本編《雨月》

第十二章 雨隠5



『福原、昌也君ですよね。突然ごめんなさい。私、お姉さんと図書館で一緒に働いている萱口真那と言います』
 昌也に電話を掛けてきた見知らぬ番号の相手は、繫がるやいなやそう名乗ると、すぐに本題――火曜日から姉と連絡がつかないこと、実は姉に好きな男がいてそれが原因で恐らくは父と揉めているだろうこと、相手の男が姉の様子を知りたがっていること――など、昌也にとっては寝耳に水な話を、立て続けに話し始めた。
 昌也が辛うじて知る姉の近況は、珠恵の意思とは関係なく、父の一存で決められたエリート官僚との見合いが順調に進んでいて、早ければ年内の結婚も有り得る。というもので、その認識とはかけ離れた電話の内容にかなり戸惑っていた。
 ――お前も、そのつもりでいなさい
 そう珍しく機嫌よさそうに話しかけてきた父が、この見合いをどこか強硬に進めたがっている理由を、昌也は知っていた。
 勿論、実の息子への失望を補って余りある、育ちの良さ、有能さ、将来性を兼ね備えているらしい見合い相手の男を、父が気に入っているのは言うまでもない。だが、恐らくそれだけではないのだろうと、昌也は思っていた。
 その男を珠恵に。という今回の話を父に持ちかけたのは、父の勤める銀行で次期トップの呼び声が高い副頭取らしかった。

 ――高梨副頭取の奥様の甥御さんだそうだ。副頭取は、以前からうちのことをよく褒めていらした。今時珍しく夫や父親を立てることを知っているご家族だと言って下さってね。ご親戚の集まりの折にその話をされたらしい。それで、そんなお嬢さんなら是非にと、今回お声を掛けて下さった。今時は、一見清楚に見えても実はそうではない女性が多くて、見合いもなかなか難しいものらしい。まあ真面目さだけが取り柄の珠恵に限ってそんな心配はないだろうが、一度お受けした以上はあちらを失望させるようなことがあっては副頭取の顔に泥を塗ることにもなりかねない。むろん、まだまだ頼りない珠恵には勿体ないほど好条件のお話だ。そういうことだから、わかっているだろうが万一にも失礼がないようにお前からも珠恵によく言って聞かせておきなさい。

 荷物を取りに家に戻ったタイミングで、リビングから漏れ聞こえてきた声。普段ならまだ帰宅していない筈の時間に家にいた父が、会話というより殆ど一方的に母に向かってそう話しているのを昌也が耳にしたのは、偶然だった。
 昔から、一度も父に逆らったことのない姉のことだ。この見合いの持つ意味を知ったところで、きっと黙って受け入れるのだろうと思いながらも、胸の奥にモヤモヤとしたものが消えずに残っていた。
 真那の話によると、姉が好きになった男は、見合い相手とは正反対のタイプのようだ。余計な先入観を与えたくはないから、詳しい事情は珠恵とその男――森川風太から直接聞けと言った真那は、最後に、姉の気持ちと森川の姉に対する想いを信じたから協力したのだと、そうも言っていた。
 だが、突然そんなことを聞かされたところで、昌也にとっては全く見も知らぬ男の話だ。そもそも珠恵にそんな相手がいるということ自体、今日初めて知ったくらいなのだ。
 あの大人しい姉がいったいどんな経緯でその男と付き合うことになったのかも、そんな相手がいるなら、なぜ見合いを受けたのかも、何もかもわからないことだらけだった。
 電話を掛けて来た真那という女性でさえ、辛うじて顔を覚えているという程度の相手なのだ。正直なところ、聞かされた話を鵜呑みにしていいのかも昌也にはわからなかった。
 どうも何か問題があるらしい森川という男と、姉の見合い相手である門倉。どちらが姉にとって望ましい相手なのか、すぐに昌也に判断がつく筈もなかった。
 それでも、自宅に戻って目にした今のこの状況が、尋常でないことだけはわかる。気配を感じて振り返ると、母が鍵を手に戻って来ていた。

「昌也……」
「貸して」
 さしたる抵抗もない母の手から鍵を奪うと、鍵穴にそれを差し込み素早くドアを開ける。
 ドアにほど近い場所で床に座り込んでいた珠恵が、昌也を見上げた。目の下に隈の浮かんだ疲れ切った姉の姿に、思わず眉間に皺を寄せしゃがみ込んでそっと肩に触れた。
「大丈夫?」
 辛うじて空調は効いているらしい部屋の中、力なく頷き笑みを浮かべた姉の唇は、カサカサに渇いている。
「とりあえず、ここから出よう」
 そう言って手に力を入れると、昌也を見つめた珠恵が、静かに首を横に振った。
「なに……」
 もう一度手を取ろうとするが、さっきよりもはっきり、姉はそれを拒んだ。
「大丈夫だって。心配しなくても今お父さんもいないから。だいたい、こんなことするなんて普通じゃないだろ」
 肩に置かれた昌也の手を、細い指が緩く握り、そこから引き離そうとする。
「姉さん?」
「ごめん、まあくん……いい、ここにいる」
「なんで、何言ってんの、ここまでするお父さんのいうことなんて聞く必要ないよ」
「そうじゃない」
「鍵まで掛けて閉じ込めて。何があったにしてもおかしいだろ、お母さんまで」
「違うの、お母さんは、鍵、開けてくれようとしてたから」
「でも、鍵かかってたじゃないか」
「いいって、言ったの」
「……どういうこと?」
「わかって貰うまで……ここにいるって、そう決めたから」
 呆然と珠恵の顔を見つめる。今まで一度も目にしたことがない顔をした姉がそこにいた。
「珠恵……」
 か細い声がして、ドアの脇に屈み込んだ母が、そこに置かれたお盆を手に昌也の隣に膝をついた。
「お願いだから……ね、何か、食べてちょうだい」
 お盆の上に置かれた、手をつけられてない食事。母のその言葉に、昌也は一瞬息を呑んだ。揺るぎない目で母を見つめ首を横に振る姉と、懇願しながらも娘の意志の強さにどこかたじろいでいるような母の顔を、交互に見遣る。
「え……なにそれ、いつから」
「…………」
「冗談だろ、ずっと?」
「珠恵、お願いよ、何か、食べなきゃ。せめて……これだけでも、お茶だけでもいいから」
 母が震える手で差し出したフルーツとグラスを、珠恵は手を伸ばして遮った。
「ずっと―食べてないの? てか、水も飲んでないの?」
「何も……口にしようとしなくて」
「何それ、お母さんは何してたんだよっ。いくらお父さんの言いなりだからって、こんなことして平気なの」
「平気なんかじゃ、お父さんは、意地になってるだけだからそのうち音を上げるって……でも、食事は」
「でも、って、実際食べてないじゃない」
 横から腕を伸ばし、母の手を掴んで揺さぶる。無抵抗な母の口元が、震えて結ばれた。
「やめて、お母さんのせいじゃない。私が、決めたことだから。お母さんは……お父さんには食べてないって言うからって、何度も言ってくれたの。ごめん……なさい、せっかく作ってくれたご飯、全部無駄にして。でも……まあ君もお母さんも、私は、大丈夫だから」
「どこが大丈夫なんだよっ、自分の顔見てみろよ、死ぬつもり? ほらっ食べろよ……姉さん、食べてよ」
 母が用意していた食事から、ラップに包まれたおにぎりを掴み口元に持っていく。頑なに結ばれた唇にそれを押しつけると、思いがないほど強い力で腕が振り払われ、その拍子におにぎりが姉の足の上に転がった。
「どうしてなの、珠恵、昨日だってお父さん、言ってたでしょ。あなたが、こんなことをしたところで、その人……所詮お金を」
 罪の意識と苛立ちが綯交ぜになったような、声を震わせた母の言葉に動揺したのは昌也だけで、姉は静かな、まるで凪いだ海のように静かな瞳でその母を見つめ返している。
「お金って、何それ? いったいどういうこと?」
「珠恵が……好きな人ができたから、門倉さんとのお見合いをお断わりするって、そう突然言い出して。でも……そのお相手の人と、お父さんが昨日会って、話をしてみたら……手切れ金を要求されたって」
 少しだけ昌也に視線を送った母が、おにぎりを拾いながら途切れ途切れにそう答える。
「手切れ、金?」
「そんなの嘘」
 否定する珠恵の声は、小さくともはっきりとしていた。
「その人、ヤクザとも、繋がりのある人みたいで……お父さんに五十万円を」
「森川さんは、ヤクザじゃない。それにお金なんか……そんなこと、言う人じゃない」
「珠恵、あなた、騙されて」
「騙されてるのは、お母さんのほう。そんな嘘で、私の気持ちは、変わらない……変わったりしないから。それに――」
 疲労を滲ませた顔で、けれど真っ直ぐに母を見つめた姉は、胸の中に何かを落とし込むように一度結んだ唇を、ゆっくりと開いた。
「もし、森川さんがヤクザでも、私は……きっとあの人を、好きになってた」
 息を呑んだ母の声が揺れる。
「珠恵、あなた……何てことを」
「信じてるから」
 微かに笑みすら浮かべている珠恵の瞳は、その言葉のとおり、揺れることがなかった。

 ヤクザ、手切れ金――?
 半ば口を開いたまま、聞きなれない言葉に動揺する昌也には、いったい何が真実なのかが全く見えてこない。正直、姉が口にした言葉の内容や、初めて見るような表情に混乱するばかりだ。
 だが、その時ふと、ここへ来るきっかけになった真那からの連絡を思い出した。
「連絡……、そういやその人、姉さんに何度も連絡しようとしたってそう、言ってた」
 姉の目が、初めて微かに揺らぐ。それは、動揺というよりむしろ、希望のように昌也には見えた。
「お母さん、姉さんの携帯はどこ?」
 気まずそうに視線を逸らした母を見て、その答えがわかった気がした。
「もしかして、お父さん? お父さんが持ってる、そうなんだろ?」
 答えがないのが答えのようなものだ。とにかく、このままにしておくわけにはいかない。せめて食事をとらせなければ、早晩取り返しのつかない事態になり兼ねないことだけが、今この時確かなことだった。
 しばらくの逡巡の後、胸の内で気持ちを固めてから、昌也は姉の方に顔を向けた。
「姉さん……姉さんは本当にもう、見合いの相手と、結婚する気はないの?」
 ゆっくりと瞬きをした珠恵が、顎を引く。
「その森川さんって人は、本当に、ヤクザじゃない?」
「違う」
 もう一度、姉がハッキリと答えた。口許を引き結び立ち上がった昌也を、母がハッと振り仰ぐ。
「昌也、何を」
「俺が戻るまで待ってて」
 問い掛けるような姉の眼差しを見つめ返してから、部屋の鍵は手に持ったまま、踵を返し部屋を出る。階段を下りかけた所で、母の呼ぶ声に振り向いた。
「昌也、あなたどこに」
「お母さん。もし、俺がいない間にお父さんに連絡したりしたら、俺、もうこの家には二度と戻らないよ」
「昌也っ」
 胸に吸い込んだ、幼い頃から馴染んだ家の空気を、ゆっくりと吐き出す。不安げに、そしてどこか迷うような表情で昌也を見つめる母の顔も、疲労を色濃く滲ませていた。
「お母さん」
「……なに」
「どこに、いるの?」
 問いの意味がわからないのだろう、怪訝な顔をした母を、静かに見つめる。
「お母さん自身は、いったい、どこにいるの」
「まさ……や」
 青ざめた母から目を逸らして、答えを待たずに背を向けた。
 わかっている。酷いことを言った。きっと傷付けた。母の父親である祖父も、父をもっと厳格にしたような人だった。時代錯誤な程に厳しく躾けられて育った母は、結婚してからも、きっとそれを疑問に思うこともなく、父の求める妻であろうとしてきたのだろう。
 そんな中でも、母が昌也や珠恵に厳しかったことは一度もない。意志の弱い、ただ優しい母親だった。そんな母に、今更それを聞いたところで、どうなるというのだ。それでも、幼い頃からずっと感じていたことを、昌也は聞かずにはいられなかった。
 母自身の気持ちは、いったい、どこにあるのだろうか――と。


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