「……眠ったのか?」
知らない感覚に翻弄され力が抜けて、しばらくは何も考えられずにぼんやりとしていた珠恵は、身体を拭われながらいつのまにか目を閉じてしまっていた。
そんなつもりではなかったけれど、珠恵を気遣う森川の静かなその声が耳に届いた時、なぜだか目を閉じたまま眠っている振りをしてしまった。
小さな溜息のようなものが聞こえ、そっと髪を撫でる手の存在を感じる。同じリズムで触れてくるその手の心地よさが、胸に切ない痛みを生む。思わず開きそうになった目を、珠恵は必死で閉じていた。今、森川の顔を見たら、きっと泣いてしまうとわかっていたから。
身体の奥にはっきりと残る鈍い痛みと、全身の気怠さが、さっきまでの時間が夢ではなかったのだと珠恵に教えてくれる。
森川の腕の中で自分が口にしたことを思い出すと、恥ずかしさに熱が込み上げそうになる。誤魔化すように寝返りをうち顔を伏せると、起こしてしまったとでも思ったのだろう、手の動きが様子を窺うように止まり、やがてゆっくりと離れていった。
手のひらの温もりがなくなると、さっきまであんなに近くで重なっていた森川の存在が遠くなったように感じて、酷く心許なくなる。
そのまま寝たふりを続けるうちに、やがて隣から緩やかな寝息が聞こえてきた。そのリズムが一定になるのを待って、そっと、目を開けてみる。
横向きになった森川の身体が思ったよりも近くにあって、手を伸ばせばすぐに届く距離で眠っている。珠恵は、その寝顔をただじっと見つめていた。
こんな風にずっとずっと穴が開くほど見つめていたら、この人の胸に本当に穴が開いて、そこに、自分が入り込めるのではないか――。そんな馬鹿げたことを考えてしまう自分が可笑しくて、微かに笑みを浮かべた。
――もりかわ……さん
胸の中で名前を呼びながら、その腕に触れようと伸ばしかけた手を、止めた。少し眉根を寄せたまま今は眠っているように見える森川を、起こしてしまいたくはなかった。彼が目を覚ませば、もう、この時間は終わるのだから。
――もりかわ、ふうた、さん
声に出さずに、唇だけを小さく動かして森川の名前を呼んでみる。ただそれだけで、胸の奥が温かくなるのに、同じくらい苦しくなる。
彼の腕に縋りつきながら、何度も何度も呼んだ名前。その胸の温かさも、腕の力強さも、触れる手の熱さも、いつもとは違う熱の込もった瞳も、もう全部知っている。知ってしまったことが、こんなにも胸を痛くするとは思いもしなかった。
あんな風に、優しくなんてしないで欲しかった。後腐れのない遊びの相手のように、扱って貰った方がよかった。それなのに、森川は珠恵に優しかった。まるで大切な人のように、愛しそうに名前を呼んでくれた。
珠恵に懇願され、ただ同情で抱いてくれただけだ。そう何度も自分に言い聞かせなければ、錯覚してしまいそうだった。このまま、こんな風に森川の側に、ずっと居られるのではないかと。
この夜が明ければ、今日のことは思い出になって、森川は森川の、そして珠恵は珠恵の、互いに交わることのない生活へと戻っていく。ただ一晩だけの夢に過ぎないのに。それでもいいからと望んだのは自分なのに。それなのに夢なら二度と覚めないでと、祈るように願う自分がいる。
――欠陥品なんかじゃない
あんな醜い傷にさえ、綺麗だと言って口づけてくれた森川。
――この程度の欠陥は、目を瞑りましょう。だが、みっともいいものでもない
冷たく蔑むような声で、ゴム越しに傷に触れた門倉。
これから先の未来が、森川とは繋がらないことは知っている。わかっている。それでも、同情でも森川が大切に開いてくれたこの身体を、門倉に触れられることを考えただけで、嫌悪と恐怖で身体が震える。もう、あそこに戻ることはできない、戻りたくなどない。
もはや門倉には、指の先にすら触れられたくない珠恵と、他人の物には触れたくない門倉。
そうか――と、可笑しくなり、珠恵は口元に笑みを浮かべた。あの人は。門倉という人は、他の男を知った私をそばに置いたりは決してしないだろう。そのことが、ほんの少しだけ胸の支えを軽くしてくれる。
じっと見つめていた森川の寝顔が、少しずつぼんやりと歪んでいく。目尻からベッドに流れ落ちた雫を追うように、珠恵は、顔を伏せてそっと瞳を閉じた。
あと、もう少しだけ――。
目が覚めるまでは。ただ、森川の側にいられる夢を見ていたかった。
力を入れずに撫でていたつもりが、珠恵が顔を動かす仕草に、起こしてしまったかと髪に触れていた手を止めた。寝返りを打つように顔をシーツと自身の腕に埋めた珠恵は、目を覚ました様子はなく、静かに眠っているようだった。
伸ばしていた手をそっと下ろし、しばらくはただぼんやりと横になっていたはずが、目を閉じた自覚もなくそのまま少し眠ってしまったらしい。微睡みの中で風太が見ていたのは、家に戻らない母親を待ちながら、棄てられる恐怖に、心が冷たく凍っていく子どもの頃の夢だった。
しばらく見なくなっていたこの夢を、最近、なぜかまた度々見るようになっていた。胸の中から何かが失われていく嫌な感覚を覚えて、不意に目が覚める。薄暗い部屋の天井に映ったもうあの頃のような小さな子どもではない自分の姿に、一瞬頭が混乱する。鏡の中、隣に眠る人の姿を認めて、その存在にようやくホッと息を吐き出した。
時計を確かめると、それ程眠っていた訳ではないようだった。身体を横に向けてみると、珠恵は、風太が羽織らせた大きめのバスローブに包まるように、身体を丸めて眠っている。半ばシーツに伏せられた寝顔が見たくて髪を指で掬い上げようとしたが、目を覚ましたら可哀想だと思い直し、伸ばしかけた指先を握り締めた。
夢見が悪く、身体に嫌な汗を掻いている。なるべく物音を立てないようにベッドを抜け出した風太は、バスルームで熱いシャワーを軽く浴びた。
タオルでさっと拭いただけの半ば濡れた髪のまま部屋に戻ると、まだ眠っている様子の珠恵を起こさないように、静かにベッドの片隅に腰を下ろす。肩越しに振り返ると、しばらく見つめていなければ不安になる程微かに、珠恵の身体が呼吸に合わせて動くのがわかる。
顔を正面に戻した風太は、静かに、空へ向けて息を吐き出した。
珠恵を抱いたことを、後悔などしていない。けれど、彼女は果たしてどうだろうか。適当な気持ちや、その場限りの勢いで寝た訳ではない。そうとはいえ、自分と居ることで珠恵が失う物を考えると、覚悟を決めたつもりでも心が揺れる。
だからといって、ならば手放せるのかと考えれば、まるでさっき見た夢の中の子どものように、胸の奥が冷たくなっていく嫌な感覚を覚えて、風太の全部がそれを拒絶する。
気怠さにぼんやりと虚空を見つめながら、これからのことを考えようとして。
――なあ、風太
不意に思い出されたのは、酔った安見と交わした会話だった。
「なあ、風太」
「――あ?」
「お前、女に惚れたことあるか」
「……んだ、それ、くだらねえ」
「まあ……ねえ、だろうなあ」
「んなの、女なんてヤレりゃなんでもいい」
「恥ずかしい奴だな、お前。たかが十四、五のガキのくせして、女ぁ知り尽くしたような口ききやがって。どうせあれだろ。女なんて皆、てめえのお袋と同じだってそう思ってんだろが」
「……っせえ」
「かわいそうになぁ。つまんねえセックスしてんだろなあ」
「マジうぜえ、エロおやじが。ってか、何さわってんだ、髪さわんな」
「いいぞぉ……風太。マジで惚れた女ってのは」
「しつっけえよ、おっさん、離せって」
「――なあ、風太ぁ。おめえみてえな奴はな……こいつのために死ねるって女じゃなく、こいつの為に生きてえ、こいつと一緒に生きていきてえって、……そう思える女ぁ、探せ。んで……そういう女ぁ見つけたら、そいつを離すな。わかったかっ、おいっ、風太ちゃんよ……」
「わけわかんねぇ、寄んな、マジ酒臭えっ……ちょ、何すんだ、離せって」
「おめえはよ、ぜってえ……離すんじゃ、ねえぞぉ」
誰と会っていたのか、安見が、珍しく上機嫌で酔っぱらって帰って来たその夜。眠る風太を無理矢理起こし、また杯を重ねながら、呂律の回らない口調でダラダラと話し続けていた安見が、ようやく欠伸をし始めた頃の遣り取りだった。
言い終えて満足したのか、そのまま風太を抱え込むように眠ってしまった安見を、仕事を終え帰宅したこずえと二人、ベッドに寝かせるのにとても骨が折れたことを覚えている。
なぜこんなことを突然思い出したのだろうと思いながら、微かに緩んだ唇を結び、背後で眠る珠恵を、振り返って見つめた。
こいつのために……こいつと一緒に、生きたい――
安見の言葉に重ねるように、珠恵と共にある未来を想像する。その瞬間、自分でも思い掛けない程の激しさで、そこにあるものを望む気持ちが膨らんだ。
珠恵を受け入れるなら、一人の女の人生を変えてしまうことに、責任を取らなければならないとそう覚悟したつもりでいた。けれど安見の言葉は、本当はもう溢れ出す程の強さで、その存在を願い乞うていたのは、自分の方だと風太に気付かせた。
こうなることを望んだのは珠恵でも、抑えきれない飢えにも似た渇望を抱いていたのは、自分の方だったのだと。
固く凍っていた胸の奥に、いつの間にか存在していたこの気持ち。それは、今、生まれたばかりのものではなかった。そのことに気が付き酷く狼狽えた風太の視線の先で、珠恵が微かに身じろぐ気配がした。
目を覚ましたらしい珠恵が、ゆっくりとした仕草で身体を起こす。何度か瞬きを繰り返し、まだ頼りなげな瞳が風太を見つけて、ほんの僅かの間だけ視線が絡み合った。
「……あの……」
口籠り、先に目を逸らしたのは珠恵の方で、伏せたまつ毛が震えるように揺れ、首筋から耳元が薄っすらと赤く染まっていく。
その横顔に、風太は、ただ目を奪われていた。