母家の台所では、もう既に起きていた喜世子が一人、朝食の支度を始めていた。
「おかみさん、おはようございます」
「あんた……」
目を瞠った喜世子が、慌てて火を止め風太の方へと近付いて来る。
「昨夜は、すいませんでした。結局顔出さないままで」
「そんなことはどうでもいいけど風太、あんた夕べ、あのまま……」
喜世子の視線に、黙って頷いた。
「珠ちゃんは? 一緒……なんだろ?」
確かめずにはいられないのだろう、まだ心配そうな表情を浮かべている。
「外に、待たせてます。おかみさん、ちょっと車、借して貰えますか」
「え? あ……ああ」
居間の壁に掛けられた車のキーが差し出される。物問いたげな視線を向けてくる喜世子からそれを受け取り、頭を下げて踵を返した風太の背を、堪え切れずといった風な声が追いかけてきた。
「ねえ風太っ、あんた」
「――言いましたよ」
振り返ると、口を開けたままの喜世子が、怪訝な顔をして風太を見つめている。
「言ったって、何を」
「おかみさんが、親方脅してプロポーズさせたこと」
「…………は?」
すぐには何を言われているのか呑み込めなかったのだろう、唖然とした喜世子の狼狽する様子に、つい笑みが零れる。珠恵に話したタイミングは口が裂けても言えねえな――と思いながら。
「なに、バカな話、あんた」
「笑ってましたよ」
「つまんない話を、余計なこと言ってんじゃないよ、だいたい私はそんなことじゃなくてあんたと珠ちゃんのことを」
照れながら、真面目な顔をして怒っている様子が可笑しくて声を出して笑うと、喜世子が今度は驚いたように風太を見つめた。
「そんな風に笑うの、ほんとに、久しぶりに見た気がするよ」
「……すいません」
「いや……そうやって笑えるってことは、風太、あんた」
ホッとしたのだろう、ようやく喜世子の顔つきが柔らかく解れた。
「おかみさん」
呼び掛けに、応えるような眼差しを向けた喜世子を見つめる。
「俺は、あいつを……幸せにできるって思いますか」
目を見開いた喜世子が、笑みを浮かべて風太の背を強く叩く。
「馬鹿。できるか、じゃなくて、するんだよ」
赤の他人にすぎない風太の人生を、家族のように引き受けてくれた人の力強い言葉が、スッと胸の内に入ってくる。なぜだろうか、喜世子は、初めから随分珠恵を気に入っていた気がする。まるで、こうなることを知っていたかのように。
「きっとこれからが大変なんだろ。ここであんたが揺らいでどうすんの」
視線を合わせ、笑みを浮かべてみせて。風太は、静かにその言葉に頷いた。
「さっさと、掻っ攫って来な」
ほら、と喜世子に背を押され、珠恵の待つ玄関先に戻る。所在無げに門前に立っていた珠恵が、風太と一緒に出てきた喜世子の姿に、頬を赤くしながら頭を下げた。
「珠ちゃん」
「お、おはようございます。あの、お久しぶりです、あ、この服、お借りしてしまって」
顔を合わせるのも久々だというのに、どう考えても朝帰りだとわかるこの状況の気恥ずかしさにだろう、珠恵は耳元まで赤く染めている。風太よりも先に珠恵の元に走り寄った喜世子は、手を伸ばして両手を握った。
「久しぶり、だね」
「はい……あの、私」
「もう会えないのかってホント寂しかったよ。会わない間に、あんたちょっと、痩せたね」
顔を上げた珠恵の瞳が、揺れる。
「私は珠ちゃんの分も食べてるから、また太っちゃったよ」
泣きそうな顔をして笑った珠恵の肩を何度も撫でながら、喜世子が頷いている。そんな二人の様子を黙って見つめながら、風太は自分の胸が温かいことに気が付いた。珠恵と出会ってから、こんな風に人の温かさを、以前より素直に受け取れるようになった気がする。
珠恵に顔を近づけた喜世子が、風太に聞こえないような小声で何か話し掛けている。その直後、珠恵がまた顔を真っ赤にして俯きながら、小さく頷くのが見えた。
「そう……良かったね」
何をコソコソ話しているのかと気になっている風太を、喜世子が、振り返り見遣った。
「あの馬鹿が煮え切らないから、もう、駄目かと思ったんだよ」
目元になぜか得意げな笑みを浮かべて、わざと大きな声でそう口にするのには、「馬鹿ですんません」と、苦笑いで返すしかない。
嬉しそうに笑った喜世子は、顔を赤くした珠恵を見て、優しい笑みを浮かべた。
「珠ちゃん。風太がグズグズしてたら、あんたが発破をかけりゃいいんだよ。放っとくと男どもは、ほんとハッキリしないからね」
今度は、風太にもしっかりと聞こえるように、そう言葉を続ける。
「あの……」
どう答えればいいのか、狼狽えた珠恵が、喜世子と風太の顔を交互に見つめる。笑みを収めた風太は、二人のそばに歩み寄り珠恵の隣に並んだ。
「おかみさん。俺は、言わせませんよ」
「……え?」
「へえー、そんな口叩けるようになったんだ。夕べとはえらい違いだね。確かに聞かせてもらったからね」
「ゆう、べ?」
「何でもねえよ」
ばつの悪さに珠恵の疑問を遮ると、ニヤッと笑った喜世子が「今度教えてあげるよ」と、楽しそうに耳打ちをしていた。
「聞かなくていいぞ」
苦笑いを落としてから、じゃあ、と風太は喜世子に背を向けて、珠恵を伴い車庫へと向かう。途中で足を止めた珠恵が、振り返り、門前で二人を見送っている喜世子にもう一度しっかりと頭を下げた。
車が見覚えのある住宅地に差し掛かると、風太の中に苦い記憶がよみがえる。珠恵の家の少し手前で車を止めて、助手席に気付かれぬようそっと息を吐き出した。
珠恵の表情も、自宅が近付くにつれ明らかに硬くなっていく。手を伸ばし頬に触れると、ビクッと身体を揺らして、強張った顔がこちらを向いた。
「大丈夫か?」
風太の瞳を見つめた珠恵が、ゆっくりと頷いた。
「やっぱり俺が」
遮るように、首が横に振られる。ホテルにいた時から、一緒に行くと、風太から話をすると何度言っても、珠恵は決して頷かなかった。
「ずっと……」
強張った唇が、意を決っしたかのように開かれる。
「私は、ずっと。小さい頃から……あの家の中で、息をするのが苦しかった。父は、いつでも、正しくて絶対で、何の、と、取り柄もない私のような娘は、父の言うことをきいていれば、間違いのない人生を送れるって、そう……言われてきました」
珠恵の色を失くした頬を、指の腹でそっとなぞる。
「父の前では、ずっと私は、何も、上手く自分の気持ちを話すことが、できませんでした。それは、今でも、同じです。何か言おうとすると、頭に血が昇って、緊張で震えるんです。自分が、何もできない人間に思えて……。きっと私は、父が望んでいたような子どもになれなかったんです。能力も、性格も、よ、容姿も……きっと何も、父を満足させられるものはない……。だから父は、あの人と、私を、結婚させたいんです。自分の子どもでは、満たせない虚栄心を、あの人なら満たしてくれるから。だから……私には、勿体無いくらいの話で、私みたいな娘を、の、望んで貰えるだけで、ありがたいことだって……」
震えるか細い声で、絞り出すように言葉を紡いでいく珠恵の唇が苦しそうに、けれど笑みを形作ろうとする。シートベルトを外し身体を引き寄せて、後ろに回した手で、珠恵の背中をゆっくりと繰り返し撫で下ろした。そうするうちに、腕の中で華奢な身体が、力を抜くように小さく息を吐き出すのを感じた。
珠恵の心に少しでも届いて欲しいと願いながら、口を開く。
「お前は、きれいな女だ。俺にとっては、能力も性格も容姿も何もかもが。きれいで……眩しい。俺が触れたら、穢してしまうんじゃないかって、怖くなるくらい」
「もりかわ……さん」
「でもな、俺にも、誰にも穢すことなんかできねえんだってわかった。そうじゃなくて、お前に触れると、俺の方が、きれいで温かいものに満たされる」
腕の中で身じろいだ珠恵が顔を上げ、透明な涙を湛えた瞳が風太を見上げた。
「私は、……きれいじゃあり、ません。本当は……何一つ自信も自慢できるものもなくて、ただ臆病なだけで、きっと、いつも森川さんの、そばにいる人達には、敵わないって……知ってます。敵わないのに、酷い嫉妬だってします」
「珠恵」
「森川さんのそばにいると、……ずっと、胸が痛いです。痛くて、苦しくて、見たくない自分の醜い感情だって、たくさん……見えてくる。でも」
風太の背に廻された珠恵の指先に強く力が込められる。
「でも……同じくらい、胸が温かくなって、ドキドキして、ずっと、そばにいたくなるんです。ずっと……。重い、ですよね、こんな」
「忘れたのか?」
珠恵の手を取り、胸に当てて、笑みを浮かべた。
「お前は、もう俺のここにいるんだ」
「もり……かわ、さん」
「離れたいって言っても、もう、離したりしねえからな……いいか」
柔らかな身体を、隙間がなくなる程の強さで引き寄せる。このまま自分の中に、もう彼女の全部を、取り込んでしまいたかった。
「離れたいなんて、言ったり、しません」
少しだけ身体を引き離した珠恵が、涙を湛えた目で真っ直ぐに風太を見つめる。
「もう、離れたく、ありません。初めて、心から望むんです……だから……そのために」
「……珠恵」
「ちゃんと自分で……自分の言葉で、父に、話します。自分のことなのに、いつまでも、何も、言えないままじゃ、きっと駄目なんです。ちゃんと、お見合いも断ります。もしも、許して貰えなくても。自分の口で……森川さんのそばにいたいって」
「本当にそれでいいのか?」
「はい」
きっと。あの父親が娘の言葉を、いや風太を受け入れることはないだろう。そう簡単なことではないと、きっと珠恵もわかっている。それでも、揺るぎない瞳を見ていると、その意志を止めたりは出来ないとわかった。
「必ず、迎えに行く。その時は、俺からもちゃんと話をする。必ず、だ。だから一人で、無理をするな。それから……、駄目だと思ったら必ず俺を呼べ」
「……はい」
頷いた珠恵が、ゆっくりと風太から身体を離し、ドアに手を掛けてから振り返った。開いた唇を躊躇うように一度結んで、視線が僅かに俯けられる。
「どうした」
「森川、さん」
「ん?」
「あ、あの……もう一度だけ、キス……して、もらえませんか」
耳元まで赤く染めて、消え入りそうな声で呟いた珠恵の腕を引き寄せると、風太を見上げた彼女の唇を、何も言わずにそっと、慈しむように塞いだ。重ねて、薄く開いた唇を食んで、そこから舌を入れて、まだぎこちなくも必死で応えようとする珠恵と、心を繋ぐようにそれを絡ませて、息が上がる程のキスを交わす。
「……珠恵」
「すき、です」
繋いだ唇を離すと、上気した珠恵の瞳から零れる涙を指で拭った。
「行って、来ますね」
目を赤くしたまま珠恵が笑ってみせたから、風太もそれに応えるように笑みを浮かべ頷いた。
助手席のドアを開け車から降り立った珠恵は、ガラス越しに交わした視線を逸らすと、背を向けて、家に向かい歩いていく。その後ろ姿を、風太は車内からただじっと見送った。
本当は、僅かな間でも離れたくないのは風太の方だった。一人でなど行かせたくはない。誰かの存在が、これ程までに深く自分の中に入り込んだのは初めてのことだった。いつからか気が付かない程静かに、けれど確かな重さで、珠恵は風太の心の中に息づいていた。
門の前で一度だけ足を止めた珠恵が、振り返ってこちらを見つめる。視線を合わせたまま、その姿が門の中に消えて行くのを、瞬きもせずに見つめていた。
珠恵の存在が視界から消えた途端、急に身体か冷たくなったように感じて、深く息を吐き出す。
気持を鎮めるように目を閉じてから、車のエンジンを掛けた風太は、二人で来た道を一人で引き返した。