愛華に借りた比較的ラフな服に着替えた珠恵は、慣れない格好に落ち着かず気恥ずかしさを覚えながら、居間へおずおずと入っていった。珠恵に気が付いた喜世子が、蛇口を止めて手を拭きながら駆け寄ってくる。
「あの、おはようご」
「馬鹿っ、ほんとに、あんたって子は……」
珠恵の手を握った喜世子に、無事を確かめるように顔を見つめられる。また馬鹿と叱られた。昨日から、皆に叱られてばかりいる。けれど、その度に胸の中が温かくなるのだから不思議だった。
「すみません、でした。本当に、ご面倒を、おかけして」
「大したことなくて、ほんっとに良かったよ。あんた、もうちょっと遅かったら危なかったって」
愛華もさっきそんなことを言っていたと思い出す。もしかして、本当にそうだったのだろうか。自分では、確かに疲れてはいたものの、平気なつもりだった。
いつも食事を頂いていた時の定位置に誘われ、そこに腰を下ろす。少し温めたスポーツドリンクを入れたマグカップを手に、キッチンから戻った喜世子は、珠恵の前にそれを置いて隣に座ると、もう一度様子を確かめるかのように上から下へと視線を落とした。
「あの……」
口を開きかけた拍子に、小さな溜息を一つ吐いた喜世子が、もう一度珠恵の手を温かくて少し荒れた手で握った。
「ほんとに……無茶なことして」
愛華だけでなく、喜世子の目にも薄っすらと涙が浮かんでいて、申し訳なさが更に募る。
「珠ちゃん、四日近く何も食べてなかったって」
「あ……」
風太にも言われたが、確かに思い返してみれば、門倉と会ったあの日は、出掛ける前も食が進まず、軽く昼食を食べたきりだった。それから、目まぐるしく状況が変化したあの夜、風太と共に過ごしたホテルで少し水分を摂ってからは、何も口にしていなかった。
「吉永先生が、もう一日、二日遅かったら本当に取り返しのつかないことになってたかもしれないって……。そりゃ元々の体力とか、そういうのにもよるけど、時と場合によっちゃあ、本当に死ぬこともあるんだって、そう、言われたって」
改めて、自分のしでかしたことは深刻な事態を招きかねなかったのだと、自己嫌悪に陥る。皆に馬鹿と言われて当然だと、珠恵は消え入りたくなった。夕べの、どこか心許なく見えた風太の様子を思い出して、より一層胸が痛くなる。
「すみ……ません」
「そんだけ必死だったんだろうけど……。ね、珠ちゃん」
「は、い」
顔を上げると、厳しい、けれど優しい目をした喜世子が、珠恵の手を撫でるように指を動かした。
「あんたが無茶したら、心配する人がたくさんいるって忘れちゃ駄目だよ。風太なんて、もうひと時もあんたから離れようとしなかったんだからね」
「……はい」
唇が震え、涙が零れ落ちた。胸の痛みを伴うそれは、けれどとても温かな涙だった。
「ごめ、なさっ……わ、たし」
顔を手で覆いながら、涙が流れ身体が震える。宥めるように肩から腕を何度も何度も擦る喜世子の手が、やがて珠恵を抱きしめるように背中に廻され、ゆっくりとしたリズムでその背を叩いた。
「あんたのお母さんだってね……そりゃ、色々あるんだろうけど、ほんとに堪らなかったと思うよ」
喜世子の胸の中で、しゃくり上げるように泣いてしまう。まるで、子どもに戻ったみたいに。
「まあ、そうはいってもね。女としちゃ、私だってわからなくはないよ。こう見えても私だってさ、男に惚れたことくらいあるんだから。もちろん、相手はお父ちゃんだけどね」
内緒話をするみたいに顔を寄せ、楽しげに笑う声が、身体に直接響くように聞こえた。
「ねえ……珠ちゃん」
珠恵の身体を押しやった喜世子が、涙でグチャグチャに違いない顔をじっと見つめてくる。
「あんた、そんなに風太のことが好き?」
みっともない顔を見せている恥ずかしさも忘れて、その目を見つめ返す。スッと息を吸い込んで、大きく頷いた。
「はぃ」
「まったく。あの子も命がけで惚れられたんじゃ、堪らないね。大事にしなきゃ、ほんとバチが当たるよ」
口角を上げニヤッと笑った喜世子に向けて、首を横に振る。
「あの、森……風太、さんは、今でも、あの、充分優しい……です」
「そりゃ、珠ちゃん、あんただからだよ」
「……へっ?」
喜世子の言葉が意味を成して頭に届いた途端、間の抜けた声が出る。さっきの愛華ではないが、ボロボロに泣いた顔を見せているのが急に恥ずかしくなって、手で口元を押さえながら瞬きを繰り返した。
呆れたような笑みを浮かべて、喜世子は、もう一度「珠ちゃんだから、優しいんだよ」と、そう繰り返した。
「まあそりゃね。特にうちのが倒れてからの風太は、昔と違って随分丸くなったし、改心して本気で真面目にやり直そうってしてた。優しいとこは、確かにもともとあったけど、でもどこかでね、立ち入ることを絶対に許さない壁みたいなもんがあるんだよ、あの子には。心の底から、人を信じるのが怖いっていうのか……信じるってのに慣れてないんだろうね、多分。風太が、誰かといてあんなに穏やかで柔らかい顔をみせるの、あんたが初めてだったんだよ。だからね、あの子が珠ちゃんに見せる優しさは、やっぱり……他の人に向けるのとは違うんだよ」
話しながら腰を上げた喜世子が、手にして戻ったタオルで珠恵の顔を拭う。それを受け取りながら、静かに語られる言葉を、黙って聞いていた。
「珠ちゃん」
改まるように真面目な表情をした喜世子に向けて、姿勢を正す。
「……はい」
「あんたには、辛いこともあるかもしれないけど……。あんたのご両親には、なかなかわかって貰えないかもしれないけど。あの子を――」
息を吸い込んだ珠恵の喉の奥が、震える。
「風太を、もう、一人にしないでやって」
ぼやけた視線の先で、喜世子が、返事を促すように小さく頷く。瞬きをして、手に取ったタオルでもう一度顔を拭ってから、真っ直ぐにその目を見つめ返した。
「はい」
静かに、けれどはっきりと頷いてみせると、安堵したかのように肩の力を抜いた喜世子は、笑みを浮かべて頷き「じゃあ……」と立ち上がった。
「まずは体力つけなきゃね。雑炊、作ってるから温めてくるね」
「はい、あの、すみま……」
口にしかけた言葉を呑み込んで、喜世子を見上げる。
「あの……ありがとう、ございます」
口角を上げ頷いた喜世子が、止めていた足を台所へと向ける。再び流れた涙をタオルで拭うと、珠恵のお腹がぐうっと鳴った。
「もうちょっと待ちなね」
その音が聞こえたのだろう、振り返った喜世子が声を上げて笑う。恥ずかしさに俯きながら、けれど少し口元に笑みを浮かべて。
「すみません……」
小声でそう呟いた。