年も明け、季節はもう一月も半ばに差し掛かっていた。
今年の冬は比較的温暖だと言われているが、秋めいた好天の翌日に激しい雷雨が、そして急激な寒波とともに積もるほどの雪が降るなど、気候の変動が激しい。
今日は、いつもより気温は少し高く、朝からずっと雨が降り続いていた。
カウンターに戻って来た真那の機嫌が、心なしか良さそうに見える。
「目の保養が来てました」
「え?」
「ほら、森川さん」
「そう、なんだ」
本当は、彼が入って来たことを知っていたのに、なぜだろう、知らなかったふりをしてしまう。
「久し振りですよねぇ。私、今年になって見かけるの初めてですよ」
珠恵自身は、今年に入ってから既に一度顔を合わせていた。だが、それも言い出すことができず、話題を変えるように、話を続けたそうな真那の前に、彼女が次に行う読み聞かせの宣伝用ポスターの図案を広げた。
「真那ちゃん、あの、これチェックして貰えるかな」
表立った仕事をするのは苦手だが、こういった裏方的な仕事をするのは好きだった。
「はーい。ああ、やっぱかわいい……。ほんと福原さん上手ですよね。こういうの」
「え、あ、……ううん、私なんて全然」
「私、好きですよ」
「……あり、がとう」
社交辞令だろうけれど、褒められたことに照れて口籠りながら、ポスターを仕舞っていると、カウンターの前に立った男の子が手に持った紙をこちらに向けた。
「この本ありますか」
日曜日の今日は、いつもより子どもの利用者が多い。紙に書かれた本のタイトルは『古代史の謎』。子ども向けに書かれたこの本は、随分前に出版されたものだが、いまだに小学校の中学年から高学年辺りに人気が高い。
「持ってくるから、お名前教えてくれる」
恐らく小学三、四年生位だろうか。鉛筆をギュッと握り締めて書く文字は力強くて大きくて、そしてどこかゴツゴツとしている。そういえば、あの時チラッと目にした森川のノートの文字もこんな感じだったと思うと、少しだけ口元が緩んだ。
児童書のコーナーから書籍を手にカウンターへと戻ると、貸出しの手続きを行う。返却日を伝え、それを記入した紙を挟んでカウンターに本を置くと、受け取った図書を嬉しそうに鞄に入れた男の子は「ありがとうございました」と、駆け出して行った。
子どもの頃に読んだ本は、成長してからも深く記憶に刻まれているものだ。これからあの本をワクワクしながら読むのであろう彼の時間を想像すると、少しだけその興奮を分けて貰えたような気がして胸が温かくなる。
男の子を見送った後、もう一度児童書のコーナーへと引き返した。さっき本を取りに行った時、後ろの書架に、数冊の本が引き出された状態で無造作に置かれているのが目に入っていた。
中学から高校向けの学習用参考書や問題集、受験のための過去問題集などが並ぶその書架は、随分と書籍の並びが乱れてしまっている。それを整えてから、少し高い棚へと参考書を収めるために背を伸ばしてみた。棚が詰まっているため、その姿勢のまま本を差し込むのは難しそうだと、ステップを取りに行こうかと考えたとき、指の先に挟んでいた本がそこから滑り落ちた。
「あっ」
「おっと」
しまった――と思った瞬間、横から伸びて来た手がその本を掴んでいた。大きな、ゴツゴツとした日に焼けた手が本を握っている。
「すみません」
慌てて頭を下げてから、その手の持ち主へと目線を移す。
「あ、いや。これ、ここに入れるのか?」
――目の保養
そこにいたのは、森川風太だった。
「あ……あの、いえ、すみません。ステップを使えばよかったんですけど」
真那との会話が頭を過って、何となく目を合わせ辛い。手を伸ばして書籍を受け取ろうとすると、その手が上に延ばされ、棚に本を戻そうとする。
「あ、あの、私が」
「いや、届くからいいって。この辺か」
「あ……はい、すみません。あのここの数字が、その並びの辺りなので。あ、そこです」
背を伸ばすこともなく簡単に定位置に本を戻してしまった森川に、もう一度頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
「や、いいって、これくらい」
人の目を見て話すことも苦手だった。さすがに社会人になってからは、日常を共にする職場の人や、図書館を利用する人と話すことには随分慣れてきたが、それでもやはりこんな風に不意打ちで、男の人と間近で話すのには慣れない。慣れていない自分にまた余計に恥ずかしさが募ってしまい、顔をまともに上げることもできず、中途半端に上げた視線が森川の口元と目の辺りを彷徨った。
――あ……エクボ?
微かに笑みを浮かべたのだろう森川の頬が、片側だけ僅かに窪む。そのまま珠恵の後ろを通り抜けた彼は、本来の目的だったらしい参考書の棚から図書を取り出してはパラパラと捲り、また書架に戻すことを繰り返し始めた。
無意識のうちに視線を向けてしまっていたようで、指一本で本を引き出そうとした手を止め、こちらへと向けられた視線に、我に返る。
「あ、あの、何かお探しであれば、私」
しどろもどろになるのを、取り繕うこともできない。
「いや……」
否定の言葉に、余計なことを言ったのだと恥ずかしくなり、頭を下げてそこから離れようと背を向けた。
そのとき――
「あの、さ」
と、初めて会話を交わした時と同じように、森川の声が、珠恵を呼び止めた。振り返ると、顔を珠恵の方へと向けた森川は、やはりこの前と同じように、どこか少しだけばつが悪そうな表情をしている。
「数学の……問題集って、どんなの使ってた?」
「え?」
「や、だから中三くらいの時」
「あ、はい」
頷いて、森川の隣へ並ぶ。様々な種類の参考書や問題集が並ぶ棚の中から、珠恵は自分が学生の時に使っていて一番役に立った問題集を手に取った。
「確か、このシリーズ、使ってました」
「覚えてんのか、凄えな。これって難しい?」
「あ、いえ。この――」
セットになっている参考書を本棚から引き出す。
「参考書とセットになっていて。だから、予習にも復習にも、凄く使いやすかったはずです。……確か」
「ふう、ん、ありがと。じゃあ、それにすっかな」
伸ばされた手に二冊の書籍を手渡しながら、多分疑問が顔に出てしまっていたのだろう、クッと微かに笑う声が頭上から聞こえた。
珠恵に視線を送る森川の片側の頬に、やはり小さな窪みが出来ていて、いつもよりも人懐っこい顔に見える。
「俺が解くの」
「――え」
「馬鹿だから、こんな年になってから、やっと勉強してる。しかも中学の」
「はい……あっ、いえ」
何と言っていいのかわからず、思わず間抜けな返事を返してしまう。
「まともに中学も行ってなくてな。だから今、夜間行くための勉強してんだけど」
「はい」
「わかんねえこと多くて。まあ、まさか自分がこんなとこに通うなんて思いもしなかったけどな。図書館なんて、一生縁のない場所だと思ってたし」
「……あの」
「ん?」
参考書をパラパラと捲りながら、自嘲するように笑う横顔を見つめると、言いかけた言葉を切ってしまった珠恵の方へと、森川の視線が向けられる。
少し息を呑み込んで口を開きながら、顔に血が上る気がした。
「あの……勉強するのに、遅いなんてことは、ないと思います」
それが珠恵が口にできる精一杯だった。けれど、少しだけ目を丸くした森川は、その言葉に破顔した。
「知り合いの先生と、同じこと言うんだな」
「え?」
「口癖なんだ。もういい年したおっさんなんだけど。ほらあの、FCSの爺さんにそっくりで」
森川が口にしたファストフード店のキャラクターと重なり、ひとりの人の姿が珠恵の脳裏に浮かぶ。
「ヨーゼフ……」
「ああ、そのヨーゼフ爺さんみたいな先生で、だからそれがあだ名に」
「遠藤先生」
「え?」
「遠藤勝也先生、じゃないですか」
「名前は覚えてねえけど、確かに遠藤だ。知ってるのか?」
「あの……高校生の時、国語を習ってて」
「ヨーゼフに?」
「はい……ヨーゼフに」
思いがけず出てきた懐かしい人の名前に、自然と笑みが浮かぶ。
「やっぱり、今もそう呼ばれてるんだ」
「多分ますます近付いてるんじゃねえかな。あんたが知ってる時より」
クスクスと笑いながら。珠恵は、恰幅のいいお腹に手を当て、人の好さそうな笑みを浮かべ笑うたびに、メガネが頬の上で揺れる遠藤の顔を思い出していた。
「あの……すみません。実は、さっきの言葉は、遠藤先生の受け売りです」
「ああ、遅いなんてことっ、てやつか?」
「はい」
「学校に行けなかった爺さん婆さんや、俺らみたいに大人んなってから勉強を始めた奴らに、夜、ボランティアで勉強を見てくれる教室があるんだけどな。今、そこに通ってて」
「じゃあ、先生は、今そこに?」
「そう。にしても、昔から言ってんだな、それ」
「そう、ですね。あの……最後の授業の時、そんな話をされて」
珠恵が遠藤に教わっていたのは、ちょうど高校三年生の頃だった。最後の授業の日、確か先生もその年で定年を迎えるため、これが本当に最後の授業なのだとそう話していた記憶がある。
受験でカリカリしている生徒達は、その頃になると殆ど学校の授業などまともに聞いてはいなかった。授業中に自習する者、深夜に勉強をして学校では殆ど眠っている者、授業に現れさえしない者、そういう生徒達を前にして、それでも遠藤の語った言葉は、珠恵の中にしっかりと残っていた。
「あいつ、喜ぶな。きっと」
「え?」
「あんたが覚えてたって話したら」
「あ……でも、あの、多分先生は、私のことなんて覚えていないと、思います」
「いや、覚えてるんじゃねえかな。自分が教えた生徒のことは。あんた授業とかちゃんと聞いてそうだし、そういう生徒のことなら特に」
「いえ、あの、私……、全然目立たない生徒だったし」
小さく首を振って苦笑いする。黙ってしまった森川の視線がだんだんと痛くなってきて、視線を俯けてしまった。ほんのさっきまでここにあった楽しい空気が、引いていくのを感じて居た堪れなくなる。
「――あ、じゃあ。そろそろカウンターに戻ります」
「あ、ああ。これ、ありがとな」
少しだけ視線を上げると、片手の指先だけで挟んだ二冊の本を軽く掲げてから、森川が背を向けた。
会話の終わりをつまらないものにしてしまった自分に、溜息を吐きたくなる。それを呑み込んで、珠恵も森川に背を向けて、カウンターへと戻って行った。