本編《雨月》

第十三章 雨と水無月6



「まったく、お前らは揃いも揃って大馬鹿者だな」
 食事をとってしばらくしてから、珠恵は喜世子と二人で吉永医院を訪ねた。
 診察室で顔を合せると、開口一番、吉永から睨まれて雷を食らう。今朝からもう何度目だろうかと思いながら、珠恵は何度も頭を下げた。
 挨拶だけして帰るね――と診察室の中まで付き添った喜世子が、隣で笑みを浮かべながら宥めるように口を挟む。
「先生、私からもしっかり叱っといたから、そのへんにしてやってよ」
「喜世子さん、あんたも大変だな。ほんとに手が掛かるのが次々と」
「もう、慣れっこですからね。じゃあ先生、宜しくお願いします。珠ちゃん、何かあったら連絡よこすんだよ」
 いなすようにそう答えた喜世子は、珠恵の身体のことを直接吉永に確かめてから、先に母家へと引き上げていった。

「ほら、立ってないで座れ」
 再び珠恵をジロリと見据えた吉永にたじろぎながらも、おずおずと椅子に腰を下ろす。そばにいた女性の看護師が、血圧を測るために珠恵の腕を取りながら「まあまあ、先生」とこちらも吉永を宥めるような笑みを見せた。
「何がまあまあだ。自分を大事にしない奴が馬鹿以外の何だっていうんだ」
「あ、あの……本当に、すみません、でした」
「ほら、彼女も反省してますし。もうそのくらいにしておかないと、先生のせいで患者さんの血圧が上がりますよ」
 余りに小さくなっている珠恵を気の毒に思ったのだろう、助け船を出してくれたその看護師は、風太のこともよく知っているようだった。
「馬鹿の相手ばっかりして、こっちの血圧が上がる」
「先生はいつもじゃありませんか」
 朗らかに話し掛けながら、手際よく採血までを終えると、その人は珠恵の腕を縛っていたゴムのベルトを外して診察室を出て行った。彼女の姿が見えなくなると、吉永はフウッと溜息を落とし、何かを書きつけていた手を止めて、顔だけを珠恵の方に向けた。
「いいか。飲まず食わずで、そりゃ何日ももつ奴もいるがな、悪条件が重なれば三、四日で死ぬことだってあるんだ。若いからといって自分の体力をあんまり過信するな」
「はい……すみません」
「まったく……。普段大人しい奴ほど、いざというときに大胆なことをしでかす」
「…………」
「お嬢ちゃん、あんたのことだぞ、わかってるか」
「え?」
「風太とのこと、親が反対してるらしいな」
「あ……」
 指を握り締めて、小さく頷いた。
「はい」
「ハンストして認めさせようと思ったのか知らんが、本当に何も口にしない奴があるか。そういう時はな、食ってないと見せかけて、こそっと何かを摘まんでおくもんだ」
 ほんの少し声色を柔らかくした吉永が、面白くもなさそうな口調でそんなことを口にする。顔を上げると、もう一度溜息を吐いた吉永が、椅子を回し珠恵の方へと身体を向けた。
「お嬢ちゃん。あんたは、あいつの生い立ちを知ってるか」
 桜の木の下で、風太が語った話を思い返して、静かに頷く。
「はい。あの、少し……森川さんから、聞いています」
 それが全てではないのだろうと思いながらも、珠恵はそう答えた。
「それで。あんたは本当に、あれの手を取るつもりか?」

 一瞬、問われていることの意味がわからず、口を開くのが遅れた。
「あ、の」
「あんたが思うより、ずっと重いぞ」
「……え?」
「あいつの情は。重すぎて、あんたはそのうちそれを苦痛に思うかもしれん」
 眉根を寄せて珠恵を見据える厳しいその視線を、逸らすことなく見つめ返す。
「夕べも、あんたのそばをいっときも離れようとしなかった。少しでも目を離したら、あんたがいなくなるんじゃないかって顔してな。あれは、母親のそばを離れたがらない子どもと一緒だ」
 その言葉が、胸を突き刺すような切ない痛みを生む。
「だからな。やっぱり間違いでしたって、あとでその重さに耐え切れなくなって捨てるくらいなら、初めからあいつの手を取るのはやめとけ」
 試すような吉永の言葉を、ゆっくりと噛みしめるように受け止めて。それでも、珠恵の中に迷う気持ちはひとつも浮かばなかった。
 痛みを鎮めるように胸に手を当てると、その奥から湧き上がるのは、どうしようもなく風太が愛おしいという気持ちだった。
 珠恵の口元に、意識しないまま微かな笑みが浮かぶ。
「……無駄か」
 珠恵が答えもしないうちにそう呟いて。吉永は、苦笑いを漏らした。
「そういう顔した女に、何を言っても無駄だな」
 何に納得したのか、それきり口を噤んだ吉永は、あとはただ、診察室に戻って来た何も口にせずとも吉永の意思を汲み取る看護師と二人で、珠恵の診察の続きを始めた。

 口調は乱暴でも、患者を診る吉永の目は真剣なもので、触れるその手は温かい。風太を治療した時もそうだったが、辛辣な言葉を口にしながら、身体だけでなく心とも向き合ってくれているような気持になる。
 そんな吉永の診察を受けながら、珠恵はふと、医師の資格を持つ門倉のことを思い出した。
 冷たく、人を観察するように見ていたあの人がもしもこの道に進んでいたなら。いったいどんな医師になっていただろうか。きっと、能力や技術は完璧であっても、吉永のように患者と向き合う医師ではなかっただろうという気がした。
 そうして、門倉のことをただ一方的に責めることはできないということにも、気が付いた。
 ただ流されるまま、何の感情もなく門倉と会っていたのは珠恵自身だ。もしもあの夜の出来事がなければ、風太を忘れられないまま、誰であっても同じだと殆ど自棄のような気持ちで、門倉と生きることを受け入れていただろう。そんな自分にも、きっと責任があるのだと、ようやく少しだけ冷静に考えられるようになった。
 酷く傷付けられたのは事実でも、自分も、門倉に酷いことをしていたのだ。そう思うと、もう共に生きることのないその人に、ほんの少しだけ罪悪感を覚えた。


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