電話で珠恵に連絡を取り、風呂から出ているのを確かめてからホテルへと戻った。
念のためドアをノックしてから部屋に入ると、風太が出て行った時より血色が戻った顔をした珠恵が、バスローブを身につけやはり所在無げに立っていた。
普段からメイクは薄かったように思うが、本当に素っぴんなのだろう今の珠恵は、いつもより無防備で、どこか儚く頼りなく見える。
「少しは、温まったか?」
「はい、あの……ありがとう、ございました」
部屋の奥へと足を進めて、喜世子から預かってきた服を丸いベッドの上に放り投げた。
「それに、着替え入ってるから」
ブランドのロゴが入ったナイロンの袋に視線を送ってから、問うような眼差しが風太に向けられる。
「愛華の服。細いから着れるだろって、おかみさんが貸してくれた」
「愛華、ちゃんの」
「殆ど着てねえもんだから遠慮なくどうぞって」
珠恵の戸惑いが伝わってくる。愛華から、というだけでも厄介な上に、傘ですら返さなければならないからと断ったのだ。服など借りたのでは、さすがに捨てることもできないだろう。けれど、もう一度あの濡れた服を今から着るのも、かなり躊躇われるはずだ。
秤は、恐らく愛華の服を借りるほうへと振れるだろう。
それを見越していながら、風太は、送って返せばいいとは言ってやれずにいた。
腕に嵌めたダイバーズウォッチで時間を確かめる。時刻はあともう少しで十一時になろうとしていた。
今からなら、急いで支度をすれば充分電車に間に合うな――。
そんなことを考えながら顔を上げると、風太を見ていたらしい珠恵の視線がスッと逸らされ俯き加減になる。その一瞬、彼女の顔が泣きそうに歪むのがわかった。
珠恵から視線を逸らしながら、風太はさっきからもうずっと、モヤモヤとしたものに頭も胸の中も支配されていた。
「しばらく外にいるから、支度終わったらドアを叩いてくれ」
重苦しい空気にそっと息を吐き出して、黙ったままの珠恵に一息で声を掛け、背を向ける。部屋に備えられた電話へと近付いた風太は、再びフロントに連絡を入れるために、受話器に手を伸ばした。
その時――
小さな白い手が、受話器を握る風太の手を押さえつけた。振り返ろうとした背中に軽い衝撃が加わり、妙に甘ったるい石鹸の香りと重ねられた温もりを感じた。
頭の中が、一瞬白くなる。
シャツを掴み身体を寄せた珠恵を、風太は振り解くこともできず、目を閉じてゆっくりと止めていた息を吐き出す。
「どうした」
動揺などまるでないような素振りで、軽く笑いながら問う。それなのに、振り向くことも、身動きすることさえもできない。
「……ここに……いて、ください」
「ドアのすぐ外にいる」
「一緒に、ここに」
「駄目だ」
――所詮君は、父親が誰かもわからないような、ロクでもない母親の息子だ
――君のようなヤクザまがいの男と一緒にいるだけで、うちの娘までもが世間から白い目で見られる
侮蔑を隠さない目で風太を見下した珠恵の父親の影が、全身を絡め取るように重く圧し掛かる。
――君は、分不相応、という言葉を知っているか?
知らないだろう。とでも言うように、口元に薄く浮かんだ嘲笑。
「やっぱり」
口をついて出たのは、自分でも情けなくなるような綺麗事だった。
「ちゃんと親に話せ。自分の娘にそんなことするような男だってわかれば、あんたの親だって」
「やめて下さい」
心にもないことを口にして、どこか上滑りしているような風太の言葉を、強張った声が遮った。背中越しに感じる風太のシャツを握る手に、さっきまでよりも強く力が込もる。
「わかってます」
何を、と聞き返す前に、硬質だった声が崩れた。
「わかってる……から、関係ないって、ちゃんと……ダメだって、わかって、ます。だから……もう、会いに来るつもりなんてなかった……ほんとです」
微かに嗚咽が混じる声が、途切れ途切れに背中越しに聞こえる。
「わかって、たのに……なのに……」
――珠ちゃんは、あんたに会いに来たんだろ
受話器を握る手に力を込めながら、風太は、目を固く閉じて続く言葉を聞いていた。
「雨が、降ってたから」
頭の中で、降りしきる雨と共にあの図書館の景色が浮かぶ。部屋の中に、聞こえるはずのない雨音が響いている気がした。
「あめ……?」
「雨の日は……森川さんに、会える……日だったから」
胸を、何かに強く掴まれた気がした。痛みが、そこから指の先にまで、神経を辿って伝わる。
「お願いです……これで、ちゃんと終わりに、します。だ、だから……一度だけでいいから、私を――」
「何を」
「……ぃて……下さい」
くぐもった震える小さな声。掠れた声音が耳に届いて、眩暈がしそうだった。
「……俺みたいな男に、バカなことを、言うな」
「やっぱり……わ、わたしじゃ、そんな気に、なり、ませんか」
「そうじゃない」
「だったら」
「でも駄目だ」
「嫌だったんですっ」
振り絞るような声に、僅かに後ろを振り返る。俯いていた顔が上を向き、泣き濡れた瞳と視線が絡んだ。そこから、もう目を逸らすことができない。
「冷たい目で、あんな風に観察するみたいに……触れる手もとても冷たくて……い、嫌で……怖くて堪らなかった」
シャツの背を掴んでいる手をそっと引き離し、ゆっくりと身体を珠恵の方へと向ける。
「どうすればいいのか……もう、わからない」
「だから、それは」
「あの人は、とても狡猾で頭がいい人です。きっと、私が……父に何を言ったところで、父は、あの人の言葉を信じます。たとえ知っても、きっと、目を瞑ります」
「んな、バカな話が」
首を横に振った珠恵は、何かを諦めたような笑みを浮かべ風太を見つめた。
「今は……もう何も、考えたく……ありません。ただ……」
風太を真っ直ぐに見上げる、どこか静謐な覚悟を秘めたような珠恵の瞳を、見つめ返す。
「せめて、この気持ちだけ。……森川さんへの、この気持ちだけは、大切な、思い出に持っていたいんです」
濡れた瞳から伝い落ちる涙を見ながら、ずっと自問していた問いへの曖昧だった答えが、風太の中にはっきりとした輪郭を伴い浮かんでくる。
そんな男に、彼女を返したりしない。
誰にも、二度と触れさせたくない。
たとえ彼女から――何かを、奪うことになったとしても。
「お、重く考えたり、しないで下さい。……遊びでいいんです……ただの、遊び」
「重いに決まってるだろ」
強く握っていた拳を解き、ゆっくりと手を伸ばしながら。ここで珠恵に触れるのなら覚悟を決めろと、風太は自分に言い聞かせていた。一度掴まえたら、後になって彼女が間違いだったと気が付いたところで、もう離してやることなど、きっとできそうにない。
風太の言葉の意味を取り違えたのだろう。悲しげに視線を落とした珠恵の頬に、そっと指で触れ、涙を拭う。
しっとりと濡れた柔らかな頬を指の腹でなぞり、驚いたような表情で風太を見上げた珠恵がもう一度口を開くその前に――
「勝手に思い出なんかに、されてたまるか」
呟くように口にしながら、その唇を塞いだ。