番外編《雨月》

慈雨 2月14日⑵




 役目を終えた手製の飛行機を剥がし、それをゴミ箱に入れる。初めから使い捨てにするつもりだったけれど、捨てる時にはほんの少しだけ指先に痛みが走った気がした。
 ゴミ箱に蓋をして、二人分だから食洗機を使うほどでもない汚れた皿をスポンジで洗い流していく。洗った皿を布巾で拭い食器棚に戻していると、湯呑を手にした風太がキッチンに入って来た。
 伸ばそうとした手が、直前で掴まれる。顔を上げると、風太がじっと珠恵を見つめていた。
「誰もいねえんだったな」
「え?」
「今日」
「……はい」
 屈み込んできた風太の意図に気が付いた時にはもう、唇が重なっていた。咄嗟に捩ろうとした身体が、シンクに押し付けられる。
「ん……あ、の、待っ」
 待って、の言葉の前にもう一度塞がれた唇から、チョコの香りが残る舌が入り込んできた。いつも皆が出入りする昼の光が差し込む明るいキッチンで、こんな事をしていると思うと、余計に恥ずかしさが募る。
 シンクに水が落ちる音が、風太が唇を離す音に重なる。大きく息を吐きながら、珠恵はギュッと握り閉めていた風太のシャツの肩口に顔を埋めた。
「なあ、今日のアレ」
 うなじから辿るように入り込んできた指が、赤くなっている耳に触れる。唇を噛み締めても小さく息が零れそうになる。
「あ、アレって」
「お前が作った飯」
「……はい」
 何を言われるのだろうかと、胸の辺りに鈍い痛みが走る。けれど、問われたのは珠恵が思いもつかないような事だった。
「ついてねえのか」
「……つい、て?」
「オモチャとかそういうおまけみてえなの」
「……え?」
 少しずつ明確な意思を伝えるように耳朶に触れ始めた指のせいで、気が逸れてしまう。ボンヤリとした頭に、少し遅れてその言葉が意味を伴い入ってくる。
「あ、」
 慌てて顔を上げると、ほんのすぐ目の前にいる風太と視線が絡んだ。予想に反して、そこにはからかいも、狼狽える珠恵の様子を楽しむような色も浮かんでいない。続くはずの言葉が何も出てこなくて、けれど、視線を逸らすこともできなくなる。
 時折、本当に時々。風太はこんな目をする。飢えたような追い詰められたような、余裕のない仄暗い光を宿した双眸が、珠恵をじっと見つめている。
 怖いのに、それだけではない何かに、身体が粟立つ気がした。
 こんな時の風太は、いつもより性急で少しだけ優しくなくなることも、もう、何となくはわかっている。
 急に濃密になった空気に、息を吐くことさえ苦しくなる。
「お……もちゃは、あの、わ、わすれて」
 本当はチョコや手袋がおもちゃの変わりのつもりだった。けれど、焦って口を突いて出たのはそんな答えで、そしてきっと風太にとって、どんな答えでもあまり意味はなかったのだろう。
 屈んだ風太の髪が頬を撫で、耳に唇が触れ、そこに熱い息が掛かる。
「なら、お前でいい」
 珠恵を抱き締める腕に、強い力が込められる。否も応もなく唇を塞がれて、必死でしがみついた風太の身体ももう熱くなっていた。

 まだ明るい昼間の部屋の冷たい空気の中で。
 風太はやはり、いつもより性急にそしてどこか荒々しく、珠恵を求めた。
 母家を出て部屋に戻るまでの間、風太に手を引かれながら、珠恵はまともに顔を上げる事が出来なかった。
 無言のまま部屋の扉を開けて、強く握った手首を離さないまま奥の部屋へと入った風太は、ほとんど足で広げただけの布団に、何も言わずに珠恵を押し倒していた。
 服を脱がせる時間も惜しむかのように、下着ごと捲りあげられ曝け出された胸に、熱い唇が落とされ、ぬるりとした感触がそこを弄る。カーテンを引いてという声も、待ってという懇願も、キスと視線で封じられた。
 唇も胸の膨らみを辿る手も、肌に立てられる歯や爪を立てた指先も、優しくはない鈍い痛みを珠恵に与えてくる。食べようとするかのように激しく舌を絡め、吸い上げるようなキスを繰り返しながら、けれど時折、まるでそれを詫びるかのように、指や舌が慰撫するように肌を撫でていく。
 眩暈にも似た熱に浮かされながら、いつもよりも確かに自分の身体が潤んでいるのがわかる。そのことが、堪らなく恥ずかしい。下着をずらし入ってきた風太の指は、すぐにでもそこに、珠恵の身体が風太を受け入れている証を見つける事ができるはずだ。
「ここ……どうなってっか、わかるか」
 身体の中に指を忍び込ませ、わざとのように音をたてながら、顔を上げた風太が薄い笑みを浮かべる。そうする意味などないのに、目を逸らして、イヤだと言うように首を横に振った。

 風太がシャツをまとめて脱ぎ捨てた拍子に、何かが転がるような小さな音がした。顔を横に向けると、ポケットに入れてたのだろう小箱が落ちている。手を伸ばし取り出したチョコレートを口に含んだ風太は、それを噛み砕き、屈み込んで珠恵の顎を持ち上げ、そのまま唇を塞いだ。
  吐き出す息に混じるチョコレートの匂いと、絡み合う舌に残る甘さと苦味に、頭の中まで溶けそうになる。ほとんど風味付けだけのアルコールの香りのせいで、口の中に熱が灯されたみたいだ。
「これ……さっき食ったのより、美味いな」
 熱に滲んだボンヤリとした目で、そう口にした風太を見上げると、すぐにその目から笑みが掻き消えた。風太が視線を逸らす寸前、珠恵は、考えることもなく手を伸ばしてその頬に触れていた。思いのほか、そこは冷たくなっている。
「……ふうた、さん」
 珠恵の手に、風太の手が重ねられる。何も言わずに突き刺すような目で珠恵を見つめている風太の唇へと、指を動かした。さっきまで重ね合っていたそこは、まだ熱が残っているような気がした。
 肩にしがみつくように身体を寄せて、次のキスは珠恵から求めた。どこか苦し気にさえ聞こえる風太の吐息に、珠恵の名前が混じる。
 その声に、胸に痛みを覚えるのはどうしてなのだろう。
 風太の中には、きっと、吐き出すことの出来ない怒りのようなものがたくさんあるのだろう。だから、今日の風太が、こんな風に珠恵を求めている理由もほんの少しだけわかる気がした。
 きっと、そうさせたのが自分なのだということも。

 唇を重ねたまま風太が中に入り込んでくると、その熱に、すぐに何も考えられなくなっていく。
 腕を取られ身体ごと引き上げられて、互いの距離がもっと近くなる。愛撫よりも荒い手が胸を掴み、骨が軋むような力が、離れていくなというように珠恵を引き寄せる。
 何度も揺さぶられて、もっと深くというように奥まで突き上げられる。意味をなさない声を零し、涙で潤んだ珠恵の視界の中に、舞う花びらが、昼の光にいつもよりも鮮やかな色に映る。
 同じ熱を分け合いながら、力の入らない腕でその背に必死でしがみ付いて――。
 風太が果てる時まで、自分の中にある伝えたいのに言葉にならない気持ちの変わりに、何度も繰り返し、ただその名前を呼んでいた。

 目を覚ますと、さっきまでよりも少し日が陰っていた。
 熱がこもっていたはずの部屋の中には、シンとした冷気が戻っている。けれど、いつの間にか掛けられていた布団と、後ろから珠恵を抱え込むように抱いている風太の肌のせいか、寒さはそれ程感じなかった。
 少し首を動かして確かめた時計は、午後3時を少し過ぎた時間を指している。後ろからは、規則正しい寝息が聞こえていた。
 曇った窓ガラス越しに空を見上げると、何かが窓の外をふわふわと動いているのがわかる。
「――雪」
 つい声に出してしまい、慌てて口を噤んだ。後ろで風太が身じろぐのを感じる。
「ん……何時だ」
 ゆっくりと顔を振り向けると、寝起きの顔をした風太が、片目だけを眩しそうに開けている。
「あ……3時を、少し過ぎたところです」
「そう、か」
 言いながら、回された力強い腕が、珠恵の身体の向きを変えるように動く。そっと窓に背を向けて風太に向かい合うと、身体の間に出来た隙間に少し肌寒さを覚えて、無意識のうちに身体を擦り寄せていた。
「風太さん。雪が、降ってます」
「……ああ、寒いはずだな」
 顔を合わせるのは恥ずかしくて、喉のあたりを見ながら話す。もっと近くに寄れというように、腕を取られ風太の背に手を回すように促される。
「なあ……」
 続かない言葉に顔を上げると、どこか気まずそうな視線が逸らされて、髪に顔を埋めるようにした風太の指が、珠恵の肌に残した痕を辿った。
「痛かった、か」
 頭上から躊躇うように聞こえた声に、なぜか少し泣きそうになって、首を横に振り風太の肩口に顔を寄せた。
「……いえ」
 静かに、息を吐き出す音が聞こえる。風太は今、どんな顔をしているのだろうか。
 髪を撫でる手の優しさや重なる肌の温もりが心地よい。風太にも、こんな風に、自分の体温が伝わっているだろうか。
 人の身体が温かくてそのぬくもりに泣きたくなる、そんな気持ちを教えてくれたのは風太だった。風太も、珠恵の身体にそんな事を感じることがあるのだろうか。
 そうであれば――いいのに。
 そんな事を考えながら、自分の心臓の音を落ち着かせるように閉じていた目をそっと開ける。
「眠いな……あと30分くらい、寝れんな」
 眠たげな声でそう言いながら、伸ばした手でスマートフォンを操作した風太は、それを床に放るように落として珠恵の身体にもう一度腕を回した。強い力の込められたその腕から、少しずつ硬さが抜けて重みを感じる。こんな体勢では眠りにくいだろうと思うのに、頭上からはすぐに寝息が聞こえてくる。
 珠恵は、目の前に浮かんだ桜の花びらに、風太を起こさないようにそっとキスを落とした。
 出されたお子様ランチに、風太がどんなことを感じていたのか、きっと、本当の意味で珠恵が知ることは出来ないのだろう。あれを作ったことがよかったのか、そうでなかったのかも、今は、わからない。
 どんなに知りたくても、そこはきっと珠恵が届くことのない、風太だけの場所だ。
 冷たいそこに少しでも温もりが届けばいいと願うように、風太に身体を寄せて目を閉じた。


 目が覚めて、暖房の入った部屋と誰も居ない隣に、慌てて服を来て部屋を出る。時間を確かめるように顔を動かして、テレビの横にある本棚の上で、珠恵の視線が止まった。
 近付いて、その前で立ち止まる。
 もうすぐ4時30分になろうとしている時計の横に置かれた、鉢植えの小さな観葉植物。そこに、今朝まではなかった筈のものが立っている。
 滲んだ視界から零れ落ちたものを、手のひらで拭う。
 ――結局
 いつも、いつだって。珠恵が風太にあげられるものよりも、風太に貰うものの方が多いのだ。
 真っ白な四角い紙に赤いハートが描かれた小さな旗に触れる。

 それは、風太に作った昼食のチキンライスに躊躇いながら珠恵が立てた、手作りの小さな旗だった。

(fin)

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