――雨
足を止めて、大きなガラス窓越しに、コンクリートを敷いた地面に点々と広がっていく水玉模様を見つめる。僅かの間にそれは、色を変え、ただの濡れたコンクリートの中に埋没してしまう。
溜息を零しそうになった息を吸い込んで空を見上げると、午前中の晴天が嘘のように、グレー掛かった空から、糸を引くように雨粒が落ちて来る。
――勉強って、楽しいもんだな
笑みを浮かべる時、片側の頬にだけエクボが出来るその人の面影を振り払うように、ガラス窓から視線を外した。
「すいません」
後ろから声を掛けられて我に返る。振り向くと、大学生くらいの男の子が、スマートフォンの画面をこちらに向けてくる。
「この本、どこに置いてますか?」
横に並んで画面を覗き込み、どうやら洋書らしい書籍を目で追う。
「洋書の……専門書、ですか?」
「医学系の。検索したらこの図書館にあるって書いてたんだけど、上手く見つからなくって」
「じゃあ、ちょっと調べてみますので、少しだけお待ち下さい」
ポケットから取り出したメモにタイトルらしきものを書き写し、カウンターへと向かう。検索をかけてみると、少し時間を要したが、データが上がってきた。その書籍の本棚の場所を印刷して、口頭での簡単な説明を加えて手渡す。
「どうも」
微かに頭を下げた男性が2階のフロアへと向かった後、隣の席で返却本のバーコード入力を行う手を止めた木内が、ねえ、と声を掛けて来た。
カウンターに利用者がいないのを見計らって、それでも、声を潜めている木内へと顔を向ける。
「福原さんさあ」
「はい」
「ここ辞めるってホント?」
その問いに、軽く目を見開く。どうしてそんな事を聞かれたのかすぐには意味がわからなかった。
「え……? それって、どういう意味ですか」
「あーっと、何かそういう噂っていうのか、話ちらっと小耳に挟んだんだけど。違うの?」
「噂?」
「うん」
訳知り顔で頷いた木内が、どこか気遣うような、それでいて好奇心を隠せない笑みを浮かべる。
「結婚して寿退社の予定だって」
「え?」
「お見合い。したんでしょ。何だか随分なエリートと」
「あ、……はい」
どうして、そんな事がもう噂になっているのか、と驚いた。
「随分、早いね。福原さんってまだ、にじゅう……?」
「23です。……あの、お見合いは、親の希望で」
「へえ。でも、やじゃなかったんだ。今時、ちょっと珍しくない?」
曖昧な笑みを浮かべる。
「まだ、二、三度会っただけで……あの、何も決まってる訳じゃ」
「そうなの? じゃあまあ、見合いの結果次第で辞めるかもってこと?」
「仕事の話とかは、まだ全然……正式なお返事もしていないので」
戸惑いながら木内を見つめる。木内の表情も、少し怪訝な物に変わった。腑に落ちないような顔をしながら、「ふうん」と呟くとまた手を動かし始めた。ピッというバーコードを読み取る音が、耳にリズムよく響く。
「ま、でも。今日もその人と会うんじゃないの?」
「え、どうして、ですか」
今日、会う事を何故知っているのだろうか。
「だって、服。いつもと違う」
「あ……」
指摘されたとおり、今日は自分の持つ服の中では、比較的見栄えの良い薄いブルーのワンピースを着ていた。普段とは確かに違っている服装に、どこか居心地の悪い気恥ずかしさを感じる。
「清楚な感じで似合ってる。いい感じじゃない。きっと、見合い相手も気に入るんじゃない」
「……すみません」
褒めて貰っているのかもしれないが、そういうのに慣れていなくて、つい謝ってしまう。
「いや、そこ謝るとこじゃないし」
笑いながら、作業を終えた木内がまたこちらを見上げた。
「でも、見合いだし三度会ったら、って言うもんね。今日が四度目?」
「……はい」
「なら、そろそろ決まりじゃないの? ま、私は辞めて欲しくないけど。上手く行けば、働く必要なくなるもんね」
半ば確定的に口にしている木内に、曖昧な笑みで応える。
「私、この仕事……好きです。だから続けたいって思ってます。それに、あの……お見合いだって、まだどうなるかわからないので」
「そう、なんだ。ん、でも……」
「――返却、お願いします」
眉根を寄せた表情でこちらを見上げ、口を開こうとした木内は、カウンター越しに声を掛けてきた利用者に対応するため、背を向けてしまった。何を口にしようとしていたのか気になってはいたが、勤務中に、個人的な話のためにそう時間を使う訳にはいかない。
「あの、配架に戻ります」
声を掛けてから、さっきまで書籍を戻す作業をしていた書架の辺りへと戻るために、カウンターを離れた。
今年の梅雨は、いつもよりも雨が降る日が多い。
天気予報では、明日の午前中までは雨。
当たらないと評判の朝のニュースの天気予報が今日は当たっているようで、当分は止みそうにも無い雨がもう、コンクリートの凹んだ場所に水たまりを作っている。
すぐに、その雨に心を囚われてしまいそうになる。
無意識に胸元を握りしめていた手を解いて、視線を窓の外から引き剥がすと、返却図書を積んだブックトラックの元へ足早に向かい、多くの蔵書が並ぶ書架の間へそれを運び込み配架作業に取り掛かった。
本を戻そうとした場所に、恐らく利用者が戻したのだろう、違う番号の書籍が収まっていた。それを抜き出し、定位置である最上段へと戻すために腕を伸ばしたところで、本が滑り落ちそうになり慌てて胸元で受け止める。
ホッと息を吐き出した途端に、ツキンと胸が小さく痛んだ。
――おっと
後ろから伸ばされた腕と、ゴツゴツとした大きな日に焼けた手。
夏でも長袖を着てるから、手首から先だけが真っ黒なんだと、苦笑いした顔――
雨の日は好き
あなたに、会える気がするから
雨の日が嫌い
あなたの事を
――思い出すから