本編《雨月》

第十章 雨と雷鳴2



 髪や服からも雨が滴る程濡れた珠恵の身体は、すっかり冷え切ってしまっていた。
 こんな状態の客をタクシーが乗せてくれるかもわからない。第一こんな雨の夜にすぐにタクシーがつかまるとも思えない。それに、こんな状態の彼女をタクシーに乗せるのも抵抗がある。
 そんな言い訳を胸の内に並べながら、風太が珠恵の手を引いて入ったのは、そこから歩いて十分程のファッションホテルと呼ぶには無理がある、派手なネオンの古いラブホテルだった。
 家から近過ぎるため、さすがに風太も利用したことのない場所だったが、この雨のせいか空室は二部屋しかなかった。どちらもパネルを見る限り、普段なら選びたくない下品な装飾の施された部屋だ。けれど、チラッと見ただけでまだマシな方の部屋を選んだ。
 ――身体、冷え切ってるし、服も乾かさなきゃならねえから
 たったそれしか言わず、手を引いて歩き出した風太の後ろをずっと黙ったままついて来た珠恵は、どう見てもそれとわかるホテルの入口に足を踏み入れようとしたその時、初めて一瞬だけ、躊躇うように足を止めた。握った小さな手に、微かに力が入っていた。
 本当なら母家で風呂を借りてやりたい。けれど今の時間はまだ宴会が続いている。職人連中の中には、酔うと女に見境がなくなる性質の悪い男もいる。なにより酔っ払った男達が大勢いるあそこには、今の珠恵を連れて帰る気には到底なれなかった。
「俺の部屋、風呂ついてねえから。こんな場所で悪い」
 振り向きながらそう言った自分は、彼女にどんな顔を見せていただろうか。躊躇いを見せるほうが疾しいような気がして、何でもない素振りでそう口にした。
 引かれていた腕に少しだけ力を入れたまま、俯き加減で小さく頷いた珠恵の顔を、風太はそれから真っ直ぐに見ることができずにいる。繋いでいた手は、ホテルの入口を潜るとすぐに解いてしまった。

 ドアを開けて目に入ったのは、思わず溜息をつきたくなるほどけばけばしい内装の部屋だった。風太に続いて足を踏み入れた珠恵も、少しあっけに取られたように部屋の中を見渡している。
 今の自分にはこれくらいが丁度いい。却って、おかしな気にならずに済む。そう思いながら、呆れたように笑ってみせた。
「こりゃ、ひどい部屋だな」
 後ろで小さく同意する声が聞こえたが、振り向かずに部屋の中へと入って行く。
「ちょっと待ってろ」
 言い置いてバスルームへ向かった風太は、先にタオルを手に珠恵の元へ戻り、それを手渡してから再び浴室へと戻った。
 ピンク色のライトに照らされたタイルの上に置かれた卑猥な形の椅子を、外に出して隠す。シャワーで軽く浴槽をすすぎ、湯加減を見ながらお湯を張り始めた。
 顔を上げて周りを見渡すと、ガラス越しに、部屋の真ん中で所在無げに立っている珠恵と目が合う。気まずそうに先に目を逸らしたのは、珠恵の方だった。
 三方をガラスで囲まれたバスルームは、部屋の中から全てが丸見えになる。少し照明を落とした室内からは、ちょうどベッドに寝そべったまま、シャワーを浴びる人の姿を楽しめるようになっている。いわゆるこういったホテルを使う時の本来の目的においてなら歓迎すべきその作りも、今日のこのシチュエーションでは余計なものでしかなかった。
 天井を始め、必要以上に鏡が使われているこの部屋では、ご丁寧にバスルームの天井にも大きな鏡が張られていて、浴槽から上がる湯気にも曇ることなく、そこを見上げている間抜け面の男とはっきりと目が合う。
 珠恵が天井を見上げないことを祈るばかりだと、今度こそ小さく溜息を吐いてから、部屋へと戻った。
「もう少ししたら風呂溜まるから」
「……あ、の」
「ちょっとあれじゃ落ち着かないだろうけど、俺は外に出るから安心しろ。三十分もあればいいか?」
「外って……」
「服、それじゃもう着れそうにねえから、着替え取って来る」
 戸惑ったように、不安気な双眸が風太を見つめて揺れる。
「私……このままでも」
 もう夏の気配が色濃いこの時期、外の気温はどちらかといえば高めだった。けれど、さっき抱き締めた珠恵の身体も握った手も、雨に濡れそぼり冷え切っていた。このままでいいと言いながら、口を噤んだ彼女の口元から、歯がかち合う微かな音が聞こえる。
「身体、冷えてるだろ。唇も紫んなってる。こんな場所で嫌だろうが、風呂だってないよりはましだ。とにかく、身体を温めろ」
 躊躇った後、小さく珠恵が頷くのを見て、少しホッとする。
「この部屋、どこにいても丸見えだからな。俺も、目瞑ってる自信ねえし落ち着かない」
 色を失くしていた珠恵の頬が、微かに赤く染まる。その表情から視線を逸らして、風太はフロントに連絡を入れ外出することを告げた。
「困ったことがあれば、すぐに電話しろ。あ……俺の番号、まだ残ってるか?」
「……はい」
 静かに頷いた珠恵の頭に手を乗せる。
「こんな場所で一人にしてすまねえな。けど、必ずちゃんと戻ってくるから、勝手に帰んじゃねえぞ」
 先回りして釘を刺しておく。やはりそのつもりだったのか、珠恵の顔に気まずそうな表情が浮かぶのを見て、小さく笑いながら言葉を繋いだ。
「戻ってあんたがいなけりゃ、俺は、女に逃げられた間抜け野郎になんだからな」
 どことなくわざとらしい軽口に、困ったような顔で笑った珠恵にもう一度笑みを返して。タオルやバスローブの場所だけを簡単に説明し、風太は部屋を後にした。

 タオルを手に頼りなげに立つ珠恵を見ないようにして、扉を閉め深く息を吐き出してから、ドアに凭れ掛かる。
 こんな場所に、少しの間であっても彼女を一人置き去りにすることに、ひどく後ろ髪を引かれる。今日の珠恵の様子を思えばそれは尚更だった。
 けれど、その気持ちと同じ程の重さで、二人きりでこの空間にいることに息苦しさを感じていた。茶化すように落ち着かないと口にしてみせたが、あれは殆ど風太の本音だった。
 ――何やってんだ俺は
 珠恵の、恐らくはまだ男を知らない肌に残された所有の印。もう彼女は自分のものだから何をしてもいい、と言わんばかりの見知らぬ男の振る舞いに、腸が煮えくり返る程の怒りを覚えている。
 珠恵は、それでもその男と一緒になるつもりなのだろうか。
 そいつがどんな男か親に言え――そう言った風太に、悲しそうな笑みを浮かべ、ただ静かに首を横に振っていた。
 そんな男の元に、本当に返していいのか。本当に返すつもりなのか。
 二人で歩いてきた国道を、一人傘を手に足早に戻る。ビニール傘を叩くボタボタという耳障りな音を聞きながら、風太は、何度も何度も繰り返し自問していた。

 部屋に戻った風太は、濡れた服をさっと着替えてから、母家へとこっそり顔を覗かせた。今誰かに捕まると面倒だと、予め電話で用件を伝えておいた喜世子は、玄関先に出てくると、どこかまだ驚いたような、そして何か言いたげな顔で風太を見遣った。
「ほら、これでいい?」
 本人が風呂に入ってる間に部屋から調達してきた、と愛華の服を、濡れないように袋に詰めて手渡された。
「すいません。愛華には、後で俺から」
「言わなくていいよ。あれだけ持ってるんだから、少しぐらい部屋から消えてても気付きゃしないって」
「ありがとう、ございます」
 頭を下げ、玄関の扉に手を掛けようとして、「風太」と、呼ばれ振り返った。
 真っ直ぐに風太を見ている喜世子の顔を見ながら。母親っていうのはこういう顔をするもんなんだろうか、と思っていた。
「あんた、珠ちゃんを、どうするつもり」
 喜世子には、珠恵と見合い相手の間にあったことは、伝えていない。けれど、持ち前の鋭さで、珠恵に何かあったのだろうと察してはいるようだった。
「どう……って」
「あの子、まだあんたのこと」
「おかみさん」
 喜世子の言葉を遮り、首を横に振った。
「俺は……中学もまともに出てない、身体に、絵を背負ってるような男ですよ」
「そりゃ……どんな事情であれ、あんたが昔馬鹿やってたのは本当のことだよ。けど、ヤクザになったわけじゃないだろ」
「なるつもりでいたんだ。似たようなもんです」
「でも、ならなかったじゃないか。今のあんたはちゃんと真面目に働いてる。それに昔を取り戻そうと努力だってしてるだろ。だいたい学歴なんて言ったら、お父ちゃんだって中卒じゃないか。それにね、学があったって、どうしようもない馬鹿な人間は山ほどいるよ」
「彼女には……彼女に相応しい相手がきっといますよ」
 答えながら、砂を噛むような気持ち悪さを覚えていた。
 珠恵の見合い相手は、確かえらく高学歴のエリート役人だと言っていた。けれどその男の振る舞いは、男として、いや人として最低なものだと言える。そんな男が、珠恵に相応しいとでも言うつもりなのか。
 いや、そいつ以外にもっとまともで珠恵に相応しい男がいるはずだ。
「ごちゃごちゃ言ってるけど、風太あんた」
 喜世子が、口元は笑いながら、けれどまるで挑発するような目を風太に向けた。
「結局、惚れた女の一人も幸せにする自信がないんだろ」
「惚れた、女って……」
「違うのかい。そりゃ悪かったね。ま、確かにあんたにはもったいないね。あんないい子」
「その、通りですよ」
 笑いながら答えた声が、どこか卑屈で投槍に響いて、喜世子から視線を逸らした。
「じゃ、あんたなんか忘れて、学のある偉いお役人さんと一緒になった方が珠ちゃんも幸せになれるってことだね」
 ついさっきまでは確かに、それが珠恵にとって、一番の幸せなのだと思っていた。苦々しい思いで指を握り締めて、喜世子を睨むように見つめる。
「だったら何で、あの子はあんたに会いに来たの」
 風太を認めた瞬間、驚いたように見開いた目をすぐに逸らしてしまった珠恵。伏せた睫毛を震わせながら、また気丈に笑ってみせようとしていた。
「偶然だなんて馬鹿な嘘、信じるとでも思ってんなら、私も随分見くびられたもんだね。珠ちゃんは、あんたに、会いに来たんだろ」
「……それは」
「その方が幸せなら、何でこんな雨ん中、会えるかどうかもわからないあんたのとこにあの子はやって来たのかって聞いてんだよ」
 鼻から息を抜くように笑った喜世子が、何も答えられない風太の前で、大げさな溜息を吐いた。
「なっさけない面して。風太、あの子があんたといるとき、どんな顔で笑ってたか、どれだけ必死にあんたを見てたか、本当は気付いてたんだろ。女がどんなことに幸せを感じるのか、馬鹿な男にはわからないのかね。あの子の幸せの在り処をあんたが勝手に決めんじゃないよ」
「馬鹿な男だってことは……俺が、一番よくわかってます。そんなこと言われなくても」
 情けなさに拍車を掛けるような弱音を吐いて、喜世子から顔を逸らした。
「服、借りてきます」
 逃げるように玄関の引戸を開けて、振り向かずに扉を閉める。
 まだ降り止まない雨の中、吐く息と共に握り締めた手から力を抜いて、雨に濡れたビニール傘を広げ、再び、珠恵の元へと来た道を戻り始めた。


 閉じられた戸を見つめながら、喜世子は小さな溜息を落とした。
「あんただって、自分がどんな優しい顔で珠ちゃんを見てるかわかってんの……ほんと、馬鹿な子だよ……」


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