目を覚ますと、薄くともされた灯りの中、見知らぬ天井が目に入る。瞬きを繰り返し、ぼんやりとした頭で記憶を辿ろうとして。
「――起きたか」
耳に届いたその声に、珠恵は視線を僅かに動かした。
電灯の影になり、あまり表情が見えないその人の手が伸ばされ、額を撫で上げていく。
「……森川、さん」
「ああ」
「……私……ここは?」
「母家の部屋だ。おかみさんが、しばらくここ使えって」
頷きながら、断片的な記憶を少しずつ辿る。森川に家から連れ出された後、吉永医院に向かいながら、取り敢えずの応急処置として、昌也が買ってきたスポーツ飲料を珠恵に少しずつ飲ませてくれた。渇いた身体中がそれを欲していたことが、水分を口に含んで初めて自覚された。
病院に着くとすぐに、吉永の指示で診察台に寝かされて、森川と吉永、そして昌也が何か厳しい声色で話していたことはなんとなく覚えている。けれど、部屋に閉じ籠っていた間殆ど眠れていなかったせいだろうか。その後、引き摺られるような眠気に襲われ、身体が沈んでいくような感覚を覚えた記憶を最後に、それからのことは何も覚えていない。
いつの間にここへ運ばれたのだろうか。珠恵の部屋に入ってきた森川の顔を見た途端、張りつめていた気持ちが、崩れるのを感じた。身体に力が入らなくなったみたいだった。
「あの……さっき、吉永先生のところ」
「ああ、点滴打って貰った」
「あの、まあく……昌也は?」
「お前の荷物取りに行って、また明日来るって」
「そう、ですか」
「心配してたから、後で連絡しろ」
「……はい」
「先生も、すっげえ怒ってたぞ」
「え?」
「次会ったら、多分説教食らうから、そのつもりでいろ」
「……ごめん、なさい」
ばつの悪さに逸らそうとした顔は、森川の手に掬われてしまった。指先が何度も何度も頬を優しく撫でる。
「珠恵」
視線を上げると、揺れるような眼差しが珠恵を見つめている。
「もう、こういう無茶をするな」
小さく溜息を吐いてそう口にした風太に、何か答えようとしたが、ふと目の前が陰った時にはも額が合わされていた。
すぐそばにある瞳が、微かに苦しそうに歪む。何故だろうか。少しだけ森川が小さな子どものように見えた。
「……ひとりに、すんな」
擦れた小さな呟きが耳に届いて、小さく目を開いた。誤魔化すように目を閉じた森川の頬にそっと手を伸ばして触れると、その頬がピクリと動き、珠恵の手に大きな手が重なる。
「ごめん……なさい」
何も言わない代わりに、握り締めた手に強い力が込められる。閉じていた瞳を開いて、小さく笑みを漏らし珠恵を見つめた森川の手が、もう一度頬に触れ、知らぬ間に流れていた涙が拭われる。
「目、覚ましたら、何か食べさせろって言われてる。食べれそうか?」
久しく感じなかった空腹を覚えて、小さく頷いた。
「待ってろ」
「あっ」
髪を撫でた手が離れ、森川が立ち上がろうとするのを、引き留めるように声が出る。
「どうした」
何故そんなことをしてしまったのか、自分でもわからなくて、慌てて目を逸らした。
「いえ、あ、の……何でも」
何でもありません――その答えは、屈みこんだ森川が唇で呑み込んでしまった。
「すぐ戻る。ちょっと待ってろ」
言い聞かせるようにそう口にしてから、思い出したように、登録してあるから弟に連絡しろと電話を置いて部屋を出て行く。その背を見つめながら、熱くなった頬を押さえた。
森川が部屋の向こうに消えた瞬間、ほんの僅かな時間も離れていたくなかったのだと、引き留めた理由に気が付いた。気配が消えただけで、どこか心許無い気持ちになる。時を刻む時計の針の音がやけに耳に響いて、そちらに目を向けるともう十時を回っていた。
いったい、何時間眠ってしまていたのだろう。
そんなことを考えながら、森川が置いていった携帯で、言われた通り着信記録の一番上に入っている昌也の番号に電話を掛ける。僅かな呼び出し音の後、慌てたように応答する声が聞こえた。
「もしもし」
「あの……まあ君」
「姉さん? 気が付いた?」
「うん……ごめんね。色々、ありがとう」
「それはいいから」
「あの……家は」
家のことが。何より父のことが気になってそう尋ねてみたが、昌也は何も答えてはくれなかった。
「そんなことより身体は? 先生は眠ってるだけだって言ってたけど、目、覚まさないから心配してたんだ」
「うん、大丈夫」
「ほんと? まあ、とにかく今はそっちでゆっくり休んで。……あいつ」
あいつ、が森川を指すのだと、すぐには気が付かなかった。
「姉さんのこと、大事にしてくれそうだから。そっちにいる方が安心する」
「え? あ……うん」
昌也の声が、少し笑ったような気がした。明日荷物届けに行くから、と告げた弟にもう一度礼を言って、通話を終える。
廊下の軋む音が聞こえて、すぐにお盆を手にした森川が戻って来た。灯りをつけてから、枕元に腰を下ろし手を添えて身体を起こしてくれる。
「あの前の日も、あまり食べてなかったんじゃねえのか? 殆ど四日近く、ろくに何も口に入れてねえだろ。先生も、お粥なんかを食べさせろって」
小さな土鍋から、小鉢に移し替えて貰った粥を受け取ろうとした手は、空に置き去りにされたままで。レンゲに掬った粥を息で冷ました森川が、それを珠恵の口元に近付ける。
「あ、の……自分で」
「黙って食え。ほら」
目を細めて珠恵を見遣った森川には引く気配がなくて、仕方なく小さく開けた口に、水分が多めの粥が運び込まれた。少し口に含むと、薄い塩気の効いた柔らかなご飯の味が口の中に広がる。飲み込むと、喉を伝った温もりが、身体の中に染み入るように落ちていく。
「……美味しい」
呟きながら、もうひとくち、口に含む。どこか安堵したように笑みを浮かべた森川から、今度は小鉢を受け取って、自分で少しずつそれを口に運んだ。
胃が小さくなっているのか、程無くお腹が満たされて、手を止めた。それでも、小さな土鍋に入っていた粥の半分ほどは消えていた。
「もういいか?」
「はい、あの……ご馳走様でした」
「ああ」
食べ残したそれを森川が口に運ぶのを見て、ふと気が付く。
「森川さん、夕食は?」
「食べたよ」
「あの……お粥は、喜世子さんが?」
「ああ。みんなも、心配してた」
「……ごめん、なさい」
益々居た堪れない気持ちになりながらも、自分を気に掛けてくれる人の存在の有難さに、胸が温かくなる。
「まあ、元気な顔みせりゃ、安心するだろ」
「はい。……あ」
「何?」
「今日、木曜日、ですよね」
「そうだ」
「学校」
「え」
「森川さん、学校は」
「…………」
「休んだんですか?」
「あのなあ……それどこじゃなかっただろ」
呆れたように溜息を吐く森川に、ごめんなさいと頭を下げる。けれど。
「あの、明日は、行って下さい」
「え……ああ、でも」
「頑張って合格したんだから、行かなきゃ、ダメです」
「ったく、わかったよ」
こんな時に学校の心配するか? と苦笑した森川は、それでもしぶしぶのように頷いた。
食べ終わった小鉢をお盆に戻すと、それを手に立ち上がった森川を見上げる。
「あの、喜世子さんは」
「目、覚ましたこと伝えたら、安心したみたいだ。先に寝るって」
「そう、ですか」
会ってお礼を言いたい、何より顔を見たいと思ったけれど、今日は無理そうだと頷く。
「これ、返してくるから」
「はい。あの……ありがとう、ございます」
立ち上がった森川は、なぜかそこから動こうとせず、珠恵をじっと見下ろしている。まだ少しぼんやりとした頭のまま、珠恵がその目を見つめ返すと、僅かに目を逸らして森川が小さく笑った。
「森川、さん?」
どうかしたのだろうか、と思った時にはもう、骨ばってゴツゴツとしているのに、珠恵に触れる時は優しく動く長い指が額を撫で上げ、そこに唇が落とされていた。
「……え……あ、の」
二度目の不意打ちのキスに、顔に熱が上がり狼狽えてしまう。そんな珠恵を後目に、森川はお盆を片手に部屋の外へと出て行ってしまった。
頬に、小さなエクボを浮かべたままで。