買い出しを済ませた風太と翔平がスーパーの外へ出ると、雨はもう止んでいた。
「ほんっと、あの人ら底なしっすよ」
重い酒を抱えながら自分ではそれを飲めない翔平は、さっきからずっとブツブツと文句を言っている。
「聞いてないっしょ、風太さん」
愚痴に適当に相槌をうっていると、不満げにそう指摘され苦笑いした。最年少の翔平は、いつものように酔っ払いにいいようにからかわれ、遊ばれていたのだろう。
「楽しそうじゃねえか。学校もサボれたし」
「楽しかないですよ、こっち素面だしこき使われるばっかで」
うんざりしたような溜息が翔平の口から漏れる。
「そりゃ、まあ。学校はあれっすけど……だいたいジンさんなんて、酔うとすぐ踊るぞって俺に女役させようとするし、金井さんなんてキス魔だし、知ってるでしょ。酔っぱらったおっさん相手に男同士でチークとか、んともうマジ勘弁して欲しいっつうか」
笑いながら聞いていると、フロントガラスに、ポツポツとまた雨粒が弾け始めた。
「あ、また降って来た……鬱陶しいっすね」
笑みを収めて、助手席から窓の外をボンヤリと見遣る。本当に雨が多い、と溜息を吐きそうになり風太は静かにそれを飲み込んだ。
車は交差点に差し掛かると、右折レーンに入っていく。ウインカーの音と降り始めた雨の音だけが、車内に響いていた。対向車一台だけをやり過ごし、大通りへと右折する。
その時、視界の隅に何かを捉えた気がして、振り向いてからサイドミラーへ視線を移すと、車の進行方向とは逆へと遠ざかっていく人の姿が目に入る。微かな違和感を感じて、小さくなるその人の後ろ姿をミラー越しに見ていた。
傘を。
差していないのだと気付いた途端、なぜだか不意に、見覚えのある人の面影が頭に浮かんだ。
「――止めろ」
「え?」
「車止めろ」
「えっ? は? うわっ、何するんっすか」
ハンドルを握り道路脇へ車を無理矢理寄せる風太に、慌てふためいて翔平が急ブレーキを踏んだ。
「危ないな、何なんすかもう」
後部座席に置かれたビニール傘を二本手に取り、シートベルトを外すと助手席側のドアを開ける。
「えっ、ちょっと風太さん、どこ行く」
「先、戻ってろ」
訳もわからず狼狽える翔平にそれだけを言い残して。乱暴にドアを閉めた風太は、雨の中、先ほどの人影を追って走り出した。
みるみるうちに強くなり始めた雨に、傘を差す手が濡れる。今はもう視界の先には、人の姿は見当たらなかった。
彼女だという確信は全くない。ほんの小さな後ろ姿は、むしろ違う人だったような気もしていた。けれど、気になって仕方がない。
結構走って来たが、辺りには人影すら見当たらなかった。もう、そろそろ引き返そうかと思いながらも、やはり気になり次の交差点までは行ってみることにした。
足元が、雨をはじいて濡れている。傘を押すような大粒の雨が降り始め、車がバシャバシャと水を飛ばしながら走り抜けていく。
こんな雨の中、いったい俺は何をしてるんだ――とそう思い始めた頃、交差点名の書かれた標識が見える辺りまで走ってきていた足を、風太はそこで止めた。
シャッターが下りた店の軒先に佇み、ボンヤリと雨を見上げている人影。肩で息をしながら、風太はしばらくそこから動けずに、ただ目に映るその人の姿を――珠恵のことを、見つめていた。
空を見上げていた瞳が、視線に気が付いたのか、不意にこちらを向く。この距離でもハッキリとわかるほど目を見開いた珠恵は、強張った顔をすぐに逸らし、風太に背を向けて立ち去ろうとした。
はじかれたように身体が動き、逃げるように足を速める後ろ姿を追い掛けた。
「ちょっと待て」
聞こえているだろうに止まろうとしない珠恵に追いつき、肩に手を伸ばす。
「待てって」
「違うん、です」
「何が、てか、ちょっと待てって」
強く肘を掴み引き止めると、ようやく珠恵の足が止まった。
「ごめ……なさ、違うんです」
青ざめたまま視線を俯けた珠恵の身体は、酷く雨に濡れている。
「何が違う、何で、こんなとこにいる、何でこんな……傘、持ってねえのか」
「……か、傘、忘れて、それで……あの、少し雨が止むの、待ってただけです……だから」
途切れ途切れの声が、雨音の狭間から耳に届く。珠恵が少しも目を合わせようとしないその理由は、風太自身が一番よくわかっていた。
「そうじゃなくて、こんなとこで何して……何か、あったのか」
はっとしたように顔を上げたのは一瞬で、微かに首を横に振った珠恵は、やはりスッと目を逸らしてしまう。その顔が酷く青ざめて見えるのは、風太と顔を合せた気まずさのためなのか、雨に濡れているせいなのか、それとも別の理由なのかはわからなかった。ただ、漠然と珠恵の様子がおかしいのではないかと感じ始めていた。
「ちょっと……この辺りに、仕事の用事があって……それで。……すみません、もう、帰りますから」
「待てって、ほんとに何かあったんじゃ」
「ありません、何も」
それだけははっきりと答えてから、また顔を伏せてしまった珠恵の、濡れそぼった肩が微かに震えている。本音を言えば、すぐにでも目の前にある細い肩を引き寄せてしまいたかった。
あんな風に傷つけておいて何を考えているのだと、差し掛けた傘を握る手に力を入れる。
「なら……」
息を吐き、送って行くと言いかけたとき、珠恵が顔を上げた。泣きたいのを我慢するように浮かべた笑みが、あの日の表情と重なり、口にしかけた言葉を飲み込んでしまう。
肘を掴んでいた風太の手から、僅かに力が抜けた。
「すみ……ません」
「……いや」
風太が首を僅かに横に振ると、珠恵はゆっくりと頭を下げた。
「帰ります。だから……もう、行ってください」
顔を上げた珠恵の瞳が、そこに風太を映すことはなかった。強張った唇だけを必死で笑みの形にしたまま、風太の横をすり抜けるように立ち去ろうとする。それを、咄嗟に肘を掴んで引き止めていた。
「待てって」
こちらを見ようともしない珠恵の表情は、濡れた髪に隠れていて見えない。
「傘、これ貸すから」
持ってきたビニール傘を差し出すと、俯いたままの首が横に振られた。
「こんだけ降ってんのに、傘も差さずにどうやって帰る、今でさえそんな濡れてて」
「借りたら」
音もなく、滴が髪を伝い落ちていく。
「返さなきゃならないから」
「こんなの……別に返さなくていい」
目の前で再び首が横に振られるのを見ながら、自分の気持ちとは違う言葉を口にしていることに、風太は苛立たしさのようなものを覚え始めていた。
「なら、タクシーに乗って帰れ」
車を呼ぼうと、取り出した携帯に触れかけた指が、伸びてきた手に止められる。
「じ、自分で、呼びます。ごめん、なさい、こんなつもり」
「これ、何だ」
珠恵の言葉を遮り、細い手首を掴む。薄手のカーディガンの袖口から覗いた白い手首に、赤く擦れたような痕がついていた。慌ててそれを覆い隠そうとしたもう一方の手首にも、同じような擦傷が見て取れる。
「何でも」
「何でもって、ちょと見せろ」
「いやっ」
引き抜こうとした手首を強く掴むと、痛みを感じたのか青ざめた顔が歪む。身体は雨に濡れて冷たいのに、握った手首の辺りだけが僅かに熱い。それが、この痕がついて間もない物なのだと教えていた。
「何があった」
腕を掴む風太の手の力に必死で抗おうとしながら、珠恵は俯けてしまった顔を上げようとしない。
――ついでが、あったので
――ついでって、この辺にか
――嘘ってモロばれー
風太の部屋に見舞いに訪れた珠恵と、愛華との遣り取りが不意に脳裏に浮かぶ。
――この辺りに、仕事の用事があって
「今日……、月曜だよな」
言葉もなくただ首を横に振る珠恵を見つめながら、彼女の服装が、普段見ていたものとは違いどこか少し余所行きなことに気が付いた。
「ほんとに、仕事でこの辺に用があったのか」
俯いたままで動きを止めた珠恵に、畳み掛けるように問うた。
「これ、縛った痕じゃねえのか」
握った手首から、震えが大きくなるのが伝わってきた。
更に言葉を重ねようとしたその時、不意に角を曲がってきた車のヘッドライトが照らし出したのは、俯いた珠恵の襟ぐりから覗く鎖骨の辺りにつけられた、情事の名残を匂わせる赤い印で、そのことに風太は、自分でも思いがけない程、頭に血が上るのを感じた。
ついこの間まで、彼女が誰とも肌を合わせたことがなかったのは知っている。ならこれは、見合いの相手と、それとも、考えたくもないが誰かに無理矢理――
「誰に……こんな痕が残るほど縛られた、もしかして、見合いの相手か」
ビクッと震えた身体に、それが答えだとわかった。
「そうなんだな」
「ちがっ」
「じゃあ他の男か」
「ちがう、そんなんじゃ」
「見合いの相手に、無理矢理されたのか」
必死で否定しようと、違うと口にしながら風太を見上げた青ざめた顔を、問い詰めるように見つめた。
「違うってのか? じゃあ、あんた、こういうのが趣味なのか」
大きく見開かれた瞳に涙が溜まり、溢れて、頬を伝い落ちていく。傷付けているとわかっていても、それでも追及を緩めたりはしなかった。
「こんな風に、縛られて無理矢理犯されるようなやり方が好みなのか」
「ひどっ……」
強い力で風太の手を振り切った腕が、力なく胸を叩いた。その手を受け止めながら、身体には痛みを感じないその拳が、けれど胸の奥に響いてずっしりとした痛みを与える。
「違うだろ。そんな訳ねえよな」
「……っ」
「何が、あった。そいつに何、された」
「……なにも……されてません」
「じゃあ、これは何だ」
「か……鞄、が、擦れて」
どう考えても嘘だとわかる無理のある言い訳に、苦いものが込み上げる。
「嘘つけ。いくら俺が馬鹿でも、そんな嘘で誤魔化される訳ねえだろ」
手を離れた傘が道路際に転がる。自由になった両手で珠恵の細い肩を掴んだ。濡れた髪の先から落ちる雨以外の雫が、彼女の顎先から流れ落ちる。
「何された」
「……」
「何で、ここにいた」
肩を掴んだ両手に力を入れ、強く揺さぶった。
「言え。……何をされた」
無理やり引き起こされた珠恵の顔が、風太を見上げてクシャリと歪む。
「言え。……言ってくれ」
「……ほ、ほんと……に……わ、わたしが……」
呟くような微かな声を聞き洩らさないよう、色を失った唇を見つめた。
「だ……誰とも……ねた、ことが、ぃのか、調べるって」
「……んだ、それ」
「よ、汚れた女と、は、結婚、できっ、できない、からって……」
「汚れた、女?」
彼女のいったい何を、どこを見てそんなことが考えられるのかが全く理解できない。
「……強姦、されたのか」
ピクリと身体を震わせてから、風太を見上げた珠恵が、それを否定するように必死で首を横に振った。
「違いっ……ます」
「違うって、何が違う」
「……検品、だって、そう、言われました。自分の隣で……純白のドレスをき、着るのに、相応しい女か……だから、さ……最後までは」
最後まではされていないのだとの珠恵の言葉に、ほんの少しだけ覚えた安堵も、それ以外の言葉に掻き消される。
検品だと――。物のように、彼女を扱ったというのだろうか。心も温もりも持つ人である彼女を。その男の思考に全くついていくことができず、風太は茫然と細い肩を見つめていた。
「……い、嫌って、言ったら、疾しいことが……る、かって、し、信用、できなっ」
「それで縛ってか」
微かに頷いた珠恵の唇が震えた。
「んな、馬鹿なことあるか」
「……た、しが……反抗しなければ」
「もう、いい」
冷たくなった身体を、気がつけば引き寄せていた。細い指が風太のシャツを強く掴み、堪えながらも嗚咽を漏らす小さな肩が震えている。
「……め……なさっ」
「何で謝る」
「……森川、さん、には……な、何も……関係、ないのに」
関係ない――
珠恵とはもう関わらないと決めたはずなのに、自分が投げた言葉が己に返ってきて、身を削るような痛みをもたらす。その痛みが、珠恵が自分にとって関係ない人間ではないことを、否応なく風太に突き付けてくる。
ここに立ち尽くす彼女を見つけたときも、そして、彼女をこんな目に遭わせた男に、殺してやりたい程の怒りを覚えている今も。それはもう誤魔化しが効かない程確かに自分の中に存在する想いだった。
それでも、関係ある、と口にすることはできなかった。あの夜、風太をまるで虫けらを見るような目で見ていた珠恵の父親を思い出し、口の中に苦いものが込み上げる。
さっきより激しくなった雨が、二人を更に濡らしていく。アスファルトを叩く雨音に混じり、どこか遠くで雷鳴が響き始めていた。
けれど風太の耳には、時折聞こえる珠恵のしゃくり上げる声と、何度も重ねられるごめんなさいという言葉だけが、胸に突き刺さるように響いていた。
そっと歯を食いしばるように息を吐き出しながら。ただ、珠恵を抱き締める腕に力を込めた。