本編《雨月》

第十三章 雨と水無月7



 午後になると、荷物を持った昌也が古澤家を訪ねて来た。
 昨日すでに顔を合わせていたからだろう、弟を案内する喜世子の口調は、珠恵の時もそうだったようにもうすっかり親しげだ。
 居間に入ってくると、手にしていたボストンバッグと紙袋を下ろした昌也が、ホッとしたように息を吐いた。
「顔色、随分まともになったね」
「うん、ありがとう、まあ君」
「これ、とりあえず少しずつだけど、当面必要そうなもの持ってきたから」
「あの、ごめんね……いろいろ、迷惑かけて」
「ほんと、昨日みたいなのはもう勘弁して欲しいよ」
「ごめん……」
 喜世子が用意した座布団に、大袈裟に息を吐きながら腰を下ろして、昌也は呆れたような、けれどどこか嬉しそうな顔を珠恵に向けてくる。申し訳なさとばつの悪さについ目を逸らしていると、喜世子が笑いながらグラスに入ったお茶を持って入ってきた。
「もうね、朝から私に叱られて、さっき吉永先生のとこでもまた説教食らって、おまけにうちの娘にまで叱られてたみたいだから、ほどほどにしてやって」
 小さくなった珠恵が顔をそっと上げると、噛み殺すように笑みを浮かべた昌也と目が合う。
「あの人相も口も悪い先生から説教喰らったんだ。実はさ、昨日、俺も怒られた」
「え? 何で」
「俺っていうか、うちの家族っていうか、まあ、そういう」
「でも、まあ君は」
 語尾を濁し苦笑いしている昌也は、けれど昨日まで何も知らない立場だったのだ。

「まあでも。それはいいんだ」
 珠恵の言わんとすることを柔らかく否定した昌也は、話を変えるように言葉を区切り顔を上げた。
「あの先生から怒られたんなら、姉さんももう充分だろうから俺が怒るのは控えとくよ」
「まあ君」
「でもほんと、昨日はさ。もう何がどうなってんだかわかんなくて、とにかく、色々びっくりした」
「……う、ん」
 珠恵自身ですら、ここ数日の状況にはついて行くのが精一杯なのだ。何も知らずにいきなり巻き込まれた昌也はなおさらだろう。
「まあ君、あの、家のほうは」
 出てきたきりの家のこともずっと気になっていた。口元から笑みを消し去り、真剣な面持ちになった昌也が、口籠りつつ頷く。
「まぁ、さ。隠しても仕方ないから言うけど。昨日、帰って来たお父さんには、聞かれる前に言っといたから。俺がやったって。森川さんを連れて来たのも、家に入れたのも、姉さんを連れ出してもらったのも、お母さんじゃなくて俺だからって」
「ごめん、まあ君は関係ないのに、巻き込んで」
「関係なくないだろ」
「でも」
「弟だよ、俺。だいたいさ、赤の他人の人達がこうやって親身になってくれてんのに、弟の俺が関係ないって顔できないだろ?」
 同意を求めるように顔を向けた昌也に、台所にいた喜世子が頷いて笑みを返す。その様子にまた、珠恵は目の奥が熱くなるのを感じた。
「だから、お母さんが何か言われることは……全くないとは言えないけど。俺もお母さんだけが責められることはないように、なるべく話してみるから」
 視線を珠恵に戻した昌也の顔から、少しずつ、笑みが消えた。
「まあ正直言えば、お父さん、顔色変えてたよ。でも、昨日はあの先生に言われたことをさ、ちょっと盾に取って。あのままじゃマジで姉さん危なかったかもって、それ言ったら、さすがに内心動揺してたんじゃないかな、あれでも。多分さ、本当に何も食べてないって思ってなかったみたいだし、あの様子だと」
「そう、なんだ」
 父の、冷たくて厳しい表情を思い出し、つい、珠恵の表情も強張ってしまう。
「まあ、納得は……してないと思うよ、全然。それは、姉さんもわかってるよね。最初、警察行くとか色々言ってたし」
 ハッと目を見開くと、そんな珠恵に、昌也は微かに頷いてみせた。
「もう成人してる姉さんが、自分の意思で森川さんについて出て行ったんだ。家宅侵入だなんだ言ったって、俺が招き入れたんだし結果的にはお母さんも協力してる。何より、部屋に娘を監禁して食事もとらせてなかったことの方がいざとなれば問題になるって。診断書だってあるってそう言ったら、さすがにお父さんも黙ってた。もうさ、家ん中の空気、凍るんじゃないかってくらい冷たかったけど」
 苦笑いを浮かべた昌也に、曖昧な笑みを返す。
「森川さんも、自分が話をしに行くって言ってくれたけど」
「え?」
 動揺に声を漏らす珠恵に、昌也も少し難しそうな顔を向けた。
「しばらくはやめた方がいいって、そう言っといた。俺が話をして様子を見てみるって。多分、今森川さんがお父さんに会っても、火に油注ぐようなことにしかならないだろうし、良い方には転ばない気がして。それに、俺が頼んで姉さんを連れ出して貰ったんだし」
「でも、それじゃ、まあ君が」
 昌也にばかり責任を負わせていることに困惑しながら、弟の顔を見つめる。
「俺のことはいいって。それに――」

 僅かな間だけ、どこか遠くを見つめるような目をした昌也が、珠恵へと視線を戻した。
「ちょっと俺も、姉さんの影響受けたのかな。昨日さ、久しぶりに……いや、多分初めてかな。お父さんに、言いたいこと言えたんだ。まあ、伝わってるかどうかは別の話だけど」
 それ以上具体的なことは聞いても答えてくれず、昌也は、ひとつ息をつくように冷たいお茶を口に含んだ。
「まあ君、あの。お母さん、は?」
「ああ……まあ。お父さんに萎縮してるのはいつもと同じだけど……でも」
「でも?」
「多分ね、どっかホッとしてるみたいだった」
「……そう」
 小さく息を吐いて指を握り締める。母のことを思うと胸が塞ぐ思いがした。部屋の鍵も、ずっと開けようとしてくれていた。それを拒否したのは珠恵だったのだ。
 ――お父さんには、食べようとしないって言っておくから
 ――ねえ珠恵、お願いよ、お願いだからせめて一口でも食べて
 そう何度も懇願する母の作った食事にも、最後まで一度も手をつけなかった。
 黙ってしまった珠恵をしばらくの間見つめていた昌也が「そうだ」と鞄から取り出した封筒を珠恵に向けた。
「なに?」
 手を伸ばして受け取り、中を覗いてみる。
「……これ」
「うん。お母さんが、姉さんに持たせろって。昨日出てくときに渡された」
 数枚のお札が入った封筒を、珠恵は強く胸に押し当てた。
「それから、これも、今日」
 取り出したポーチを手渡されてチャックを開けると、通帳と印鑑とカードが出てきた。
「足りなくなったら使えって。もともと姉さんのためのものだからって」
 珠恵名義の通帳。それは、恐らく珠恵のためにと貯めてくれていた預金だった。
「この荷物も、お母さんが殆ど用意してくれたんだ」
 胸の痛みと共に、また涙が零れてしまう。唇を強く結んで、堪えるようにそれを手の甲で拭った。
「しばらくはさ、俺も、なるべく家に戻るようにするから」
「でも、まあ君」
「お父さんがどうするつもりかも気になるし、あと、お母さんがあんまり怒られたりしないように見とくから。その方が、姉さんも安心だろ」
「……うん。ごめんね……ありがとう。でも、やっぱり、あんまり無理はしないで」
 ただでさえ息が詰まるだろう場所に、自分のために帰って貰うのは気が引ける。けれど今は、昌也が言うように、母や家のことが気掛かりなのも確かだった。
「うん、無理はしないけどさ。ごめん……もう一つ」
 どこか歯切れが悪くなった昌也が、躊躇うように一度口を噤む。何かよくない話をされるのだろうと覚悟を決めて、珠恵は手を握り締め弟の顔をじっと見つめた。
「姉さんも、もう、家には……」

 微かに首を横に振った昌也に、小さく頷く。あんな形で家を出てきたのだ。そうなるだろうことはどこかでわかっていた。
 少しだけ目を伏せて、気持ちを鎮めるようにギュッと閉じた目を開く。顔を上げると、心配そうな顔をした弟に、珠恵は笑みを向けた。
「そんなに、簡単にはいかないって、わかってる」
 深く溜息を吐いた昌也が、やがて、苦笑いを浮かべた。
「ま、ひとりじゃないしね」
「え?」
「けど、ほんと意外だったよ」
 声色が変わり、なぜか弟の笑みがニヤッとしたものに変わる。
「え、何?」
「ああいうのがタイプだったんだ」
「……え?」
「森川さん。なんかさ、男って感じの人だし、ちょっと怖そうだし、どっちかっていうと姉さんが苦手そうな人かなって」
 答えようのなさに幾度か瞬きをするうち、さっきまでの重い気持ちに代わり、徐々に気恥ずかしさが込み上げてきた。こんな話を弟としていると思うだけで、顔が熱くなりつい視線を俯けてしまう。
 男って感じ、という言葉を以前どこかで耳にしたことがあると考えて、真那が口にしていたのだと思い出した。それと同時に、珠恵を抱き締める風太の腕の強さや、触れ合う肌の熱さを思い出しそうになって、慌ててそれを脳裏から追い払う。
 そんなことを考えてひとり顔を赤くしていると、珠恵を見つめて笑っていた昌也が、静かな声で口にした。
「見たよ。俺」
「え?」
「あの人の……あの、刺青」
 ハッとして目を見開く。昌也の顔に浮かんでいた笑みが、苦笑いに変わる。
「正直、ビビった。あんなのそばで見たことないし……マジかよって」
 小さく息を吐いて、もう笑っていない目が珠恵を見つめた。
「姉さんは、怖くなかった?」
 ポツリと問うた昌也を見つめ返して。珠恵は少しのあいだ答えを探してみた。
 改めて聞かれて思い返してみたけれど、やはり風太に告げたように、彼のことを刺青を含めて本当に怖いと思ったことは一度もなかった。初めて目にした時の状況が普通でなかったから、どこかで感覚が麻痺していたのかも知れないけれど。
「初めは、やっぱりちょっと、驚いたけど。でも……なんでかな。怖いとは思わなかった。よく考えたら、そう思っても不思議じゃないのにね。でも、多分森川さんじゃなかったら、怖かったかもしれない。……わからないけど」
 視線を逸らした昌也は、黙ったままグラスのお茶に手を伸ばして、それを飲み干すと同時に大げさに思えるような溜息を零す。
「ま、こんなこと聞いたところで、あんなこと言われたんじゃもう、何も言えないけど」

 ブツブツと零された意味深な呟きに、ふと引っかかりを覚える。
「……なに? あんなことって」
「え?」
「何か、言われたの? 誰に?」
「いや、姉さんのことをちょっと」
「ちょっと何? え……誰に? もりかわ、さん?」
「ん? まあ、ね」
「え……な、なに言ってた、の?」
 動揺して、昌也に確かめる声が小さくなる。何故か目を眇めて珠恵を見つめた弟は、再び大きく息を吐いた。
「自分で聞きなよ。本人に」
「え、なんで、まあ君、何言われたの? 教えてよ」
「やだよ恥ずかしい」
「はっ、恥ずかしいことって何?」
 ますます狼狽えている珠恵を、面白そうに見て笑っている昌也の様子に、答えるつもりがないのだとわかり、少しむくれる。
 ひとしきり笑った弟は、「じゃあ、俺もそろそろ学校行くから」と立ち上がった。それを合図にするように台所から出てきた喜世子と二人、玄関先まで見送りに出る。
「じゃ、また荷物持って顔見にくるから。何か必要なものがあったら連絡して」
「うん。あ、まあ君。あの……お母さんにも、ありがとうって、伝えて」
「うん、わかってる。姉さんは大丈夫そうだって伝えとくよ。家のこととか、また報告するから。じゃあ、……あの、姉のこと、宜しくお願いします」
 視線を移し頭を下げた昌也に、喜世子が、笑いながら大きく頷く。
「あんたの姉さんは、ちゃんとうちで預かるから。心配はいらないよ」
 しっかりと頷き返して、玄関の扉を横手に引き一歩外に踏み出してから、振り返った昌也が、喜世子と珠恵にもう一度視線を向けた。
「あの、さ」
「……何?」
「森川さんが姉さんのこと何て言ってたかは内緒だけど」
 弟の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「あの人、昨日病院でさ。ずっと……ほんとにずっと、姉さんの手、両手で握り締めてた。ここへ帰って来てからも、ご飯も食べずにずっと姉さんのそばから離れなくて」
「……え」
 ――森川さん、夕食は?
 ――食べたよ
 ――風太なんて、ひと時もあんたと離れようとしなかったんだからね
「だから、さ。任せて大丈夫かなって、そう思ったんだ」
「まあ、君」
 じゃあ、また。と背を向けた昌也が、後ろ手にドアを閉めて出て行った後も、しばらくそこに佇んだままでいた。そんな珠恵の肩を、喜世子の手が軽く二度ほど撫でる。
「いい、弟だね」
 言葉もなくただ顔を両手で覆いながら、頷いて、また涙を拭った。


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