「くーっああーっ、何かいいよなー」
機嫌よくそう口にする翔平に、問いかけるような眼差しを向けた。
「や、ほら何かさあ、お帰りなさい、あ、な、た、って新婚さんみたいで――っ、い、痛ってぇ、何するんっすか」
「いいから早く上がれ」
後ろから風太に頭を軽く叩かれた翔平が、さっき竜彦から言われたのと同じセリフを言われて、また少しむくれた顔をする。
――お帰りなさい、あ、なた……
翔平の言葉を頭の中で反芻した途端、顔が熱くなるのがわかる。誤魔化すように火照った頬を押さえながら、珠恵は二人の遣り取りを聞いていた。
「邪魔だほら、俺が上がれねえだろ」
「いいじゃないっすか、これくらい減るもんじゃないっしょ。な? 珠ちゃん」
風太に三和土から押し上げられた翔平が、珠恵に同意を求めるように笑みを向けてくる。
「えっ……あ、う、ん」
答えに困り、曖昧な笑みを返す。
後ろを振り返った翔平は「あーはいはい、わかりましたよ」と、なぜだかその顔に苦笑いを浮かべて。珠恵へと向き直り肩を竦めてみせた。
「ただいまーっす」
声を上げて、居間へと入って行った翔平を追っていた視線を戻して、その場に残された珠恵は、どんな顔をすればいいのかわからず、おずおずと風太に視線を向けた。
「あ、の……お帰り、なさい。お疲れ様でした」
「……ああ」
風太は、先程と同じようにどこかそっけない口調でそれだけを答えると、三和土から上がり珠恵の横を通り過ぎていく。やはり何かあったのだろうかと気に掛かりながら、皆の靴を揃え、立ち上がり振り向いた珠恵の目に、足を止めた風太の後ろ姿が映った。
「あの……風太さ」
背を向けたままの肩が、深く吐き出された息と共に少し落ちる。
「――え?」
小さな呟きと舌打ちのような音が聞こえたかと思うと、珠恵の腕を取った風太は、玄関のすぐ脇から、居間ではなく二階の階段へと続く廊下を折れた。
「風太さっ……んっ」
気が付けば、珠恵を壁に押し付けるように抱き締めた風太に唇を塞がれていた。