本編《雨月》

第十三章 雨と水無月3



 森川が戻ってくるまでの間、目を閉じていただけのつもりが、うつらうつらと微睡んでいたようだ。ふと目を開くと、いつの間にか部屋に戻っていた森川が、すぐそばに座り込み珠恵を見ていた。
「……あ、すみません、私、眠ってしまって」
「いや、疲れてるんだ。構わねえから寝てろ」
「あの……森川さん、いつから、そこに」
「ん? 十分くらい前だ」
 時計に目を遣った森川がそう答えたから、眠っていたのはほんの少しだけなのだとホッとする。珠恵を見つめた森川が、少し考えるような顔をしてから口を開いた。
「このまま寝てるか? 平気そうなら、風呂も大丈夫だって言われたけど、明日にするか」
 そう聞かれて初めて、部屋に閉じ籠っている間、風呂に入っていなかったことを思い出した。途端に、そんな姿をずっと森川に見せていたことも、触れさせていたことにも、堪らない恥ずかしさが込み上げる。
 時計の針は十一時をとうに過ぎた時刻を指していたが、気になり始めるとどうしようもなかった。珠恵は俯いたまま、できればお風呂に入りたい、と小さくなって口にした。
「身体、大丈夫か」
「はい、平気、です」
「じゃあ、ちょっと待ってろ」
 一旦部屋から出て行った森川は、しばらくして戻ってくると、「掴まれ」と布団から起き上がろうとした珠恵の腕と膝の下に手を入れてきた。
「え、あっあの、自分で」
 自分で歩ける、と口にする間もなく、身体が浮き上がり、腕の中に抱き上げられていた。
「あのっ……森川さん」
「ん? ほら、動くな」
「私、あ、あの、お風呂、入ってなくて」
「ああ。で?」
「……き、汚ぃ……から、あの、離して」
 逆らうように身体を離そうとする珠恵に、廊下の途中で足を止めた森川が、深く溜息を吐いた。
「あのなあ……」
 呆れたような声色に、その顔をおずおずと見上げる。
「じゃあお前は、俺が風邪とか怪我で何日も風呂入れなかったら、汚ねえから触んのも嫌になんのか」
「そんなこと、ありません」
 何を言い出すのかと、首を横に振って即答する。
「だろ」
 わかったか、というように笑みを浮かべた森川は、そのまま足を再び動かし始めた。振動で身体が揺れ、結局バランスを取るために肩に掴まる。
「……でも」
「ほら、着いたぞ」
 やっぱり恥ずかしいから、という言葉を繰り返す間もなく、脱衣所らしきスペースで身体を下ろされる。礼を口にしながら、珠恵は着替えも持っていないことに気付いて困惑した。
「森川さん、あの、私……着替えを、持って来てなくて」
 よく見ると、着ているものは恐らく愛華か喜世子のパジャマのようだった。珠恵の言葉に笑った森川は、脱衣所に据えられた籠を指さした。
「おかみさんが、用意してくれてる」
 視線を動かしてみると、確かにタオルや着替えが置かれている。そこを見つめていると、襟元に森川の手が伸びてきて、珠恵のパジャマのボタンに指を掛け、それを外し始めた。
「え、あの、あのっ、もりか、さん」
「なに」
「じ、自分で、わっ、私、自分で脱ぎますから、もう」
「手、邪魔。除けろ」
「あの、え、でも……待って下さい、あの」
 顔に血が上り、頭がクラクラとする。抵抗をいとも簡単に制した森川は、珠恵のパジャマを脱がせながら、何故か自分の服も脱ぎ始めていた。
「もっ、森川、さん……な、何、してるんですか」
「何って、風呂入んだろ」
「ど、どうして森川さんまで、あの、ふ、服を」
「風呂入んのに、服は脱ぐもんだろ」
 当然のように真顔で答える風太に、唖然としながら必死で抵抗してみたけれど――。
「駄目だ。まだふらつく癖に。風呂場で何かあったらどうする」
 そんな風に一蹴されて、むしろそのことに、ふらつきそうだった。

 結局。一緒に入ることになってしまった風呂でも、珠恵は何一つ自分ではさせて貰えなかった。
 いくら身体を重ねたことがある人だといっても、ただの一晩きりだ。素肌を晒すことも、肌が触れることも、逸らされることのない目で見つめられるのも、恥ずかしくて堪らない。
 その上何日も風呂に入っていないのだ。さっきの風太の言葉を頭ではわかっていても、つい「汚いから」と何度も口走ってしまう。
 そんな珠恵の抵抗を、森川は最後には「あんまり言うと、口塞ぐぞ」と、どうやってとは余り考えたくない半ば脅しのような言葉で、遮ってしまった。
 風呂場に置かれた椅子に腰かけさせられて、後ろからシャワーのお湯がかけられる。
「熱くねえか」
 聞かれる言葉に首を横に振りながら、お湯の熱さ以上に身体が熱くてフラフラとする。誰のせいだと恨みがましい視線を向けたくても、まともに森川の顔を見ることさえできなくて、珠恵は本当に泣きたくなった。
「抵抗するだけ無駄って、いい加減わからねえのか。変に体力使うだけだから、楽にして、俺の好きにさせてろ」
 泡立てたスポンジで珠恵の身体を撫で始めた森川は、そんな風に悪びれずに言いながら、どこか楽しそうに笑う。もちろん、スポンジを手に取らせてさえ貰えなかった。
 身体を洗われ、髪を洗われ、持ち込んだ水を与えられて、湯船に身体を沈められる。その間、自分でしたことといえば、息くらいのものだ。湯船に入れられる頃には、もう抵抗する気力はとうに消え失せていた。

 湯に身体を鎮めて、目を閉じて小さく息を漏らす。ふと視線を上げると、今度は自分の身体をゴシゴシと洗い始めた森川の動きに合わせて、背中の絵が僅かに動くのが珠恵の目に入った。背の上を流れていく石鹸の泡が、天上を覆う霞のように見えて、少し幻想的なその絵に思わず見とれてしまう。
 視線を感じたのか、急に振り向いた風太と目が合って、恥ずかしさに目を逸らす。じっと見ていたことに気付かれただろうか。ぬるめに張られた肌にしっとりと纏わりつくような気持ちのよいお湯につかりながら、視線を俯けていたが――
「ちょっと、詰めろ」
 手早く身体と髪を洗った森川が、湯船に入ろうとするのに気がついて、顔を上げた。目の前に遠慮なく晒されている引き締まった体躯と、そしてその中程にあるものを目にして、珠恵は慌てて息を呑んで目を逸らした。
 森川が湯船に身体を鎮めると、勢いよく湯が流れ出していく。
「私、出ます」
 立ち上がろうとした身体は、力強い腕に捕えられ、背を預けるように腕の中に引き戻された。
「耳、真っ赤」
 からかうように笑われて、両手で耳を覆い隠すと、その隙を突いてしっかりと腹部に手が廻される。自分とは全く違う硬質の肌が重なって、その熱さにどうしようもなく狼狽えてしまう。
「ここなんか骨、触れるぞ……やっぱり、痩せたんじゃねえのか」
「っや……森川さん……あの」
 肋骨に沿うように指が珠恵の肌をなぞり、身体がピクリと跳ねる。
「心配すんな。今日襲う程、鬼じゃねえよ」
 もう、これでも充分鬼だと思う。
「も……許して……もらえませんか」
「何を? あ、ほら、水」
 とぼけた答えと共に差し出されたペットボトルを受け取ろうとすると、少し意地悪そうに笑った森川が、自分の口元にそれを含んだ。何か、怒っているのだろうか、そう思ったのも束の間、顔を後ろに向けられ、重なった唇の間から冷たい水が送り込まれる。
「っん……あ、あの……自分で」
「今日はお前は何もするな」
 二度、三度と同じことを繰り返され、水は冷たくて気持ちいいのに、身体の熱はますます上がる。諦めて力を抜くと、それでいいと言うように満足気に笑った森川の腕の中に、珠恵はもう一度沈み込んだ。

 ポチャンと、湯が動く音がして、肩口に森川の重みを感じた。
「……なあ」
 髪を掻きわけた耳元に唇を寄せ、どこか少し迷うように呼びかけられる。
「……はい」
「珠恵」
 珠恵を抱き締めている手に、力が込められるのがはっきりと伝わってきた。
「もうお前を……家に帰すつもりねえから」
「……え?」
 珠恵の首筋に顔を埋めた森川の声が、明らかに躊躇を含んだくぐもったものに変わる。
「もし、ずっと……許して貰えなくても。家を……捨ててもここにいてくれ」
 乞うように告げる声が、僅かに揺れる。ゆっくりと振り返ると、濡れた短い髪から滴り落ちた水が、色の付いた肩口に落ちた。
 そこまで言っておきながら、まだどこかそれを口にした罪悪感に揺れる気持ちを映し出しているような森川の瞳を、ただ静かに見つめた。
 黙って見つめるうちに、やがて沈黙に耐えかねたのか、森川の視線が逸れそうになる。
「――はい」
 引き留めるように、しっかりと頷いた。そこに留まった瞳が、小さく見開かれる。
「ここに……居ます」
 そっと目を伏せて、目の前の厚く引き締まった胸に手を当てる。気のせいだろうか早く感じる鼓動が、手のひらに小さな振動を伝えてくる。
「ここに……。私はもう、森川さんのここに、いるんですよね」
「……ああ」
「そばに、いたいです」
「たま、え……」
「好き、です。森川さん」
 森川の胸が、ドクッと脈打つのを確かに感じた。微かに落とした視線を上げた森川の、強い光を湛えた瞳が、射抜くように真っ直ぐに珠恵を見つめる。そこから目を逸らすことができないまま、今度は自分の心臓がトクッと音を立てるのを感じた。
 身体を捩ったままの珠恵の唇に、森川の唇が静かに重なり、ゆっくりと離れていく。激しくはないそれが、心を繋ぐ儀式のように思えた。
 ぼうっとなったまま、珠恵はきっと惚けたような顔で森川を見つめていただろうと思う。
 身体が少し浮き上がり、対面で向かい合うような形にされた。全てを晒しているのが恥ずかしくなり、胸元を腕で覆い隠そうとする珠恵の動きを封じて。森川の唇が、小さく何かを呟くように動いた。
「――た、だ」
「……え?」
「ふうた」
「あの」
「森川さん、じゃねえ」
「え、あ……」
 何を言われたのかわかっても、恥ずかしくて、すぐに口にすることができない。待ち構えるようにこちらを見ている森川と目が合うと、顎の先が、ほら、と促すように動いた。
「……ふ、うた……さん」
「ああ」
「風太、さん」
 何故だろう。名前を呼んだだけなのに、胸が痛い程苦しくなって、鼻の奥がツンとした。微かに見開いた目を優しく細めた風太が、額を寄せてくる。
「なんで泣く」
「わかっ……ませ」
 頬に窪みを作った風太が、知らぬ間に流れ落ちていた涙を、舌で掬い取るように拭う。
「……くすぐったい、です」
 もう一度額を合わせて、満足そうな笑みを浮かべた風太の唇が、そのまま珠恵のそれを塞いだ。今度は、触れ合わせるだけのキスではなくて。啄み、なぞり、上がった息を吸うタイミングで舌が捻じ込まれる。次第に激しくなる舌と唇の動きに合わせ、湯の跳ねる音と舌が絡み合う水音が同時に耳に届いて、余計に熱が上がる。
「ぁ、だ、め……です」
「何が」
 唇を離さずにとぼけた答えを口にしながら、キスがまた深くなる。
「んっ……りか、さ」
「違う、だろ」
「も……ふっ、たさん……だめ、あたま、が」
「……ああ」
 名残惜しそうに唇が離れていくと、その間を二人の唾液が繋いで切れていく卑猥な光景に、今度こそ逆上せて、珠恵の身体から力が抜けた。
「悪い……ちょっと、やりすぎた」
 苦笑いした風太が、もう一度今度はちゃんとペットボトルから水を飲ませてくれる。小さく息を吐きながら、肩口に顔を伏せて。珠恵はさっきから気になっていたことを、口にした。
「あ、の……何か……あ、当たってます」
 珠恵を引き寄せたまま、笑う風太の振動が、身体を小さく揺らす。
「悪いな、こればっかりは自分じゃどうしようもない。だいたい、お前が悪い。まあ始末は自分でつけるから安心しろ」
「……ごめん、なさい」
 お前が悪いと言われて、納得いかないままに、そう口にする。
「元気になったら、ちゃんと面倒見てもらうから、そのつもりでいろ」
 優しく頭を撫でながら、でもきっと意地悪そうな笑みを浮かべているであろう風太の顔を、見上げることもできずに。珠恵はただ赤くしたままの顔を、花の咲く肩口に埋めていた。

 風呂から上がり、バスタオルで身体を拭われ、パジャマを着せられる。口を挿もうとする度に、キスで口を塞がれて、黙ってされてろと、唇に諭される。
 こんなにも疲れた入浴は初めてだった。きっと体力が落ちているせいばかりじゃない。ただ、そうやって風太に構われ続けている間、余計なことを考える隙がなくて、珠恵の心は無防備になっていた。
 脱衣所に椅子を持ち込み珠恵を座らせて、何も言わずにドライヤーで髪を乾かし始めた風太と、鏡越しに目が合う。照れくささに目を逸らしても、しばらくして瞳を鏡に戻すと、また目が合った。何度かそれを繰り返して、ようやく、ずっと風太の目が珠恵の瞳を追っていることに気が付いて、また頬が熱くなる。
 そんな珠恵を見つめながら、鏡の中で、風太の片側の頬が、小さく窪む。
 このままでは、歯磨きまで自分ではさせて貰えない気がして、風太の手が塞がっているうちにと、歯を磨きたいと告げる。辛うじてそれだけは、許してもらえた。
 ドライヤーの風を揺らすように当てながら、大きな手が髪を掻き上げ梳かしていくのが心地よくて、何度か歯ブラシを動かす手を止めてしまった。少しだけ待って貰い、口をゆすぐ。体中がさっぱりとして気持ち良かった。
 再び、風を当て始めた風太が、耳元で問い掛ける。
「気持いいか」
「はい……凄く、贅沢をしてる気持ちになります」
「こんなでいいなら、毎日してやるぞ」
「へっ? いえっ、あっあのそんなつもりじゃ」
 慌てて顔を横に振る。毎日こんな風に扱われたのでは、もうきっと恥ずかしさで身が持たない。あまりの勢いで首を振る珠恵に苦笑いした風太は、最後に風を涼風にして、火照った頭を冷やしてくれた。
「ありがとう、ございます」
「いや。じゃ、掴まれ」
「え?」
「部屋に戻るから」
「あの、もう本当に」
「珠恵」
 子どもの我が儘を諭すような声で名前を呼ばれる。
「もう一回、口、塞ぐか?」
 慌てて首を横に振って、それでも最後の抵抗を試みてみる。
「どうしても、ですか」
「どうしても、だ」
 当然のように答えが返って来て、同時にほら、と肩が下りてくる。手を伸ばして首に廻すと、軽く抱き上げた風太によって、珠恵はもう一度客間に連れ戻された。

 珠恵を布団に寝かせてから、「眠くなったら先に寝てろ」と、風太は部屋を出て行った。いつの間にか、部屋には布団が二組並べて敷かれている。今日は、風太もここに泊まるのだと思うと、鼓動が少し早くなる。けれど、一緒にいられるそのことに安堵もしていた。
 愛華から貸りてくれたらしい化粧水と乳液を使わせて貰ってから、水を口に含む。そのまま起きているのはまだ少し辛くて布団に横になると、起きているつもりだったのに、いつのまにか少しウトウトとしてしまっていたようだ。
 明かりが小さくなる気配に、薄っすらと目が覚める。隣の布団に潜り込んで様子を伺うように身体を寄せた風太が、目を覚ました珠恵に気が付き、小声で話し掛けてきた。
「起こしたか」
「いえ、あの……起きてるつもりで、ちょっとうとうとしただけなので」
「寝てろって言っただろ」
「もり……風太さんの、顔を見てから、眠りたかったから」
 口を噤んだ森川は、しばらく珠恵の目を見つめてから口を開いた。
「そっち、行ってもいいか」
「……はい」
 珠恵の答えを待ってから、自分の布団を出た風太の身体が、傍らに潜り込んでくる。そのまま、柔らかく胸に包み込むように抱き締められた。
「同じ……匂いがします」
「そう、だな。ああでも、おかみさんのを借りたから、おかみさんも同じ匂いだ」
 クッと小さく笑う風太の振動が、珠恵の身体に伝わって来て、同じようにクスクスと笑う。
「こうしてると、眠れないか?」
 髪を優しく撫でる手に、あやされているようで、頭がすぐにぼんやりとしてくる。潜り込むように胸に頬を寄せると、トクトクと鼓動を刻む音を感じて、ゆっくりと目を閉じた。
「とても……安心します」
「そう、か」
「……ふう、た、さん」
「ん?」
「会いたかった、です」
「ああ」
「声、ききたかった」
 髪にそっと口づけが落とされる。もっともっとそばに近づきたくて、無意識のうちに身体を摺り寄せていた。
「来てくれて……嬉しかったです」
「……ああ」
「風太さんの、匂いが……します。ここ……温か、くて……き、もち……ぃ」
「……珠恵?」
「…………」
「眠ったのか」
「…………」
「……おやすみ」
「…………」
「……拷問だな」
 眠りに落ちる直前、なぜか大きな溜息と共に、額に唇が触れた気がした。
 温もりを感じながら。何も考えることもできずに、珠恵は本当に久しぶりに、深く心地の良い眠りに落ちていた。


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