本編《雨月》

第十二章 雨隠1



 静かに門を押して玄関の扉の前に立ち、鍵を差し込む前に珠恵は目を閉じた。さっきまで森川と重ねていた唇に、そっと触れてみると、自分の身体が自分のものでないような不思議な感覚にとらわれる。
 二人で過ごした短くとも濃密な時間の中で、何度も何度も重ね合わせた唇。今もまだどこかで、さっきまでの出来事はもしかしたら夢なのかもしれないと思う自分がいる。もしも森川の言葉が同情からのものだったら、と不安になる気持ちもまだ消えてはいない。これから対峙しなければならない現実に、触れた唇が強張る程の緊張と怖さを感じてもいるのに。
 耳の奥には、珠恵の名前を優しく呼ぶいつもより深くて低い声がまだ残っている気がして、それだけで熱に酔ったように頭がフワフワとして、胸が一杯になる。
 ――珠恵
 ふと、今ここにいない人の存在を、すぐそばに感じた気がした。そして、ああ――と気が付く。
 きっともう私の半分は、あの人に融けて混じり合ってしまったのだ。そして、あの人の一部が、今も私と共にここにある。何度も強く抱き締められた温もりが、身体に纏いつくように今も珠恵を包み込んでいる。そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
 目を開き、もう一度だけ深く呼吸をしてから、震える指先に力を入れ鍵を廻し、ゆっくりとドアを引いた。

 まだ早朝だったが、キッチンから明かりが漏れている。夕べ母には、友達の家に泊まるとメールを入れた。けれど、珠恵がこれまで友人の家に泊まったことなど一度もないことを、母は知っている。
 靴を脱ぎ、キッチンのドアの前まで歩みを進めてから、息を吸ってドアを開けた。
「――ただいま、帰りました」
 ソファに腰掛けていた母が、サッと振り返り立ち上がった。
「珠、恵……」
 きっと、夕べは殆ど眠っていないのだろうとわかる疲れた様子に、胸が痛くなる。
「夕べは、ごめんなさい」
 僅かに視線を俯けてそう口にすると、珠恵に近付こうとしていた母が足を止めた。
「あなた、その格好……」
 見慣れない娘の服装に、声の中に明らかに戸惑いが混じる。
「雨が酷くて、服が濡れたから……借してもらったの」
「濡れたって、傘、持って出たでしょ?」
「傘は、電車に忘れて」
 そう言ってしまってから、口を噤む。母の眉根が微かに寄せられる。
「電車って……終電に乗れなかったんじゃなかったの? 珠恵、お友達って、あなた」
「おかあ、さん」
「本当なの?」
 続けて発せられる質問に、目を伏せたまま、手を握り締めた。
「お母さん、私――」
 口を開こうとしたその時、廊下を軋ませる足音が聞こえて、珠恵は指の先が冷たく強張るのを感じた。すぐ後ろで止まった足音にゆっくりと振り返ると、開いたままのドアからリビングに父が入って来た。けれど、珠恵の予想に反して、父の纏う空気がいつもより硬くない。
「今、帰ったのか」
「……はい」
「あまり褒められたものではないが……ある程度は、ケジメをつけるようにしなさい」
 父の言葉と表情に、違和感を覚え戸惑う。父は例えそれが本当に友人の家であっても、外泊にはいい顔をしないような人だ。それがなぜ今日に限って、どこかぎこちなくも物問いたげな、そして僅かにだが機嫌がよさそうにさえ思える反応をみせているのだろうか。
「あ……の、お父さん」
「まあ、正式にとの返事もあったことだし」
 胸がざわつく。何も言わない珠恵の横を通り抜けると、父はソファへと向かいながら母に「コーヒー」と頼んでいる。物言いたげな顔をした母が、父の背中へと視線を移した。
「お父、さん」
 ソファに腰を下ろした父の後ろ姿に掛けた珠恵の声は、困惑のため弱々しい。
「何だ」
「正式な、って」
 父の眉根が片方だけ微かに上がる。いつも珠恵と話す時に見せる、少し苛立ちを含んだ呆れたような表情。
「夕べ、門倉君から直接連絡があった。本来なら間に入って下さっている菱谷さんを通すべきなのだろうが、とね。何だ、知っているだろう」
 夕べ、あれから――。
 あんな事があった後で、いったい何を思い門倉は父にそんな連絡を入れたのだろうか。戸惑いを隠せない珠恵の様子に、父の表情が怪訝なものに変わる。
「夕べは、門倉君と会っていたんだろう」
「は、い……でも」
「彼が連絡してきた時も、おまえは一緒にいたんじゃないのか」
「……いえ」
 小さく首を横に振る。
「どういう、ことだ」
「門倉さんは、仕事が、入ったからって……。それに私は、門倉さんが返事をしたことは」
「仕事? ……ならお前、いったい今までどこにいた」
 父は、珠恵が門倉と一緒にいたと思っていた。だからこんな風に朝帰りしたことも、咎めることはなかったのだ。
「お、父さん、わ……私は」
 はっきりと、父の視線が鋭くなる。そこから目を逸らさないでいるために、珠恵は冷たく震える指先を、強く握り締めていた。
「あなた、ですから珠恵は夕べお友達のところに」
「お前は黙っていなさい」
 オロオロとした母の声は、父の苛立った声に呑み込まれてしまった。心臓の脈打つ音が聞こえる程の緊張に、息を小さく吸い込んでから口を開く。
「ごめん、なさい。私、……私は……門倉さんとは、け、結婚、できません」

 その一瞬、リビングが時を止めたような妙な静けさに支配された。
「……お前、何を言ってる」
「好きな人が……いるんです。だから、門倉さんには、私からちゃんとお断りを」
「何を、意味がわからないことを」
 呆然とした父に向かって、もう一度震える声で、ごめんなさいと口にした。
「まさか……あの男か」
 いつでも冷静で表情を変えることの少ない父の強張った顔に、たじろぎそうになる。
「そうなのか? お前は、あんなロクでもない男のために、門倉君との縁談を断ると言っているのか」
「もっ、森川さんはっ、ロクでもない人なんかじゃありません」
「お前は何もわかっていない。お前のような世間知らずの娘をたぶらかすことなど、ああいう男にとっては簡単なことだ」
「違う……違います、そんなんじゃ」
「今は本性を隠しているのかもしれんが、もともと、ヤクザ者と暮らしていたようなクズだ。そういう奴の本質は、そうは変わらない」
「……何で、お父さん、そんなこと知ってるの」
 門倉だけでなく、父までが森川の過去を知っていることに、驚きと寒気を覚える。
「お前も知っていたのか。ならばわかるだろう。だいたいお前には二度と近付くなと言っておいたはずだが」
「――え?」
 心臓が握り潰されたように痛くなる。
「何か、言ったの?」
 父は、嫌悪感を露わにした目で珠恵を見据えていた。
「森川さんに、何……あの時、言ったの?」
 父と森川が顔を合せたのは、家に送ってもらった時だけのはずだ。あの夜、父からは確かに厳しい口調で、今後一切あの男とは関りを持つなと言われた。ただ、珠恵の体調もよくなかったため、それ以上深く問い詰められることはなかった。
 翌日、のこのこと森川に会いに行って、「もうここへは来るな」と言われた時には、きっともう面倒な女と関わりたくないと思われたのだと、そう思っていた。
 ――あんたにはあんたの場所がある。あんたに相応しい相手がいる。それは、俺みたいな男じゃない
「ねえ……お父さん」
「ロクでもない育ちのヤクザまがいの男が娘に近付くことは許さないと、そう言っただけだ。ああいう男にはそれに似合いの女性がいる」
「そん、な……何も、何もわかってないのはお父さんの方でしょ」
 珠恵は、震える唇に力を込めて父を見つめた。胸の中が怒りと悲しみで熱くなる。
「も、森川さんは……ロクでもない人でも、クズでも、あ……ありません。それに……好きになったのは、私です。私が」
「お前……まさかあの男と」
 父が一歩こちらに近付いた。その目に気圧されないよう、真っ直ぐに見つめ返してから、微かに頷いた。
「珠恵……あなた」
 息を呑む母のか細い声が耳に届く。父は、わかっていながら今耳にした答えをそれでも認めたくないのか、一度だけ強く目を閉じ、小さく首を横に振った。
「夕べは……森川さんとずっと一緒でした。私は、門倉さんとは、結婚しません。私……私は、森川さんが好きなん」

 不意にぶれた視界と、耳に響く衝撃。広がる痛みと熱に、頬を打たれたのだと気が付いた時には、壁に打ち付けられた身体がズルズルと床に沈み込んでいた。痺れるような痛みを覚える身体とは逆に、頭の中が冷静になっていくのを、どこかで感じていた。
「お前は、私に恥をかかせる気かっ。あんな男と、よくもそんな、汚らわしい真似を」
「汚らわしい……」
 頬を手で押さえたまま、ゆっくりと顔を上げた。蔑むような目で珠恵を見下ろしている父を見上げて、微かに笑みを浮かべる。父の目が、驚いたように見開かれた。
「おとうさんも、門倉さんも、言ってることが同じ。自分達だけが特別で、……いつも、正しいって思ってる。門倉さんのことだって……私の幸せのためって、お父さんは言うけど、本当は違うでしょ」
「お前……何を、言ってる」
 今まで一度も、こんな風に正面から父に口答えをしたことがない珠恵の言葉に、信じ難いというような、呆然とした問い掛けが落とされる。
「きっと……私が望む幸せと、お父さん達が思う幸せは、違う。ごめんなさい……お父さんが思うような、正しい娘じゃなくて。私……門倉さんといると、自分が無くなっていくような気がしてた。自分が、とてもダメな人間みたいに思えて、息が苦しくて……うまく笑うこともできなくて……。こ、この家にいる時も同じだった。でも、森川さんは、私を、ちゃんと認めてくれる。いつも……胸がドキドキして、色んな……知らない自分が見えてくる。あの人といると、自分のことを、少しだけ好きになれる。……お父さん」
 気付かぬうちに流れ落ちていた涙を、手のひらで拭った。
「そんなに、汚らわしいですか? 森川さんといることで、そう思われるなら……そう思って貰っても、構いません」
「お前がこんな態度を私にみせるのも、あの男の影響か。珠恵、そんなことを私は認めるつもりはないからな」
 父の手が伸びて来て、手首を強い力で掴んだ。
「いたぃっ……」
 忘れていた手首の痛みに身体が竦む。その仕草に一瞬緩んだ父の手がもう一度手首を掴むと、パーカーの袖を上にずらした。
「何だ……これは」
 手首に薄っすらと残る擦傷に、父の視線が止まっている。咄嗟に袖をずらしてそれを隠そうとした。
「あの男がやったのか」
「ちがっ」
 驚いて顔を上げる。軽蔑、嫌悪、怒り、そういった負の感情を露わにした父の目が、その傷を睨むように見ている。
「こんなことを……するような男を、お前は」
「違うっ、違います……森川さんじゃありません」
 必死で縋り付いて、父の誤解を解こうとしても、珠恵の声は届かなかった。
「警察に突き出してやる」
「やめてっ違う。これは、か、門倉さんが……」
 腕の力を緩めた父が、目を瞠り、珠恵を見つめる。
「何を……言ってる」
「夕べ、門倉さんが、私を……し……調べるって」
「馬鹿なことを、そう言えと、あの男に入れ知恵されたのか」
 さっきまで森川に向かっていた侮蔑するような視線が、珠恵に向けられるのを感じた。
 ――言っても、恐らくお父様は信じないでしょうね
 門倉の言葉と酷薄な笑みが脳裏に浮かんで、肌が粟立つ。
「入れ知恵なんか……違う、本当に、これはっ」
「もういい。お前の話をこれ以上聞くつもりはない」
 珠恵の腕を強く引いた父は、二階へと続く階段を上り始めた。
「来なさい」
「あなたっ」
 口調はいつもと余り変わらないのに、腕を握る力と引き攣った表情が、父の気持ちが乱れていることを如実に示していた。

 緊張がピークに達していた身体は思う通りにならず、殆ど抵抗すらできずに、引き摺られるように連れて行かれたのは、珠恵の部屋だった。
 扉を開けて、部屋の中に珠恵を押し込んだ父が、厳しい顔を見せたまま口を開いた。
「いいか、外に出ることは許さない。一人になって、そんな犯罪まがいのことをする男に簡単に騙される自分の愚かさを思い知ることだ。それがわかるまで、門倉君との話は私の方でうまく言っておく」
「待って、うまく言うって、お父さん、私は」
「冷静になって目を覚ませば、お前もどちらが正しいかわかるはずだ」
「お父さんっ」
 目の前で扉が閉じられる。後を追ってきた母に、父が鍵を持ってくるように命じる声がドア越しに聞こえてきた。
「そんな、あなた、待って下さい。そこまで」
「お前の意見は聞いてない」
「でも……結婚を無理強いするなんて」
「お前のその甘さが、こんな事態を招いたんだ。お前は、娘をヤクザものと一緒にする気なのか。ずっと家にいて何もしていないくせに、せめて家の中のことと子どもの躾けくらい、まともに出来ないのか」
「それ、は……」
「もういい、私が持ってくるから、ここに居ろ」
「あなた」.
 苛立たしげな遣り取りの後、父の足音が遠ざかっていく。見張りのように母を部屋の前に置いて行ったようだが、そんなことをしなくても、混乱している珠恵はここを飛び出すことにまで頭が回らなかった。
 膝の力が抜け、部屋のカーペットの上にしゃがみ込む。今になって、興奮と緊張とで、全身が震え始めた。何度も浅い呼吸を繰り返して、何とか身体の強張りと解こうとする。
 すんなりと認めて貰えるなどとは勿論思っていなかった。半ば予想もしていたことだ。それでも、そうわかっていても。父の口から発せられた、門倉と同じように森川を蔑む言葉と表情に、強いショックを受けている自分がいた。
 父が戻って来る足音と共に、外から鍵が掛けられる。珠恵と弟の昌也の部屋は、父の教育方針として、部屋の外からだけは鍵が掛けられるようになっている。子どもの頃、昌也は、父に叱られ時々こうして部屋に閉じ込められ反省を促されていた。
 けれど、親に従順で父に反抗することなどなかった珠恵の部屋の鍵が使われたことは、今まで一度もなかった。
「私が戻るまで、食事とトイレ以外、部屋の鍵は開けるな。わかっているな」
 そう言い捨てて、父は階下へとおりていったようだった。しばらくしてから、母が小さく珠恵を呼ぶ声が聞こえた。
「珠恵? 珠恵、あなた」
「お母さん、ごめん、ね。でも……私の気持ちは、変わったりしない。変わらないから」
 珠恵のことで、きっと父に厳しく叱られるのは母だ。そのことに対する心苦しさはある。
 しばらく黙ってそこにあった母の気配が、静かに部屋の前から消えて、急に辺りが静かになった。もう、外はすっかり夜が明けてしまっている。

 父は、本気で警察に行くつもりだろうか。いや、当事者である自分がここにいる限り、きっとそこまではしないだろう。
 そんな風に言い聞かせながらも、森川に何かあったらと思うと苦しくなる。
 ひりつく痛みを取り戻してしまった手首を、そっと撫でる。門倉に付けられた傷ではなく、森川が優しく口づけたその手首の傷に、そっと唇で触れてみた。
 父の誤解を解かなければ、この傷は森川が付けたことにされてしまう。門倉の言っていた通りに事が運ぶのは、嫌で堪らない。けれど、どうすればいいのかわからない。自分で話をつけると言ったのに、もっとややこしい事態を招いてしまった。
 ――ごめんなさい、森川さん
 胸の中で名前を呼ぶ。
 ――俺には謝らなくていい
 そんな声が耳の奥に聞こえた気がした。
 携帯が入った鞄も、リビングに置いたままだ。連絡しろと言われていたのに、きっと心配もさせる。
 床に座り込んだまま、これからどうすればいいのか、自分に何ができるのかを考えようとした。けれど、昨日から今日に掛けて、目まぐるしい程に変わってしまった自分の状況に頭が混乱し、疲れ切っていた珠恵は、何もまともに考えることができなかった。
 ベッドに頭を乗せて、瞼の重さに目を閉じる。それでも、重くて目を開けたくはないのに、頭の芯は興奮が続いた状態で、眠ってしまうことさえできなかった。

 ただ頭の中で。
 珠恵の名を呼ぶ森川の声を。抱き締めてくれた森川の腕を、想っていた。



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