駅裏にある比較的広いその喫茶店は、いつもながらにそこそこ賑わっていた。扉を開けて中を覗いた風太は、一番奥の席で入口に背を向け腰掛けている背筋の伸びたスーツ姿の人物に当たりをつけて、そちらへと足を向けた。
足音に顔を振り向けた男がこちらを一瞥し、すぐに視線が背けられる。
「待たせてすいません」
そう口にしながら、向かい側に腰を下ろす。注文を聞きにきた店員にコーヒーを頼んでから、目の前の人物へと顏を向けた。男の前に置かれたコーヒーカップはすでに空で、時折、指が苛立たしげにテーブルを叩く音が聞こえる。
「――あの」
手を軽く上げる仕草で、風太が発した言葉は遮られた。程なくしてコーヒーが運ばれて来ると、とくに愛想もなく店員が伝票とともにテーブルにそれを置いて去っていく。ちょうど周辺の席は空いていて、話を聞かれる心配はなさそうだった。
風太は、コーヒーには手を付けることもせず、僅かに俯けていた視線をもう一度正面に向けて、男の顔を――珠恵の父親の顔を見つめた。
薄い唇は硬く閉ざされ、眼鏡の奥の切れ長の目があの日と同じように、いや、あの日以上に冷たく、風太を見つめている。表情を消した唇が、ゆっくりと開いた。
「娘に、何を言った」
息を吸い込んで、目を逸らさないよう力を入れてから、口を開く。
「筋が通らないことをしたのはわかってます。きちんと、話をしに行こうと思ってました」
「筋、と言ったね。では筋を通しさえすれば、私が認めるとでも?」
「簡単じゃないこともわかってます。でも俺は」
「確か、二度と近付くなと言ったはずだ」
変わらぬ冷静なトーンで、けれど風太の言葉を遮る父親の口調が、僅かに早くなる。
「その、つもりでした」
「では、なぜこういう事態になっている」
「……誤魔化し続けることが、できなかったからです。珠恵……さんは、いつの間にか、俺にとっては、なくてはならない人になってました。それに気が付くのに、時間が掛かった。俺には……珠恵さんが、必要です。もちろん俺みたいな男、信用できないのも簡単には受け入れられないのもわかってます。でも……決していい加減な気持ちじゃありません。珠恵さんとのことを……認めて下さい」
珠恵の父親に頭を下げる自分の声は、いつもよりずっと固かった。向けられる冷たい視線に、確かに緊張している。顔を上げると、風太を見つめたまま珠恵の父親が平坦な表情で唇を薄く開いた。
「認めるはずがないと、君もわかっているのだろう。だいたい、娘には君とは比べ物にならない程優秀な見合い相手がいると言ったはずだが。比べることすらあちらに失礼だがね」
「その見合い相手は、本当に……そんなに立派な男なんですか」
胸の内で燻り続けているその男への怒りを抑え込みながら、辛うじてそう口にした。呆れたような、微かな溜息が耳を打つ。
「何が言いたい、君のような男が。君は娘にいったいどんな外道な振る舞いをして、あんな怪我を負わせた」
「怪我? ……怪我って」
怪訝に思い、眉根を寄せる。
「やはり、思った通りのクズだな。こちらが警察に行かないだけでも有難いと思いなさい」
赤い擦傷の残る細い手首が脳裏に浮かび、瞠目する。蔑むように風太を見ている双眸を、真っ直ぐに見つめ返した。
「ちょっと待ってくれ。警察って……それって、あの手首のことですか。あれは俺じゃ」
瞳は全く笑っていない珠恵の父の口元に、一瞬浮かんだのは確かに嘲笑だった。
「君じゃない、とでも言いたいのか」
「違う。俺じゃ、……ありません」
「君は、昨日の朝まで、うちの娘と一緒だったんだろう」
「……それは……確かに、そうです。けど珠恵さんに会った時にはもうあの怪我を」
「とぼけるのか」
「だから、違う。珠恵さんをあんな目に合わせたのは……、そのことをあいつは――珠恵さんは、何か言ってなかったですか」
「言っていたよ、とんでもない嘘をね。君が、うちの娘にあんなことを言わせたんだろう。よりにもよって、門倉君の仕業だなどと」
胸の中がザワザワとする。落ち着けと、自分に言い聞かせながら、風太は冷めかけたコーヒーではなく、グラスの水を口に含んだ。
「……自分の、娘の言うことを、信じないんですか」
「親に嘘を吐いて君のような男と会っていた娘の、何を信じろと言うんだね」
「俺とのことがなけりゃ、珠恵、さんの話を、本当だと信じたんですか」
目の前の男の唇から、クッと堪えた笑いが漏れる。嘲笑混じりの眼差しが風太へと注がれた。
「そもそも、君とのことがなければこんな事態になってはいまい。珠恵が嘘を吐く必要もないのだからね。門倉君との話を断って欲しいなどと言う理由もない」
「彼女自身の気持ちは?」
「私の言うとおりにしていれば間違いがないと、娘は知っている。それに、多少躊躇う気持ちがあったにせよ、後になってみればそれが一番幸せだったのだとわかるはずだ。だいたい、娘自身の気持ちを尊重すると碌なことにならないのは、今回の件でも明白だろう」
家の話をした時の、珠恵の、どこか淋しそうな顔が脳裏に浮かぶ。燻り続けている怒りのせいで胸の奥が熱いのに、同時にそこに、痛みのようなものを覚えていた。
「自分の娘が言っても、その男がやったとは、信じないってことですか」
「門倉君が、そんなことをする理由が無いだろう」
「俺ならあるって?」
何も答えない男の瞳が、そのとおりだと、風太の問いに答えていた。
「俺のような男なら、女に……乱暴をはたらくことぐらい平気でやるって、そう思ってるってことですか」
「門倉君は、国を動かすような大きな仕事をしている立派な青年だ。彼は娘にも私たちにも、非常に誠実に接してくれている。その彼が、もしも……もしもだが、何か重要な職務に追われる余り、恋人や妻に対して多少厳しい態度に出ることがあったとしても、それくらいは致し方あるまい。それ程の重責を担っている男だ。多少の我が儘は、周囲が受け止めてやらねばならないというものだ。私自身、それなりに責任のある職務に就いている。そんな私や妻の姿を見て育ってきた珠恵は、そういうことをよく理解している。だからこそ、彼のように優れた男が、珠恵のような真面目さだけが取り柄の、特に目立つ処のない娘を、是非にと望んでくれる」
「……珠恵の、言ったとおりだな」
風太がポツリと呟くと、眉根を寄せた父親の顔が、自分の娘を呼び捨てにしたことに対する不快感を隠さないものに変わる。
「どういう意味だね」
「その男に何をされたか親に話せってそう言った俺に、珠恵は、言っても信じてもらえない、きっと見たくないものには目を瞑るって、そう答えた。ずっと、あんたには怖くて自分の意見を口にすることができなかったって、そうも言ったよ」
「親に言えない程度の下らない意見だということだ。でなければ堂々と口に出来るはずだ」
それは、決して珠恵の気持ちとは交わることのない、自分に絶対的な自信がある人間の言い分だった。
「自分の娘が、そういう性格じゃないってことくらい、わかってますよね」
「君に言われるまでもなく、娘のことは親である私が一番よくわかっている。珠恵は、真面目で従順な、親に逆らったり迷惑を掛けることのない娘だった。あんな風に親に嘘を吐いたり、私に、恥を掻かせるような言動をみせ始めたのは、君と知り合い、君のような男に誑かされてからだ」
激昂する訳でもなく、冷静な口調のままどこか淡々と話す珠恵の父親からは、何故か体温というものが感じられなかった。自分の言葉で伝えたいと言った珠恵の気持ちは、この男には、きっと届かなかったのだろう。
「昨日から、珠恵と電話が繋がらない。あいつから……取り上げたのか」
「答える必要はない」
「いったい、何した」
「君と娘を会わせるつもりはない。珠恵にもよくそれを言い聞かせた。本来ならば警察に届けたいところだが、これ以上君が娘に近付かないというなら、こちらもそこまでのことをするつもりはない。君もわかっているだろう。君のように警察に散々世話になってきたような男と、中央官庁に勤める門倉君とでは、警察もどちらの言い分を信じるか」
今度こそ、深い溜息が漏れた。
「言っても、構いませんよ。言えばいい、そうすりゃハッキリする」
真意を確かめるようにしばらく風太を見ていた珠恵の父親は、冷めたその目に感情を浮かべることなく、スーツの内側に手を入れて、そこから取り出した物をテーブルに置いた。
「いつまでも不毛な遣り取りをする程私も暇ではない。用件を、単刀直入に言わせて貰う」
銀行の袋をこちらへ静かに滑らせるその、細くて白い指先を、風太は黙って見つめていた。
「……金、ですか」
「五十、ある」
胸の奥が怒りで熱くて、それなのに頭の芯は冷えていた。
「体裁を守るために、見下してる俺にこんなことまでしてでも、あいつから引き離したいって訳か」
「どう、受け取って貰っても構わない。所詮君にとっては遊びなんだろう。これで、なかったことに」
「さっき俺が言ったことも、都合が悪くて何も聞こえなかったってことですか」
皮肉交じりに問いながら、腹立たしさよりも、虚しさが込み上げていた。諦めたように笑う珠恵がきっと何度も呑み込んだであろう言葉が、聞こえた気がした。
口元に笑みを浮かべた風太に、目の前の男がほんの僅かだけ、眉を上げる。
「軽蔑って言葉、知ってますか」
無言のまま、眇められた眼差しが、風太の目を煩わしげに見つめ返した。
「足りない、と言うことか」
「ざけんなっ」
目の前のテーブルに拳を打ち付けると、僅かに男が身体を揺らした。店の中が一瞬静まり返り、露骨な興味を誤魔化すように、また騒めきが戻って来る。風太は、手に取った封筒をぐしゃりと左手で握り潰した。
「恫喝、か……。君には似合いの」
「黙れ。あんたは、珠恵の父親だから……本気で話をしようと思った俺が馬鹿だった。あんたは今、珠恵の存在を金に換えると言った。たった、これっぽっちのな」
握った拍子に捩れ破れた封筒を、中の金ごと、目の前に座る男の胸元に落とす。
「一億積まれても、引き下がるつもりねえから」
財布から取り出した千円札をテーブルに置いて立ち上がり、表情を消したまま空席になった正面を見つめている男に、もう一度視線を送った。
「今日は帰ります。それでも……あいつのためなら。あんたが、あいつの父親である限り、俺は……何度でも、……あなたに、頭を下げるつもりです」
珠恵を頭の中に思い浮かべると、ささくれ立った心の中の怒りが、僅かに静まるのを感じた。きっと今までの自分であれば、これ程の怒りを抑え込むことはできなかっただろう。
握り締めていた手の力を抜いて、こちらを見ようとしない男に僅かに頭を下げると、風太はその店を後にした。
駐車場へと戻ると、車に凭れ携帯を触っている人影が目に入る。
「あっ、風太さん」
顔を上げて風太に気付いた翔平が、携帯をポケットにしまい身体を起こした。
「お前、学校は」
「俺、どうしても気になって」
そう答えた翔平の頭を軽く小突いて、車のロックを解除する。
「俺、運転しますよ」
少し考えてから、その申し出に頷いた。決して冷静だとはいえない今の自分よりも、翔平の運転の方が安全だろう。
助手席側から車に乗り込みドアを閉じた風太は、すぐにでも顔を覗かせようとする苛立ちを鎮めるため、深く息を吐き出した。隣からの露骨な視線を感じてはいたが、今の感情を翔平にそのままぶつける訳にはいかないと、俯き加減で息を整えてからようやく助手席の背に身体を預けた。
「ふうた、さん?」
様子を伺うように、おずおずと声を掛けてくる翔平へと、苦笑いを向ける。
「慣れねえ言葉でしゃべって、疲れた」
「何、言われたんっすか、珠ちゃんは?」
見るともなく、視線をフロントガラスの外へと向ける。
「そう簡単には認めらんねえだろ。俺のこと、軽蔑しきった目で見てたからな。まあ……ちょっとした、宣戦布告みてえなもんだな」
「宣戦……って、殴ったんすか」
「馬鹿か」
翔平の頭をもう一度軽く小突く。押された頭に手をやりながら、真剣な眼差しをこちらに向ける翔平に、今度は静かに笑ってみせた。
「ま、多分……あいつの父親でなきゃ殴ってただろうな」
「いったいどんな話」
「悪い、ちょっとまだ話す気にならねえ」
「珠ちゃんとは?」
座席に凭れ、目を閉じて額に手を当てる。このままずっと、珠恵と連絡が付かない状態に耐えられるはずがない。連絡どころか、会えないことにきっと耐えられない。
だからといって、今日のあの父親の様子だと、家に訪ねて会わせて貰えるなどという楽観的な考えは浮かばなかった。無理矢理押しかけて騒ぎを起こせば、警察に通報され兼ねない。それが怖いわけではなかったが、なるべく珠恵が傷つくような事態は避けたかった。
どうしているのか、声が聞きたい。それが無理ならせめて、様子だけでも知りたい。連絡を取る術がないかと考えるうちに、一つの可能性に思い至った。
「――翔平。学校行く前にちょっと行きたいとこがある。構わねえか」