「風太さんっ」
下から聞こえた翔平の呼び声に、風太は、梁と柱を金具でとめる作業をしていた手を止めた。
「どうしたっ」
「あのっ……えっと」
周りの作業音にかき消されないように大声で問い返すが、翔平の返事ははっきりしない。素早く残るひとつの金具をとめ終えてから、腰に下げた袋に工具を戻して二階の足場を辿って行く。
「何だ、しょうへ……」
焦ったように風太を呼ぶ翔平の隣、こちらを半ば睨むように見上げている見知らぬ若い男の存在を認めて、言葉を途中で呑み込む。知った顔によく似たその男が誰なのか、風太にはすぐにわかった。真那からも、連絡がついたという知らせは受けていた。
「……すぐ行く」
昌也は、建築現場の二階から素早く慣れた足取りで降りてきた男を、じっと見つめていた。現場をいきなり訪ねてきた見知らぬ者に、他の作業員が無遠慮な視線を向けてくる。
「風太さんっ、この人、珠ちゃんの……弟だって」
恐らく昌也よりも少し年若いその男が、姉を珠ちゃんと呼んでいることにも内心驚いていた。姉は、それ程にここの人達と馴染んでいるのかと。
下っ端らしい若い作業員の言葉に頷いた男が、タオルで顏を拭きながら、目の前で足を止める。昌也より背の高い引き締まった体躯のその男を、僅かに見上げた。
「森川さん、ですか?」
「ああ」
「あの、福原、昌也と言います。福原珠恵の、弟です。姉の職場の人から連絡を貰って」
「突然、すまなかった。俺が無理言って頼んだんだ。もし勝手に電話したことが気に入らなかったとしても、それはあの子のせいじゃねえから」
「いや……それは別に」
曖昧に答えながら、もっと軽そうな男を想像していた昌也は、目の前に現れた森川から受ける印象に少し戸惑っていた。健康的に日に焼けた精悍な顔つきの男で、真っ直ぐに昌也を見つめる瞳からは、強い意志と想いが伝わってくるような気がした。
「教えて下さい」
その目を試すように見つめながら、問い掛ける。
「姉を……姉のこと、いったいどういうつもりですか」
「どういう……?」
「もし遊びのつもりなら、もう、姉をこれ以上」
「そんなつもりはない」
昌也の言葉を遮り返ってきたのは、きっぱりとした答えだった。
「でも、金を、要求したって」
一瞬、怪訝な顔をした森川が、何かに気が付いたように僅かに目を開いた。
「本当のことですか。遊びじゃないなら、何でそんなこと」
「なっ、んなこと風太さんがする訳ないだろっ」
言われた当人より先に、傍らで成り行きを窺っていたさっきの若い男が声を上げた。
「ちょっと黙ってろ翔平。お前は現場に戻れ」
微かに表情を変えた森川が、険しい目を昌也に向けたまま、ごく小さな溜息を吐いた。
「嫌です。俺だって珠ちゃんのこと気になってるし」
仕方がないと言うように苦笑いした男は、すぐに笑みを収めて、黙ったまま昌也を見つめている。痺れを切らす直前に、ようやく、その口が開かれた。
「で、俺が金をせびったってこと、珠恵は知ってるのか?」
静かな声で問い返された言葉の内容に、驚きと共に怒りがこみ上げる。認める――と言っているのだろうか。
「本当に、そんなことしたんですか」
「ちょっ、風太さん、何言って」
「黙ってろ」
「だって……、んな馬鹿なこと……」
さっきよりも厳しくなった声色に、翔平と呼ばれたその男は、口を噤みながらもやはり不満を隠せないのだろうぼそぼそと何か呟いている。
「戻れ」
有無を言わせぬ空気を含んだその一言に、森川と昌也とを交互に見遣った翔平は、最後にもの言いたげに昌也を見てから、納得いかない顔のままその場から少し足を遠ざけた。
「……どっちなんだよ?」
もう一度尋ねながら、真っ直ぐに昌也へと注がれている視線を、睨むように見つめ返す。
「してねえって答えりゃ、信じるのか?」
今度はすぐに答えた男の表情からは、その真偽は伺えなかった。冷静なのか冷酷なのか、それともそう装っているだけなのか。男に一歩詰め寄り、作業着の胸元を掴む。
「嘘だって。信じてるって、……姉は、そう言ってる。だからもし、そうじゃないなら、俺はあんたのこと許さない、絶対に」
人と争うのは苦手だ。喧嘩など一度もしたことがない。服を掴む手も声も、情けない程震えている。それでも、抑え切れない感情に突き動かされるように、昌也は男の身体を揺すった。
「……してねえよ」
黙って揺すぶられていた男の、静かな声が耳に届く。同時に、節くれだった大きな手が胸ぐらを掴んでいる昌也の腕を取り、ゆっくりとそこから引き離した。その手は、思った以上に温かかった。
「金なんか受け取るか。俺が欲しいのは、金じゃなくてお前の姉貴だ」
いつの間にか伏せてしまっていた顔を上げて、森川を見上げた。逸らされることのない双眸には、信じろというように強い力が込められている。
「なら……なら早くっ……姉さんをあそこから連れ出せよっ」
その目を見つめながら、気づけば声を張り上げてそう叫んでいた。
「珠恵は――?」
怪訝な顔をした後、眉根を寄せて昌也の肩を揺さぶった森川は、初めて感情を露わにしていた。焦燥と苛立ち、そして――憂慮。
「家に帰ってみたら、部屋に、閉じ込められてた。ドアに鍵がかけられてて」
「閉じ込め……って」
「あんたのせいでっ……あんた、何させてるんだよ。俺が部屋から連れ出そうとしても、姉さんは出ようとしないんだ。自分の意志でここにいるって。あんたとのことわかって貰うまで部屋から出ないって、そう、言って」
翔平だけでなく、現場で作業していた数人の男達が、手を止めてこちらを見ている。ただ一人黙々と作業を続けているのは、この中では一番年長の、恐らく現場の責任者なのだろう、背丈は小さいが引き締まった体躯の職人然とした初老の男だった。
「それに、何も、食べてないんだ」
「何も、って……どういう意味だ」
「何もだよっ」
険しい顔をした森川の手に、痛いくらいの力がこもる。
「ずっとご飯も食べてないし、水も、一滴も口にしないって」
「……いつから」
「わからないけど、多分閉じ込められてから」
「何で、そんな」
「俺が言っても聞こうとしないんだ、だから早くっ」
目を見開いた森川の顔が苦しげに歪む。肩を強く掴んでいた手が離れたその時――
「ふうた」
凛とした声が、いつの間にか静まり返っていた現場に響いた。吸い寄せられるように、森川の名を呼んだその声の持ち主へと、皆の視線が自然と向かう。目の前の森川も、厳しい表情を浮かべたまま後ろを振り返った。
「……はやく、行け」
「親方」
「何をぼやっと、してる、たまちゃんを……連れて、帰って、こい」
それだけを口にして、また作業に戻った親方の言葉を合図にするように、手を止めていた他の面々も作業を再開する。次々に森川へと、発破をかけるように声を掛けてから。
「風太、ほら」
その中の一人が、森川に向かって光る物を放り投げた。過たずに森川が受け取ったそれは、車のキーらしかった。
「使え」
「すいません」
「手ぶらで帰ってくんな」
「……わかってます」
鍵を握った森川の手に、強く力が込められるのを見ながら、昌也は、どこかでほんの少し、けれど確かに安堵していた。