翌朝、珠恵が目を覚ました時にはもう、並んで敷かれていた布団は部屋の隅に畳まれていて、風太の姿はなかった。少しだけ身体をもたげて、頼りなく部屋を見渡すと、時計の針は八時を回った時刻を指している。
まだ気怠さの少し残る身体を布団の上で起こし、どうしたものかと考えていると、襖の外で何か声がした気がした。
「あのさあ……ちょっと、起きてる?」
どこか面倒臭そうに、けれど気遣いが感じられる程度の大きさの声が、もう一度閉じた襖の向こう側から聞こえた。
「はい」
愛華のものらしいその声に、最小限の返事をしてみる。
「ちょっと開けるけど……」
けど、何だろうかと、続く言葉を待っていると、それ以上の言葉はなく襖が開き、夏の制服に衣替えをした愛華が、視線を逸らしたまま部屋の中に入ってきた。
「あ……おはよう、ごさいます」
慌てて布団の上で姿勢を整えると、立ったまま珠恵を見下ろした愛華が、後ろ手に持っていた紙袋を差し出してくる。
「これ……」
「え?」
瞬きをしながら愛華の顔を見上げる。むすっとした顔で舌打ちをする愛華の耳が、親方と同じように赤くなっているのに気が付いた。
「あの、愛華、ちゃん?」
「ほら……あんた着替えも持たないで出てきたっていうから、服、貸してやれって」
「え、あ、……ごめんなさい。あの、でも」
「てか、いいから早く受け取ってよ」
なぜだろうか。口調自体は以前と変わらないのに、愛華から感じる空気は前みたいな棘を含んだものではないように感じた。素直に手を伸ばし、紙袋を受け取る。
「ありが、とう」
「別に。……あの、あれだし、持ってけって煩いし」
「うん。でも、本当に何も持ってこなかったから、これ、あの、お言葉に甘えて、使わせて貰うね」
見上げていた愛華の顔が、ほんの少しだけ珠恵の方へと向けられ、また逸らされる。
「……あの、さ」
言い淀むように一度噤んだ唇が、また開かれる。次の言葉を待つ珠恵の耳に、ポツリと呟くような声が届いた。
「ほんとに……なんも食べてなかったの」
「あ……う、ん」
愛華にまで心配を掛けてしまったのかと思うと、ばつの悪さについ言葉を濁すように答えてしまう。
「ばっかじゃない」
きつい口調でそう言いながら、やはり珠恵から目を逸らしたままの愛華の言葉に、以前のようにたじろがないのはどうしてだろう。
「うん……バカ、みたいだよね」
「だって……結構危なかったって」
「え?」
「ほんとに、下手したら命に係わることもあるって」
「あの、あいか、ちゃん?」
大きくなった愛華の声が震えたような気がして、顔を上げると、珠恵に向けられた目に涙が溜まっている。
「え……あの、ね、愛華ちゃ」
「死んだりしたらっ……そしたら私、すっげえ嫌なこと言った奴のままで、た、助けて貰ったお礼だって言ってないのに、そんなことになってたらって」
「あの、待って、私、あの大丈夫だから」
「ほんともう、バカなこと……やめてよ」
「……わ、私……ごめん」
慌てて腰を上げて、愛華の手を握る。振り払われたりはしなかった。
「愛華ちゃん、ね、ごめん。ごめんね……私、こんなに皆に心配かけるって、わかってなくって……本当に、ごめんなさい」
「もうやなんだって……ああいうの、もうっ」
珠恵の手を握り返して、そのまま床にしゃがみ込み身体を嗚咽に揺らし始めた愛華が、初めて年下の女の子に見えた。
「ごめんね、愛華ちゃん……あの、でも、ありがとう」
何度もそう繰り返しながら、愛華の手を握り締める。珠恵の手を強く握り返し、片方の手で涙を拭っている愛華の姿を見つめながら、思い出していた。愛華は、父親である親方が病に伏して死ぬかもしれなかった恐怖と不安を、まだほんの中学生の頃に経験しているのだ。そこに思い至ると、珠恵は自分の浅はかな行動がとても恥ずかしく思えた。
「もう、しないから」
「たりまえだっつうの……今度やったら、絶対、許さないから。風太も返して貰うんだからっ……バカ珠恵」
やっぱり小憎らしいことを言われているはずなのに、気持ちが温かくなり笑みが浮かぶ。
しばらくしてようやく泣き止んだ愛華に、ティッシュを取って手渡した。涙を拭い洟をかんで珠恵を見上げた濡れたまつ毛が、何度か瞬きを繰り返す。鼻の頭と耳とを赤くした愛華が、気まずそうに目を逸らしながら、不貞腐れたように口を開いた。
「余計なこと……泣いたとか、そういうの、言わないでよね」
「え、あ……うん」
「それ、ちゃんとパンツは新しいのだし」
「え? あ、はい」
「ブラはサイズ大きいかもだけど」
「……うん」
暗に胸が小さいと言われているのだろうかと思うと、つい、俯いてしまう。
「……言おうと思ってたのに、ぜんぜん、うちに来ないから」
伏せた耳に、ボソっとした声が届く。顔を上げると、入れ違うようにまた顔を伏せた愛華の、小さな声が聞こえた。
「あの……あん時、……ありがとって。……怖い思いさせて、ごめん」
「あ、うん……。でも、愛華ちゃんが、嫌な目に合わなくて、よかった」
顔を上げた愛華が、何ともいえない表情で珠恵を見つめる。笑みを向けると、少し遅れて照れたように笑った愛華が、立ち上がり思い出したように、あ、と口を開いた。
「朝ごはん、食べれんなら向こうに用意してるけど、こっちの方がいいか聞いて来いって」
向こうで頂くと答えると、頷いて背を向けた愛華が、襖に手を掛けたまま振り返った。
「あと、さあ」
問い返すように見上げると、愛華がまだ少し濡れた睫毛を瞬かせる。化粧をする前なのだろう、いつもより幼く見える素顔の唇が弧を描き、綺麗な顔に見慣れた表情が浮かんだ。
「……はい」
さっきまでとは違う勝気そうな眼差しに見下ろされ、自然と身構えてしまう。
「敏感なお年頃のジョシコーセーがいるんだから、あんま、いちゃつかないでよね」
「――え?」
「風呂、一緒に入ったりとか」
「えっ、あっ、あの」
フンっと、なぜか勝ち誇ったような顔をした愛華が、襖を開けて出て行く。閉じた襖をしばらく見つめてから、珠恵は恥ずかしさの余り、布団の上に顔を伏せた。