本編《雨月》

第十四章 冷雨2



 いったいどれ位の間、誰も言葉を発していないのか、もうわからなくなるほどの沈黙が続いた。
 夏なのに凍ったような部屋の空気に、昌也はなぜか自分が冷静になっていくのを感じていた。隣では、ようやく泣き止んだ母が、その冷気を生み出している父とそして昌也とに、時折、視線を送っていた。何か言いたげに口を開きかけては、見つからない言葉を呑み込むように俯くことを繰り返しながら。
「お父さん」
 大袈裟ではなく、十数分ぶりに言葉を音にしたのは昌也だった。この空気を払拭することはできそうにはないな、と思いながら、顔を上げ膝の上に置いた手を握り締めて。返事の代わりに冷やかな眼差しをこちらに向けた父に、怯んだりしないように全身に力を入れていた。余裕なんて全くないくせに、明日はきっと筋肉痛だと、どうでもいいことを考えられる自分が不思議だった。
「姉さんの携帯は? もう持ってる意味ないだろ。返して」
「そんなものはもう解約した」
「……は? え、解約って」
 予想もしていなかった父の自分勝手な行動に、また憤りを感じる。
「お父さんの物じゃないだろ。何でそんな勝手なことができんの?」
「自分の子どもの物を、親である私が処分して何が悪い。お前も珠恵もいったい誰のお蔭でここまで大きくなれたと思っている。そんなこともわからず、好き勝手をしている娘の物を私がどうしようと、とやかく言われる筋合いはない」
 あくまで平行線なまま交わることのない考え方に、重い溜息を零したくなる。
「得体のしれない男が家に入り込んで、私が留守の間にコソ泥のように娘を連れ出して。色々と偉そうなことを言っていたが、所詮はやはりそういう男だったということだろう」
「だから、さっきから何度も言ってるだろ。森川さんに姉さんを任せたのは俺だって。本当に姉さんがあのままなにも飲まず食わずで、何かあったらどうするつもりだったんだよ」
「珠恵も……そこまで馬鹿ではない。そうなる前に、音を上げただろう」
 流石に後ろ暗い気持ちがあるのか、父の目が僅かに逸らされる。苛立ちを誤魔化すように眼鏡を上げて息子へと視線を戻した父親を、昌也はこれまでにないほどの強い怒りを込めて、見つめ返した。
「わかってないよ」
「……何をだ」
「お父さんは、姉さんのこと何もわかってない」
「偉そうな口を……何もわかってないのはお前たちの方だ」
 わかっていない、と昌也が口にした時、僅かに父の眉が動いた。眇めた目には今度こそ明らかな苛立ちが浮かび、睨み返すような視線が昌也に向けられる。
「あ、あなた」
「お前もだ。なぜ、私に連絡しなかった。あんなロクでもない男に、よく自分の娘を渡せたものだな」
 口を挟もうとした母に、苛立ちの矛先が向く。
「でも……あ、あの人は、そんな悪い人には、見えませんでした。そんな、あなたが仰るような、ヤクザだとか」
「お前は何も知らないから、そんな悠長なことが言っていられるんだ。あの男がいったいどんな生まれ育ちをしていると思ってる。警察の世話になったことも一度や二度じゃない。ヤクザに育てられて、身体に刺青を彫っているようなそういう男だぞ。まともに学校にすら行かず、暴力沙汰を繰り返して鑑別所に入れられたような、そういう奴だ。そんなクズみたいな男と一緒になって、珠恵が本当に幸せになれると思ってるのか。私の娘が、なぜそんな男と」
 父の言葉を聞きながら、頭の中に、今日自分が目にした光景が何度も浮かんだ。男の肌に彫り込まれた極彩色の刺青。俺みたいな男は珠恵に相応しくないと言った森川の言葉。姉を可愛いと口にした声。迎えにきた森川に向けられた姉の表情や、病院でも家でもずっと―ずっと姉の手を握って離さなかった森川の顔。
「結局……それなんだろ」
 唇に、自然と笑みが浮かんでいた。それは嘲笑にも似たもので、父の目が咎めるように昌也に向けられる。

「昌、也」
 母の手が腕に触れて、止めようとしているのだろうか、軽く揺さぶるのを感じる。けれど一度溢れ出た気持ちを、今更もう取り繕うことはできなかった。自分自身の進路の話をした時でさえ、昌也が父にこういう態度を見せたことはなかった。
 何にだろうか、突き動かされたように感情が表に溢れ出てきてしまう。今日一日の出来事にまだどこかが興奮状態にあるのだろうか。そうでなければ、父にこんな風にハッキリと、そして冷静に口をきけるとはとても思えなかった。
「結局は自分のことなんだろ。姉さんのためとか言って、本当は私の、って、それが本音だろ。今回の見合いだって、お父さんの自己満足のためのものじゃないか」
「どういう意味だ」
「だってそうだろ。お父さん、上司の顔を潰すことがないようにって、そう言ってたじゃないか。自分の出世のためと、自分の子どもじゃ満たすことができない虚栄心を満たすために、姉さんを利用したようなもんじゃないか」
「お前は、本気で言っているのか」
 怒りのためだろうか、初めて、父の顔色がハッキリと変わるのを目の当たりにした。そのことに、いつでも冷静で感情的になる姿などほとんど見せることのない父が、こんな時だというのに、いつもより人間らしく思えた。
「そうだよ。本気で言ってる。お父さんが、姉さんと森川さんのことを反対してるのって、本当に姉さんのためだけ? きっと違うよね。自分の子どもが、自分の思うとおりにならないのが許せないんだろ。自分の価値観を押し付けて、それに見合わないものは絶対に受け入れようとしない。同じ価値観を持てない人間は、お父さんにとって皆出来損ないのクズなんだろ」
「昌也、お前は」
「確かに、森川さんにはそういう過去があるのかもしれない。だけど、少なくとも俺には今のあの人が、お父さんが言うようなクズみたいな男には思えなかった。お父さんは姉さんに、森川さんがお金をせびったようなこと言ったみたいだけど、そんなすぐにばれるような下らない嘘までついて、恥ずかしくないの」
「……どうして、嘘だと言える」
「わかんないよ。本当は、どっちが本当かなんて。でもただ……姉さんは森川さんを信じるって言った。森川さんだって、やってないって。だから」
「口では何とでも言える」
「それでも、俺は今のお父さんより……森川さんの方が信じられるよっ」
「ならお前は珠恵が不幸になっても構わないと、そう言うのか。門倉君という、申し分のない相手を蔑にして、選んだ男がよりにもよってあんなヤクザ者だと、ああいうどこの誰ともわからないような男が、この家に関わることを喜んで受け入れる親がどこにいる」
「じゃあ本当にその見合い相手となら、姉さんは幸せになれんの? お父さんが気に入るくらいの人なら、きっとお父さんみたいな凄いエリートなんだろ。けど、そういう人といることを姉さんは本当に望んでたの? 俺にはそうは思えないよ。だって、それを望んでるのはお父さんじゃないか。だいたいそれが幸せなら、何で姉さんはこの家にいていつも自分を押し殺したあんな自信のない顔してんの? 姉さんは自分のこと、私なんかって、いっつもそんな風に蔑むように言う。そう言わせてるの、お父さん、あなただよね。俺だってそうだよ。ここは……この家にいるのは、息苦しい。いつもいつも、お前は駄目だって、出来損ないだってそう責められているようで、苦しくて堪んなかった」
「昌也、あなた……」

 父は険しい表情のまま、昌也を睨み返していた。腕を握る手に力が込もるのを感じて顔を向けると、母が呆然と昌也を見つめていた。その母の手を、そっと腕から離す。
「……少なくとも」
 もう一度、目の前にいる父に視線を戻した。
「あの人……森川さんは。この家の家族の誰より、姉さんのことを大事に思ってるよ。姉さんの気持ちを踏みにじって監禁したり、食事も取らずに自分の意志を貫こうとする姉さんの本気を見抜けないお父さんみたいな父親や、自分の意志で何一つ決めることもできない、娘の……力にもなってやれないお母さんみたいな母親や……そんな家族の中に姉さんだけを置き去りにして、自分だけが楽な場所に逃げてる俺みたいな弟より。森川さんの方がよっぽど真剣に姉さんのことを心配してくれる。俺だって、あの人のことなんか何も知らないよ。もしかしたら、お父さんが言うように酷い男なのかもしれないって、そんなことだって考えるよ。でも森川さんといる姉さんを見たらさ……だってあんな安心した顔、俺、この家の中で一度も見たことなかった」
「わけの……わからないことを」
「わ……私も……私も、そう、感じました」
 その時、隣に浅く腰を下ろしていた母が、顔を上げて、振り絞るように言葉を発した。
「ずっと、本当はずっと迷っていました……。あなたの仰ることには間違いがないって。それが、あの子にとっても幸せなんだって……珠恵のためだってそう、思いながら。門倉さんとのお見合いを、あの子は本当は、無理してるんじゃないかって。わ、私は、こんな母親で、だからあの子は何も言ってはくれなかったですけど、きっと、ずっと言いたいことも言えずに我慢をして。それに……あのけ、怪我だって、本当に、あの人がやったんでしょうか。今日、うちに来たあの人は……とても、珠恵のことを」
「お前は――」
 母の言葉を遮るように、父が口を挟んだ。
「あの男でなければ、誰がやったと言いたい。まさかお前まで……珠恵のいうことを信じたんじゃないだろうな」
「で、でも、珠恵は……そんな嘘を吐くような子じゃ」
「実際、嘘をついていただろう。後ろめたいことがないなら、嘘を吐く必要もなかったはずだ。本当に言いたいことがあるのなら、きちんと筋道を立てて話せばいい」
「でも、それは……」
「お父さんみたいな人には、言いたいことが上手く言葉にできない人の気持ちは、絶対に理解出来ないよ。何も言わせなかったのはお父さんじゃないか。言っても、それが自分の意に添わないものなら切り捨てるくせに。今だってそうだろ」
「簡単に切り捨てられるような」
「しょせんは簡単に切り捨てられる程度の意見でしかないって? そう言いたいんだろ。そんなお父さんに、自分の思ってることを伝えようとするだけで、俺らがどんだけ気持を奮い立たせなきゃならないかなんて、わからないよね。きっとわかって貰えるはずないって言う前にわかるから、俺たちには言葉を呑み込む癖がついてるんだよ。それでも姉さん、きっと必死だったんだ。言葉じゃ伝わんないから、あんな風に自分の全部をかけるようなことして。姉さん、本気だったよ。お父さんがわかったって言うまで、死んでも絶対何も口にしないつもりだった。きっと目を覚ますだろうって、本当にそんな風に考えてたんならお父さんは甘いよ。人の気持ちを甘く見てる。見下してるから想像もつかなかったんだろ。森川さんのこと認めてもらうために、そこまでする気だったって」
 父の声を遮り、一気に言葉を吐き出した。全力で走ったあとみたいに、息が切れる。気圧されたかのように、父は口を噤んでいた。さっきの反応からも、本当に珠恵が何も食べていなかったとは思っていなかったのだろう父は、流石にそのことを言われると、言い返すための言葉を探しても、すぐには見つけられないようだった。
「姉さんは馬鹿だって思うよ。わかろうとしないお父さんなんか放っておいて、さっさと出て行けばよかったんだ。お母さんが運んでくるご飯を、こっそり食べればよかったんだ。お母さんだって、本当は何度もそうさせようとしてたのに。でも、それだけ本気で」
「だからといって。私は、あの二人のことを認めるつもりはない」

 僅かに息を吸い込みながら、静かな声がそう答えるのを聞いた。
 結局父には何も伝わるものがなかったのかと、虚しさに身体中が疲弊したかのような重たさを感じた。姉の本気の抵抗も、この人の感情を動かすことはなかったのだろうか。
 胸の痛みに震えそうになる唇に無理矢理笑みを浮かべて、昌也は父を見上げた。
「姉さんさ……森川さんが迎えに来ても、それでも、あなたにわかってもらうまで、ここから出て行かないって、そう言ってたんだよ」
「……馬鹿、らしい。結局は、一緒に出て行ったのだろう」
「あなたはっ……じゃあ珠恵が、本当に死ねばよかったってそう仰るんですか」
 母の悲痛な声が、胸に響く。
「そうなる前にどうとでもやりようはあった。だが……もういい」
「もういいって、どういう意味だよ」
「あなた」
 ソファに背を預けた父が、投げ遣りな口調でそう口にした。
「もう……好きにすればいい」
 許すと、そういう意味だろうかと願うほんの僅かな希望も、そんなに甘いものではなかったと、次の言葉ですぐに打ち消された。
「珠恵が自分の意志でそうするというなら、どうなろうが放っておけばいい。そういうことだろう」
「あなた、でも」
「好きでここを出て行ったんだ。そうまでしてあの男といるというのなら、勝手にすればいい。私ももう、珠恵を娘だとは思わない。ここは私の家だ。二度と、珠恵をこの家に入れるな。お前たちもそのつもりでいなさい」
「お父さん」「あなた」
 非難するような声を上げた二人を、ソファから立ち上がった父が、感情を隠しているのか、それとも本当に何も感じないのかももうわからない、普段と変わらぬ冷静な表情で見下ろした。
「昌也、それにお前もだ美佐子。そんなにここが気に入らないのなら、お前たちも出て行けばいい」
 そう口にした父は、もう話すことはないというように、二人を置いて書斎を後にした。
 緊張と虚しさ、そして息苦しさを吐き出すための長い溜息を漏らして、昌也は両手で顔を覆った。

 それでも――
 白くなるほど強く握り締められていた父の手だけが、父もまた、本当は冷静ではないのだと、昌也に教えてくれていた。


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