時折見掛けるようになったその人とは、顔を合わせれば会釈する程度には顔見知りになった。やがてその人が図書館を利用する日に、ある法則を見つけたのは後輩の真那だった。
「ね、気付いてました? 森川さんって、だいたい雨の日にここ利用してるって」
その人の名前が森川風太であること、ここから二駅隣の町に住んでいることも、真那からの情報だった。
真那は、働き始めてまだ一年程の、珠恵の唯一の後輩だ。元気はいいが口が動くと手が止まってしまう。ちょうどカウンターのすぐ後ろでパソコンに向かっていた先輩司書である板野が、苦笑いしながら口を開いた。
「真那、手止まってる。それに、あんた彼氏持ちでしょ」
「すいませぇん。ま、確かに彼氏はいますけど、それはそれで森川さんは、んーと何て言うか――目の保養?」
疑問形の答えに呆れたように止めていた指を動かし始めた板野の注意をスルーして、真那は、手を中途半端な場所で止めたまま話を続けている。
「なんか私の彼氏って、もやしっていうか、頼りないいわゆる草系? なんですよね。けど森川さんって、男の人だって感じしません? ね、福原さん」
不意に話を振られて、カウンターに座っていた珠恵は狼狽えた。恋愛や男の人の話に慣れていないから、たったそれだけの質問でもう顔が赤くなりそうで、答える声も自然と小さくなる。
「え……あの、あまり、よくわからないけど」
「ええー、見たまんまですよ。ゴリゴリのマッチョじゃないけどがっちりしてるし、日焼けしてても日サロで焼いたようなチャラい感じじゃないし。何よりあのちょっと鋭い目つきがいいんですよねー。肉体労働系だろうなって思ってたら、やっぱり、大工さんらしいですよ」
いったいいつの間にそんなことまで調べたのだろう、と目を丸くしてしまう。真那はといえば「貸出の時に、本人に聞いたんです」と、特に悪びれた様子もない。
「でもまあ、やっぱり私には目の保養かな。ああいうタイプとずっと一緒にいるのは私は無理です多分。案外、あの手のタイプには福原さんみたいな大人しい人が合うかも」
「あの、ま、真那ちゃん、いいから手。作業進めて」
思いがけない所で自分の名前を出されて、今度こそ恥ずかしさに顔が熱くなる。動揺を悟られないようにと、取り繕ろうように仕事の話を振ってはみたけれど、珠恵がこういう話に不慣れなことは、もうきっと真那も気が付いているだろう。
「こーら真那。いい加減にしなさい。それに珠ちゃんを巻き込むなって。手、動かしなさい」
「はあい」
板野からもう一度注意が入ると、真那はちょこっと肩を上げてみせてから、止まっていた手を動かし始めた。
こう見えて、真那の本に対する造詣は非常に深い。そして、学生の頃演劇サークルに所属していた彼女が行う子どもたちへの本の読み聞かせは、一年目にしてそれを任せられる程に好評だった。
人前で話すのが苦手な珠恵は、大勢の子どもや大人達の前で堂々と読み聞かせを行う真那を、羨ましく、眩しく思う。
どちらかといえば黙々と一人で作業を行う仕事を得意としている珠恵は、退屈だと人が嫌がるような作業には何時間従事していても平気だった。
長いつけ睫毛を伏せ気味に入力作業を始めた真那から視線を外して、板野と顔を見合わせ、互いに少し苦笑いする。そうして、自分の業務に意識を戻し集中しようとした。
――大工さん、なんだ
ここにやってくると、何時間かを机に向かって過ごしているその人のことを脳裏に思い描いた。そういえば確かに、あの人が来る日は雨の日が多いかもしれない。気が付けば、手を止めてそんなことを考えてしまっていた。
ふと、さっきの真那の言葉を思い出して、一人で勝手に意識して顔が熱くなり、慌ててそれを打ち消す。
もしも彼が学生の頃同じクラスにいたとしたら。あの人は、その中にあってもきっと存在感のある側の人間だ。教室に居るかいないかもわからないような地味で大人しい珠恵は、きっと言葉を交わすこともなく、もしかしたら存在していることさえ覚えて貰えないかもしれない。
昔から引っ込み思案で、人と上手く話をすることができない性格だった。自分の思いを口にしようとすると緊張で言葉が詰まり、そのことが恥ずかしくてすぐに顔が赤くなる。
――あんたと話すとイラッとするんだよね
そんな風に言われて、ますます萎縮する自分がいた。いつの間にか、静かに息を潜めて本の世界に没頭するようになっていた。
――福原って、どんな奴だっけ
――ほら、あれ。図書委員とかやってる
――ああ、あのいっつも本読んでる
――そうそう、超マジメな、大人しい地味ーなやつ
――え、そんな子いたっけ
――お前それ、ひっでぇ
前を歩いていたクラスメイトの男の子達が話しているのを偶然耳にしたとき、後ろにいることに気付かれたくなくて、俯いたまま横道に逸れ、回り道をして家に帰った。そんなことをなぜか思い出して、少しだけ胸がツキンとする。
そっと息を吐き出すと、今度こそ意識を画面と手元の図書に戻し、返却された本を一気に入力し終えて立ち上がった。
「配架、行って来ます」
二人に声を掛けて、カウンターから席を外す。
一階のフロアの大きなガラス張りの窓から、冬の太陽が明るい日差しを注いでいる。視線を窓の外に向けて、その眩しさに少し目を細めた。
今日はきっと――
一日中晴天だ。