スクーターは翔平という男に預けて、昌也は森川と共に車に乗り込み自宅へと向かった。
昌也が何も言わなくても、迷うことなく車を走らせる様子に、二人が本当に見知った間柄なのだということを実感させられる。
珠恵の様子を聞いたきり、険しい表情のまま口を噤んでしまったこの男に、どうしてもひとつだけ確かめなければならないことがあった。
「あの」
チラッとこちらに視線を送った森川が、何だと聞くように、首を動かす。
「姉さんは、否定したけど……あなたは、ヤクザだったんですか」
建築現場での様子を見ていると、少なくとも真面目に働いているようには見えた。だが、なんの根拠もなくヤクザだという話が出てくるとも思えない。小さく溜息を吐いた森川が、口を開いた。
「ヤクザだったことがあるのかと聞かれたら、その答えはノーだ。けど……」
そう言ったきり、しばらく無言でいた森川は、車が次の信号に引っかかったタイミングで、おもむろに作業着の長袖のシャツを脱ぎ始めた。
「ちょ、何して」
驚いて運転席を見ていた自分の顔が、次第に強張っていくのがわかった。タンクトップだけになった男の腕から肩口、そして恐らく布に隠れた背中までを覆っているもの――。固まったように、そこから目を背けることができない。
「あ……え?」
間抜けで意味を為さない声を昌也が発している間に、信号が青になり車が動き出した。
「俺は、ヤクザじゃねえし、そうだった過去もない。けど、昔の俺がロクでもないガキだったことも、ヤクザの男の家で暮らしてたことも、ヤクザになるつもりでいたことも。それに……こんなもんを背負ってるってことも。全部、本当のことだ」
人の皮膚では有り得ない色。最近は確かに、軽くファッション感覚で所謂タトゥーを入れている学生を見かけることも少なくはない。だが、これはそんな可愛い代物ではなかった。初めて間近に見た禍々しい程に肌を埋めた色彩に、視線を逸らすこともできないまま、胸が嫌な速さで鼓動を刻んでいる。
「こういうの見んの、初めてか」
「当たり、前だろ……普通」
憮然と答えながら、余りにもそれを見つめ過ぎていたことに気が付いて、昌也はばつの悪さに視線を逸らした。
「……姉さんは、それ……知ってるんだよな」
「俺がこの絵を彫った理由も過去も。あいつには、全部話した。まあ……話せないこと以外はな」
苦笑いした森川の言う、話せないこと、が何なのか、きき返すのも怖い。
「うちの……姉さんは、大人しくて引っ込み思案な人で。恋愛とかに、慣れてるタイプじゃない」
「そう、だな」
「そりゃ、優しいし、真面目だし、いい人だけど……地味だし。多分あんたなら、もっと他にいるんじゃないのか、何も、姉さんじゃなくっても。だってどう見たって、あんたはそうじゃないだろ」
「…………」
「あんたみたいな男にちょっと構われただけで、舞い上がって、あんたのこと好きだって、勘違いしてるだけかもしれないだろ」
「そうだな」
視線を伏せたまま反発するような口調でそう口にした昌也に、ムッとするでもなく相槌を打った森川は、次の信号待ちで長袖のシャツに袖を通しその絵の存在を覆い隠した。
「そんな姉さんが、簡単に自分に転ぶの、楽しんでただけじゃないのか」
「んな、面倒くせえことするか」
「だって、俺には、なんか本当にあんたみたいな男が、姉さんで満足すると思えない。今は珍しくて構ってんのかもしれないけど、そのうち物足りなくなって、捨てたり、するんじゃないのか。なら――」
「わかってねえな」
少しだけ口角を上げた森川が、昌也の言葉を遮りこちらへ視線を向ける。見つめ返すと、その顔に思いがけないほど優しげな笑みが浮かんだ。
「可愛いよ」
「――は?」
「あんたの姉貴は。俺は……珠恵のことが、可愛くて可愛くて、仕方がねえ」
「……へっ? や、え……あの」
思いもよらない言葉に、聞いているこちらの方が気恥ずかしさに顔が熱くなる。言葉に詰まり顔を赤くする昌也を見て、今度は少し息を吐いて笑った森川は、その笑みをすぐに抑えて静かに口を開いた。
「ずっと、誰かの人生に責任持つとか、他人を自分の人生に巻き込むのは、面倒だと思ってた。一人でいる方が気楽で、そうやって生きて死んでけばいいって、そうどっかで思ってたよ。……珠恵に会うまではな」
前を見つめたまま語る森川の言葉に、何故だか胸が少し苦しくなる。そう思う心の裏で、この男が、本当は誰かの存在を渇望していたのだと、そうわかってしまった気がした。
「俺がこんなだから、反対されるのは当たり前だ。俺が珠恵に相応しくないってことも、本当はわかってる。でも」
速度を緩めた車は、気が付けばもう自宅の手前に差し掛かっていた。家の前で車を止めると、森川が昌也の方へと顔を向ける。
「もう、手放してやれねえから」
本気なのだと、真っ直ぐに昌也を見つめる男の目が物語っている。
「諦めてくれ」
そう、ポツリと口にして、昌也の答えを待つことなく、男は車の外に降り立った。慌てて助手席から降りると、黙って森川の横を通り過ぎ先に門を開けて玄関に鍵を差し込む。
振り向いて、男の顔を見つめた。
「俺も……あんたを、信じるよ」
厳しい顔をした森川の口元が、ほんの少しだけ綻んだ気がした。
森川を伴い家に戻ると、玄関のドアを開けた途端、慌てた様子で廊下に出てきた母の目が、大きく見開かれた。
「まさ、や」
「森川さん、上がって」
狼狽えている母を無視して、振り返り声を掛ける。玄関先で足を止めた森川は、立ち尽くしたままの母に顔を向けて頭を下げた。
「姉さんの部屋二階だから」
急かすようにそう続けた昌也の腕を、森川から目を逸らした母が縋るように掴む。
「昌也」
「このままにしとくわけ、いかないだろ」
「でも、昌也」
「俺がお父さんに話すから。お母さんのせいじゃないって」
腕を握る手に力を入れて揺さぶる母に、どうしようもなく苛立ちが込み上げる。
「放っとく訳いかないだろっ。姉さんが意地だけであんなことしてるって、ほんとにそう思ってんの? お母さん、このままじゃ姉さん、本気で死ぬまで何も口にしないよ」
「そん……な」
「そのうち諦めるって高を括ってたら、一生後悔する。俺はそんなのごめんだ。どいて」
母の手を振り払おうとした腕が、強い力で阻まれた。森川が昌也の腕を握っていた。ハッとして、後ろを見遣ると、母の視線も同じように森川を見上げた。
「珠恵さんの、お母さんですね」
「……は、い」
青ざめた顔で視線を逸らした母が、小さく頷いた。
「森川といいます」
「はい」
「すいませんが、珠恵さんは、俺が連れて帰ります」
「それ、は……」
戸惑いを振り切れず、首を振って昌也と森川を交互に見上げる母の唇が、小さく震えている。
「逃げ隠れするつもりはありません。けど今は、珠恵の身体の方が大事だ。だから、駄目だと言われても、連れていきます」
向けられた真剣な目と、静かだが強い意思を込めた言葉に、母の視線が揺れる。頷くことは出来ず、ただ昌也の腕から手を離した母を置いて、森川を二階へと案内した。
扉が開いたままの部屋に座り込んでいた姉が、足音につられたように顔を上げた。その目が、昌也の後ろに立つ人の存在を捉えて、大きく見開かれる。
「もり、かわさ」
見開かれた瞳が揺れて、立ち上がろうとした姉の身体は、力が抜けたようにその場でふらついた。昌也を押しのけて部屋に入った森川の腕が、その身体を支える。
「どう、して」
「この馬鹿っ」
怒鳴られてビクっと揺れた姉の身体が、引き寄せた男の腕の中にすっぽりと収まる。
「こんな無茶……すんな。心配する、だろ」
森川の声が、僅かに掠れて聞こえてくる。広い背に廻された姉の手が、縋るように強く服を掴むのを、昌也はただぼんやりと見つめていた。
「……ごめん、なさい」
「悪かった、こんなことさせて」
首を横に振った姉の肩が、男の腕の中で小さく震えている。
森川の、壊れ物に触れるように髪を撫でる手つきや、顔を上げさせた姉を見つめるひどく優しげな表情。腕の中から森川を見上げた姉の、昌也が初めて見る顔。
二人から目を逸らしながら、苦笑いが込み上げる。引き離せるはずがない。この二人は、互いを信じ強く求め合っているのだ。その表情が、二人の気持ちの全てを物語っている。
「行くぞ」
もう一度姉の頭を胸元に引き寄せた森川がそう口にすると、ハッとしたように、珠恵が顔を上げ首を横に振る。
「駄目だ。連れて帰る」
「まだ、だってまだ……わかって貰って、いません」
顔を強張らせ頑なに頷こうとしない珠恵に向けて、森川の口から小さな溜息が漏れた。
「駄目だ」
少し強い口調でそう口にして、森川は有無を言わさず姉を抱き上げてしまった。
「森川さ」
「ひとりで頑張んのはもうここまでだ」
珠恵を抱いたまま振り向いた森川は、黙って成り行きを見つめていた昌也に小さく頷くと、いつの間にか部屋の入口で同じように茫然と二人を見ていた母に、深く頭を下げた。
「軽いな……ほら、ちゃんと掴まれ」
森川の腕の中で、張り詰めていた糸が切れたように姉の身体が力を失くす。
「珠恵っ」
慌てて名前を呼ぶ森川の声に、目を開いた珠恵が微かに笑みを浮かべてみせている。その表情に、森川だけでなく昌也もホッと胸を撫で下ろす。姉を更に強く引き寄せてから、森川の足が、部屋の外へと向かった。
「……珠、恵」
母の声に足を止めた男の腕の中から、色を失くした顔を重たげに上げた姉の、「おかあさん……ごめんね」という小さな声が、昌也の耳にも届く。珠恵から母へと視線を移し、「また、来ます」とだけ告げた森川は、そうして姉を部屋の外へと連れ出した。
「昌也……」
階下へと下りていくしっかりとした足音を聞いていた昌也を、母が呟くように呼ぶ。まだ何か言うつもりなのかと、強張った顔を後ろに向けたが、続けられた思い掛けない言葉に、微かに目を開いた。
「珠恵の、鞄……リビングに置いてあるから。お財布も、そこに」
小さく頷いて、二人を追って階段を下りる。ソファの隅に置かれた鞄を手に取り玄関へと急ぐと、母が後ろを追いかけてきた。
「何?」
「これも、持たせて」
母が自分の財布から数枚の札を取り出して、昌也に握らせる。
「わかった。ありがとう」
目を見つめてそう口にすると、強張って泣きそうな顔をしている母の口元に、微かに笑みが浮かんだ。
助手席に座った珠恵は、今は疲れたように目を閉じている。昌也が急ぎ後部座席に乗り込むのを待って、車がゆっくりと動き始めた。その時、玄関の扉が開閉する音が聞こえた。後ろを振り返ると、門の外へと母が出てきていた。
動き始めていた車が止まり、バックミラー越しに森川がその様子を見ているのがわかる。僅かな間を置いて、頭を下げた森川は、再びアクセルを踏み込んだ。
昌也は、振り向いたままガラス越しに、遠ざかる車に深く頭を下げる母を見ていた。
ずっと顔を上げることがなかった人影は、少しずつ小さくなり、やがて交差点を折れて見えなくなった。