本編《雨月》

第一章 雨と図書館1



 明け方から激しく降り続いた雨は、正午を回った頃に、ようやく少し雨脚を弱めていた。
 今年は、冬が間近の最近まで頻繁に秋台風が発生するなど、天気が安定せず大気が不安定だという言葉を、しばしば天気予報で耳にする。
 カウンターで提示された貸出禁止図書の閲覧申請書を確認した珠恵は、該当図書が保管された地下室に向かうため、同じくカウンター業務に就いている年下の真那に席を外すことを告げた。
「こちらは書庫にありますので、しばらくお待ち下さい」
 申請した利用者にもそう声を掛けてから、離席する。
 都心から僅かに離れたこの町に、公園整備事業の一環として新設されたこの図書館で、珠恵が勤め始めてから、もうすぐ三年になる。
 月曜日は休館日で、火曜日から土曜日は夜八時まで。少し閉館時間が早い日曜日は午後六時までの開館時間に合わせて、遅番と早番のシフト制勤務が採られている。

 昨日が閉館日だったためか、雨にも関わらず今日は比較的利用者が多い。
 学生や、仕事をリタイアしたのだろう年配の人、時間を潰してるだけに見える若者から、資格試験などの自習をする人、幼児を連れた母親、スーツ姿の恐らくは仕事中であろう男性。様々な年代の人が出入りしながら、お互い殆ど個人的な交わりを持たず、自分の空間を保っている。
 けれどこの場所が冷たく感じないのは、きっと本と人とが作り出す空気のせいだ。誰にも言ったことはないが、珠恵は、本にはそれぞれに体温があるとそんな風に思っていた。
 膨大な数の本や雑誌、資料――図書館全体では数十万冊に及ぶそれらを並べた木製の書架の間を通り抜けるとき、まるで本の森の中にいるような気持ちになる。
 手に取った人の記憶が、触れた指を通してそれぞれの本に刻まれている気がして、たとえ古くて補修を繰り返しているような本であっても、愛しくて大切に思える。天候によって微かに変わる本独特の匂いも、珠恵は気に入っていた。
 書架の森を抜けて、地下に下りる階段へと足を向けたとき、毎日図書館を利用する年配の女性に気が付いて足を止めた。
「こんにちは、米村さん」
 挨拶をすると、人好きのする笑みを浮かべながら返事を返してくれる。
「こんにちは、福原さん。今日は雨で嫌だねえ」
 いつも、交わすのは天気の話と孫の話くらいだったが、姿を見掛けなれば心配になる常連さんだった。
「あ、はい。本当に。今週は雨が多いみたいですね」
 ため息交じりに「ああ鬱陶しい……」と呟きながら、いつもの雑誌のコーナーへと足を向けた米村とはそこで別れ、珠恵は再び階段へと向かった。

 図書館のフロアには、あちこちにスペースの区切られた学習机が点在している。少し死角になっているせいかいつも比較的空いているエリアの、珠恵が向かっていた階段の手前にある学習机の上に、本とノートが広げられたままになっていた。
 横を通り抜けながら何気なくそこに目を向けると、中学生用らしき英語の問題集が広げられ、その下のノートに筆圧の強い男っぽい文字が綴られている。
 ――中学生が来てただろうか。
 ぼんやりと考えながら地下に下りて保管庫に入ると、たくさんの古い本が醸し出す独特の匂いに包まれた。
 取り出したずっしりと重い中国史の文献を手に、再び上階へと戻ると、先ほど問題集を広げたまま空席になっていた机の前に人が座っている。
 中学生、ではなかった。珠恵よりは年上に見える若い大人の男性だった。塾の講師だろうか、何となくそんなことを思いながら座席の後ろを通りかかったとき――
「そうか、くそっ……」
 突然苦々しい口調で独りごちた男性の声に驚いて、つい、足を止めてしまった。

 鉛筆をこめかみに当て、椅子に反り返った体勢のまま視線がこちらを向いて。軽く目を開いたその人は、少し慌てたように姿勢を正すと、もう一度振り返り珠恵へと顔を向けた。
 健康的に日に焼けた肌、低温の声。そして何よりも、意志の強そうな瞳が印象的な男性だった。
「俺、今でかい声出したよな」
「あ、はい……いえっ、あ、あの」
 声をかけられ、つい狼狽えてしまう。この席の周囲には今は誰も居らず、誰かがいたとしても迷惑になる程大きな声だった訳ではない。ぼうっとしていた自分のリアクションが大き過ぎたのだと、珠恵は恥かしくなった。
「悪い、気をつけます」
「あ、いえ、あの、そんなに、大きな声じゃなかったです。すみません、こちらこそ、大袈裟に驚いたりして」
 声のトーンを抑え気味に僅かに頭を下げたその人に合わせて、珠恵も小声で取り繕うように答えて、小さく頭を下げる。
 そのまま背を向けてそこから離れようとしたとき、「あの、さ」と、後ろから呼び止めるような声がした。
 足を止めて振り返る。
 どこか少しだけばつが悪そうな顔をしたその人は、ノートと珠恵の顔とを見比べるように顔を動かすと、
「いや……やっぱいいや。すいません、仕事の邪魔して」
 躊躇いを打ち消すようにそう口にして、鉛筆を握った手を軽く上げると再び机に向かってしまった。
 気にはなったが、手にしたままの文献を見て、待たせている利用者のことを思い出す。

 何か質問があったのか、それとも探し物があるのか、聞き返した方がよかったのだろうか。
 僅かに引っ掛かりを覚えたまま、珠恵はカウンターへと足を早めた。


タイトルとURLをコピーしました