本編《雨月》

第十四章 冷雨1



 昨日から姉が世話になっているその家の扉を閉めて、昌也は、そっと溜息を零した。
 ここは、うちと違って温かい。ここになら姉を預けても心配ないだろう。それは、森川が昨日姉をこの家に連れて帰った時から、感じていたことだった。

 姉を運び込んだ病院の、ほんの目と鼻の先にある古びた日本家屋。扉を開けるかどうかのうちに、文字通り飛び出すように玄関に走り出てきた女性は、怒ったような強張った顔をして、事情を説明する森川とその背に負われた姉の顔を交互に見ていた。
 短い説明が終わるのも待たず、森川とほとんど弟だとしか名乗っていない昌也に的確な指示を出しながら、姉のためにすぐに部屋を用意してくれたその女性が出て行ったあと、しばらくの間、昌也は森川と二人その部屋で、眠る姉に付き添っていた。
 いつのまにか夜になっていて、喜世子さんという先ほどの女性が、姉の様子を見がてら部屋に顔を覗かせて、食事ができているからよければと、昌也に声を掛けてくれた。
「俺はいいから、食ってこい」
 そう言った森川は、この家に帰って来てからも、ほとんど姉から目を逸らすことなく、ただずっとその手を握り締めていた。時折頬や髪に触れ「珠恵」と静かに姉の名を呼ぶ声が、昌也にさえ切なく届くだけだった。

 姉の様子は気掛かりだったが、この男がそばにいれば大丈夫だとそう思うと、途端に空腹を自覚してお腹がぐうっと鳴った。振り返った森川の視線を感じ、気まずさに顔が熱くなる。そんな昌也を見つめた男の口元に、ふっと笑みが浮かんだ。
「いいから、行ってこい。おかみさんのメシ旨いぞ。ここは遠慮するような家じゃねえし」
 少し躊躇ってから頷いて、姉のことを頼んで部屋を後にする。森川は、もう振り向くことはなかった。
 教えられた居間に入ると、建築現場で見かけた面々が、すでに食卓についていた。
「そこ、珠ちゃんがいつも食べてる場所だから」
 と、翔平と呼ばれていた若い男に示された場所に昌也が腰を下ろすと、挨拶をするまもなく、親方のいただきますの声を合図に、皆が食事をとり始めた。並んだ料理の量に圧倒されながら、それでもいつもより少ないというそれに、昌也は空腹に勝てず勧められるままに手を伸ばしていた。
 食事をしている間も、皆が姉の様子を代わるがわる訊いてくる。ここの人たちが、姉を心から心配しているのだと伝わってくる言葉に、昌也は少し泣きたくなった。

 スクーターに跨りヘルメットを被る。外気はもう夏のそれで、暑さに思わず顔を顰める。
 そうして、さっき珠恵には冗談半分で口にしたが、この気温とは真逆だった夕べの家の様子を思い出して、昌也はもう一度溜息を零した。


 空気が凍るって、こういうことをいうんだな――
 父の前に腰を下ろしながら、そんなことを考えていた。
 夕べ夜遅くに家に帰って来た父は、いつものように玄関まで出迎えにこない母を恐らくは怪訝に思いながら、リビングの扉を開けたのだろう。
「珠恵は」
 その目が昌也を捉えた途端、開口一番そう母に問い掛けていた。
「あの……あなた」
「姉さんならいないよ」
 顔色を変えるでもなく眉を微かに上げた父の視線が、もう一度ゆっくりと昌也に向けられる。たじろがないよう、じっとその目を見つめ返していた。
「お前は、何をしている」
「何をしてるはこっちの台詞だよ。お父さんこそ、いったい姉さんに何したの」
「お前には関係がない。美佐子、いったいどういうことだ、どうして珠恵が家にいない」
「あ、なた……あの、それは」
「姉さんは、森川さんに連れ出して貰った」
「……あの男を、家に入れたのか」
「あのまま姉さんを放っておく訳にいかないだろ。だから俺が頼んで、来てもらったんだ」
「お前は何をしていた」
 父の厳しい視線が、母へと向かう。
「お母さんじゃない、俺が勝手にやったんだ。だからお母さんを責めないでよ」

 今や眉間に険しい皺を寄せた父は、無言で踵を返しリビングを出て行った。足音から二階へ向かったのだと気が付き昌也があとを追うと、扉が開きっぱなしの今は誰もいない姉の部屋の前に佇んでいた父が、胸ポケットから取り出した携帯を操作し、それを耳元に当てた。
 訝しく思う昌也の前で、相手が応答したのか父が口を開く。
「もしもし、福原と申します。夜分遅くに申し訳ございませんが、池ヶ谷先生はご在宅でいらっしやいますか」
 池ヶ谷――
 その名前に聞き覚えがあり、しばらく考えるうちに、それがうちと付き合いのある弁護士の名前だと気が付いた。
「ああ、いえ。実は個人的なことで、少し急を要しまして、先生の方でどなたか警察にお知り合いがいらっしゃれば」
 何を言いだすつもりかと驚いて、昌也は咄嗟に手を伸ばし、父から電話を奪い取った。
「返しなさい」
「あのっ、すいません。何でもありませんので」
 恐らくは池ヶ谷という弁護士の家族か誰かだろう、電話の向こうから聞こえた女性の声にそれだけを告げた昌也は、父の手を逃れながら通話を切った。
「何、考えてんだよ。警察って何それ」
「怪我を負わせた上に、勝手に人の家に入り込んで娘を連れ出したんだ。立派な犯罪だろう。ああいう輩は、警察に任せるのが一番」
「そんなことしてもお父さんが恥をかくだけだって、何でわからないんだよ」
 思わず声を上げて、父の言葉を遮っていた。横目で昌也を見つめた父からは、冷たい空気が流れ込んでくるようだ。後を追って二階に上がって来た母も、黙って睨み合うように視線を合わせている夫と息子を、狼狽えながら見ている。
 本来の冷静沈着な父であれば、自分がしようとしていることの愚かしさに気付かぬ筈がない。そうとはとても見えないが、流石に父も、実は冷静ではないのだろうか。
 手の中にある携帯が震えるのを感じ、チラッと視線を送ると、池ヶ谷という名前が表示されていた。身動ぎもしない父の顔を見つめたまま、通話ボタンを押して耳元にそれを当てる。先程の電話を気にして折り返してきたのだろう、池ヶ谷と名乗った相手に、もう一度何でもないと詫びて通話を終えるまで、父は無言で昌也を見つめ続けていた。
「……わかってんの? 姉さんはもう立派な大人だって。自分の意志を持った一人の人間だって。そんな姉さんが、自分の意志で出て行ったんだ。無理矢理拉致した訳でも何でもない。警察に言って、それをどうしてもらうつもりなの」
 固く唇を結んだ父は、物も言わず、姉の部屋に背を向けて階下へと下りて行った。深く息を吐き出して、心配そうに昌也を見遣る母と視線を合わせてから、恐らく父は書斎に向かったのだろうと当たりを付けそのあとを追った。

 開いた扉から中へと足を踏み入れると、やはり父は、いつもの定位置にスーツ姿のまま腰を下ろしていた。疲れた様子で目を閉じ、眉間を指で揉みながら燻る怒りを堪えるように短い息を吐き出している。昌也達が部屋にいることに気が付いていながら、目を開けようとはしない父の前に、腰を下ろした。
「――わかってるって思うけど」
 しばらく黙っていた昌也が口を開くと、ようやく父が目を開き顔を上げた。
「警察なんかに話したら、お父さんがしてたことの方が問題になるよ」
「……何のことだ」
「鍵をかけた部屋に姉さんを閉じこめて、その上、何日も飲み食いもさせなかったんだ。姉さんを診た医者の先生に言われたよ。それでも本当に家族なのかって。殺すつもりだったのかって」
「何を大げさな」
「食べてないだけじゃなくて、水も飲んでなかったんだ。大げさって言うけど、体調や人の体質とか気温とか、そんな悪条件が重なれば、本当に取り返しがつかないことになってたかもしれないって。もう少し遅かったら、もっとその可能性が高くなってたって。これは、脅しじゃないって、そう言われたよ」
 昌也に続いて書斎に入ってきていた母が、その言葉にしゃがみ込んだ。立ち上がり、震えるその身体を引き起こして、ソファに腰掛けさせる。顔を覆ったまま泣き始めた母の嗚咽だけが、静まり返った部屋の中で聞こえる唯一の音だった。
「……本当に」
 瞬きもせずに一点を見つめながら、父が、何か言い掛けた口をいったん噤む。心なしか、顔色を失くしているようにも見えた。
「何も、口にしていなかったのか」
「……そう、です……何度も、そう言ったじゃありませんか」
 嗚咽の合間に、母が口にする声が僅かに尖ったものになる。ほんの少しであっても、それは昌也が初めて聞く母の声色だった。
「そう、言っているだけだと……」
「本気にしてなかったんだ」
 責めるような口調に、僅かに目を逸らした父が、そのまま唇を強く引き結んだ。
「診断書も貰ってる。だから、警察沙汰にしてマズいことになんの、きっとうちの方だよ」


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