朝から何度も電話を確かめているが、もう夜になるこの時間になっても、珠恵からは何の連絡も入っていない。風太から掛けてみた電話は、初めの数回はコール音から留守番電話へ、そして夕方頃からは、電源が切れてしまっているとのアナウンスに切り変わっていた。
学校へ行く前も戻って来てからも、食事もろくに取らずに何度も電話を確かめる風太を、心配そうに喜世子が見つめている。
「連絡、まだつかないの?」
小声で確かめてくる喜世子に、微かに笑ってみせる。居間で新聞を読んでいた親方や、ご飯を掻き込んでいた翔平も、こちらを気にしている空気は伝わってくる。けれど今は、それに応える余裕はない。
やはり、一人で帰すのではなかった。何を言われても、一緒に行くべきだったのだと、今更後悔しても始まらないことを何度も考てしまう。
「ちょっと、出てきます」
もう一度溜息を吐いてから立ち上がり、皆の視線を感じながら、居間を後にして母家の外に出た。門柱に凭れ、星の見えない空に薄く浮かぶ欠けた月を見上げる。
髪をクシャリと掻き上げながら、再び電話をかけて耳に当ててみたが、すぐに聞こえてきた何度目かの無機質なアナウンスに、落ち着かない気持ちが増すだけだった。
「あれ? 風太」
声が聞こえ顔を上げると、帰宅したらしい愛華が、足を止めてこちらを見ていた。
「遅せえな。今帰りか」
「全然普通だし」
近くまで寄ってきた愛華が、風太を見上げ何か言いたげに口を開く。けれど、もごもごと口籠りながら、珍しくその目を逸らしてしまった。
「どうした」
「あの、さあ」
いつもと違って歯切れが悪い愛華に、携帯をポケットにしまい、問い掛けた。
「何だ?」
「ほら、あの人と。風太、一緒にいたって……今日の朝」
「おかみさんか」
珠恵と会ったことを、喜世子が話したのだろう、俯いた愛華が頷く。
「それって、ほんと?」
「ああ、本当だ」
そのまま顔を上げた愛華は、けれど視線を風太とは合わせようとしない。
「……やった?」
思わず苦笑いして、愛華の頭を軽く小突いた。
「バカ、露骨に聞くな」
「……そっか」
聞いてる内容とは裏腹な、どこか神妙な面持ちをしている。
「もう、うちにこないのかと思ってた」
「お前は、どっちがよかった?」
「どっちっていうか、見合いするって聞いてたし、風太も……最近は、ほら、前みたいに」
「ああ……」
愛華の言わんとすることを理解し苦笑いする。最近は以前のように簡単に、女と遊んでいたと言いたいのだろう。
「見合いしたってのは本当だ」
「けど、あの人……風太のこと」
「俺も。ここにはもう来るなって、言ったしな」
驚いたように、ようやく風太をまともに見上げた愛華に、さっきとは違う種類の自嘲的な笑みを見せた。
「何で? だって……風太」
「何だお前、気に入らないんじゃなかったのか?」
わざと揶揄するように尋ねてみると、途端に視線をうろうろとさせる。あの日、珠恵が愛華の代わりに学生たちに連れて行かれてから、一度も顔を合わせることがない間に、罪悪感や借りを感じる気持ちが膨らんだのだろう、珠恵に対する見方が、愛華の中で少し変わったようだった。
「そう、だけど……。ほら、あの、なんか、あのまんまじゃ借り作ってるみたいだし」
思った通りの答えに、小さく笑みを漏らしながら、愛華の顔を見つめた。
「今度会ったら礼言えよ」
「今度、って」
「見合い相手と、結婚させるつもりはねえからな」
目を丸くした愛華が、長いまつ毛をパチパチとさせた。
「他の奴にもな」
「ふう、た?」
「悪いな、愛華。お前の婿にはなれそうにない」
「……へ?」
ニヤリと笑ってみせると、一瞬泣きそうな顔をした愛華が、睨むように風太を見上げた。
「あとで、泣いて頼んだって貰ってやんないから」
「そりゃ、残念だ」
「これからもっと……あの人よかずっといい女になんのに」
風太の腕を叩いた愛華の髪をくしゃっと撫でる。
「それでも、無理だな」
「なんで」
「俺には、あいつが一番いい女だからな」
「……バカ風太」
「もう、あんま苛めんなよ」
笑いながらそう口にすると、少しだけばつが悪そうな顔をして風太の手を振り払った愛華は、何も言わずに、そのまま玄関の方へ足を向ようとして、途中で振り返った。
「で、そんなとこで、何してんの」
「ん、まあちょっとな。いいから早く家入れ」
ツンとした顔をして背を向けた愛華から、視線を逸らす。愛華と話している僅かな間だけは気が紛れていたが、その姿が玄関の中に消えてすぐ、ポケットから取り出した携帯は相変わらず何の反応も見せないままで、もどかしさばかりが募っていく。
顔を上げて、雲間から覗く欠けた月を見つめる。まるで、自分のようだと思いながら。
珠恵をこの腕に抱くまでは、それが当たり前だったはずなのに。今はもう、珠恵の気配を感じられないただそれだけで、身体の一部が足りないような感覚を覚える。
多分ずっと足りていないことが普通だったから、満たされるまで、欠けて空洞になっていると気付かずに過ごしてきたのだ。温もりを知り手に入れてしまうともう、際限なく求める気持ちが湧き上がり、どうしようもなかった。
風太の背中にしがみつく腕や、そっとそこに咲く桜を愛でていた指や唇の感触が浮かんで、胸の内に痛みにも似た熱が籠り、ゆっくりと目を閉じる。指を握り締め息を吐き出しながら、再び見開いた視線を手元に落して、何度目かの電話を掛けそして幾度目かのメッセージを送る。
返事が来るまでは、眠れそうになかった。
結局、翌日になっても連絡がつかず、落ち着かない気持ちのまま仕事を終えた夕方。珠恵の家を訪ねることも考えながら母家に戻った風太に、出迎えた喜世子が、当惑した表情で声を掛けてきた。
「――え?」
問い返すように見つめる風太に、眉根を寄せたまま頷いて。
「三十分程前だよ。ここで待つように言ったんだけどね。これ、電話番号。駅前の喫茶店にでも入って待ってるって」
差し出された紙を手に取り、すぐに踵を返そうとする風太を、喜世子が呼び止めた。
「あんた……大丈夫?」
懸念する喜世子の表情を見ても、相手がおおよそどんな様子だったのかは想像がつく気がした。
「大丈夫ですよ」
一緒に戻った翔平も、居間から顔を出した親方と竜彦も、心配そうにこちらを見ている。
「何、言うつもりっすかね」
耐えかねたのか、口を挟んできたのは翔平だった。苦笑いしながら、隣へと顔を向ける。
「まあ、だいたい想像はつく。どっちにしろ、こっちも会いに行くつもりだったし、聞きてえこともあるから、丁度よかった」
「珠ちゃんのことっすよね。風太さん、ほんと……大丈夫なんすか」
「はじめっから簡単にいくなんてそんな甘いことは思ってねえ。……覚悟の上だ」
そう答えてから、喜世子と親方の顔を交互に見遣り、小さく頷く。
駅前まで送るとの翔平の申し出を断って、先に学校へ行くように告げてから、喜世子の車を借りて運転席に乗り込む。携帯を取り出しメモに書かれた番号に電話を掛けると、3コール程の間を置いて電話が繋がった。
「もしもし……森川です」
「ああ……」
「今、戻りました。どこに行けばいいですか」
指定された店へと向かい、車を走らせる。信号待ちの間にもう一度確かめた携帯の画面には、未だ珠恵からの連絡は入っていない。
開けた窓に腕を掛けて、少しずつ色を変え陽が落ちていく空を見上げる。車はちょうど、雨の中珠恵の後ろ姿を見かけた交差点から、彼女を追い掛けて行った道沿いを走っていた。やがて視線の先に、佇む珠恵を見つけた店の軒先が見えてくる。今は誰もいないその場所から視線を逸らすと、風太は、重苦しくなる気持ちを鼓舞するように、アクセルを踏む足に僅かに力を入れた。