番外編《雨月》

慈雨 2月14日⑴



 土曜の昼下がり。
 親方と喜世子は朝から親戚の家に出掛け、学校がある愛華が夜まで帰らないのはいつものことで、仕事帰りの翔平も友達と遊びに行き帰りが遅くなる予定のその日。
 休日で家にいた珠恵は、仕事から戻った風太と二人きりで過ごす予定だった。
 いつも人の気配がある母家だけに、さっきまでの1人きりの時間は、キッチンにいても、換気扇やフライパンがたてる音、自分の呼吸までもがいつもより大きく聞こえる気がして、不思議な気持ちがしていた。

 帰宅した風太がシャワーを浴びている間に、母家のキッチンで最後の料理を急いで仕上げながら、2人きり――と改めて意識した途端、ふと頭に浮かんだことに胸が小さく弾む。
 そういえば風太と部屋で二人きりになることはあっても、この居間で二人きりになることはこれまでほとんどなかった。
 そんなことを考えて菜箸を持つ手が止まってしまっていた事に気が付いた珠恵は、慌てて味見をしてから、火を止めたフライパンから最後のおかずを皿に盛りつけた。
 そうして、エプロンのポケットから取り出したものを、指の先で摘まむ。
 手にしたそれを改めて目にすると、やはり止めておこうか、でも……と、躊躇いが浮かんだ。けれど、そんな迷いを見透かすように廊下を近づいてくる足音が耳に届いて、珠恵は咄嗟にそれを目的の場所に差し込んでしまっていた。

 シャワーを浴びたばかりの風太が、居間に入ってくる気配がする。
 出来上がったものを目にすると、やはり皿を替えた方がいいのでは、と気持ちがまた揺らいだが、タオルで顔を拭いながら風太がそのままキッチンに入ってきそうな様子に、珠恵は慌てて入口を塞ぐように居間に顔を出した。
 足を止めた風太の眉が、片方だけ小さく上がる。
「あっ、お水かお茶ですか?」
 きっと飲み物を取りに来たのだろうと、そう声を掛ける。
「ああ、そうか……ビールはまずいのか」
 声に少しだけ不満が滲む。今日風太は、夕方車で迎えにきて欲しいとの喜世子からの頼まれごとを引き受けていた。
「ノンアルコールにしますか?」
「や。あれなら水でいい」
「すぐ持っていきますね」
「いや、それくらい自分で」
「いえっ、風太さんは仕事してたんだから、座っててください」
 必要以上に大きな声が出て、風太の目が丸くなる。動揺をどうにか押し隠そうとしている珠恵をしばらく見つめた風太は、「じゃあ、まあ、頼む」と曖昧に呟きながら居間に腰を落ち着けた。
 きっと誤魔化されてくれたのだろうと、自分の不器用さを恨めしく思いながら、珠恵はグラスに注いだミネラルウォーターを、リモコンを手に握った風太の前に置いた。
「お昼、もうできてるのですぐ持ってきますね」
「ああ」
――腹減ったあ
 いつもなら、そう言いながら帰ってくる翔平が今日はいない。けれど、朝早くから働いていた風太も、きっと相当お腹を空かせているはずだ。
 キッチンに戻り、昼食を盛ったプレートをもう一度見つめる。躊躇する前に出してしまえばいい――と、それをお盆に乗せて、珠恵は緊張をほぐすようにひとつ息を吐いた。

「……」
 目の前に置かれた料理を、風太が黙って見ている。
「あ、あの」
 無言のまま珠恵に向けられた視線に、胃の辺りがギュッと絞られた気がした。
 大皿に、厚紙を使って作った飛行機の型の飾りを貼り付けたプレートランチ。それが、お子様ランチを模していることは、きっと風太にもわかっただろう。
「これ、あの……」
 口籠もる珠恵から目を逸らして、風太の視線は、チキンライスの上に刺さった小さな旗に向けられた。
「今日は、2月の14日で」
「ああ……で?」
 その日付が意味することに気が付いているのかいないのか、風太の反応からは読み取れない。口を開きながら、珠恵は、やっぱりわかりやすくチョコレートだけにしておけば良かったと後悔していた。
「あの、だから……バ、バレンタインデーで」
「……ああ」
 今、初めてその事に思い至ったような声色の返事が返ってきた。けれど、それと目の前に出されたものが繋がらずに、戸惑っているようにもみえる。
「風太さん、チョコレートあんまり食べないし、それで、何か他のものって思って、あ、でもあの、チョコとかもあるんですけど、でも少しだけで。あの、だからあんまり関係はないんですけど、でも、あの、前に風太さん」
 お盆を握った指に力を入れて、顔を上げる。
「食べた事ないって、そう言ってたから」
 再び珠恵へと向けられた顔を見つめ返しながら、風太の気持ちを汲み取るような余裕はもうなくなっていた。
「んなこと言ったか」
「……はい」
「いつ」
「あの、夏頃に」
「そんな下らねえ話、よく覚えてんな」
「くだらなくなんか……」
 風太が話してくれた過去に、くだらない話なんてひとつもない。そんな風に伝えたいけれど言葉にできなくて、ただ小さく首を横にふるだけだ。
「あ……でもやっぱりこれ、食べにくいですよね。普通のお皿に移して」
 こんな子どもじみた事――と、呆れているのかもしれない。それにもしかしたら、風太にとっては見たくもないものだったのかもしれない。そんな風に思えてきて、自分の浅はかさに居た堪れなくなる。けれど、プレートに伸ばそうとした珠恵の手は途中で阻まれた。
「お前さっきから、でもばっか言ってんな」
「え?」
 瞬きを繰り返し風太を見つめると、手首を握った手が、離れていった。
「ん? なんか……今のって、前にも同じこと言ったか?」
 言われた珠恵も、同じことを思っていた。いや、それがいつのどんな会話だったのかも、ちゃんと覚えていた。風太はきっと忘れているだろうけれど、ほんの少しでも風太の記憶に残っていることがわかって嬉しくなる。
「食わねえって言ったか」
「いえ、あのでも」
「で、お前が食べさせてくれんのか?」
「え?」
「それ」
 それ、と言われて風太の顎先が示した場所へと視線を移すと、フォークとスプーンを握りしめたままだった。
「あっ、ごめんなさい」
 慌ててそれを手渡すと、面白がるような顔でこちらを見ている風太の表情が、さっきよりも少しだけ、柔らかくなった気がした。

 いただきます、と、風太はまずは星形に切り抜いたニンジンを、そうしてキャラクターの顔形のフライドポテトをフォークに突き刺して口に入れた。
「これ、お前が作ったのか?」
 フォークの先が向けられたのは、飛行機を模した飾りだ。図書館の催しや飾り付けで工作をすることは慣れてはいたが、やはり、向けられた視線に感じる緊張の度合いが仕事の時のそれとは全く異なっている。
「……はい」
「へえ」
「あの、でも、いっぱい粗があるので、あんまり見ないで下さい」
「ちゃんと鳥に見えんぞ」
「……あの、それ……飛行機の、つもりで」
 恥ずかしさに顔に血がのぼる。風太をチラッと見遣ると、笑みを浮かべた瞳と目が合って、からかわれたのだと気が付いた。赤い顔をして「もう」と小さく口にした珠恵に風太の口角がニヤッと上がる。
 俯き加減になった視線の先で、風太が手にしたフォークで、チキンライス、ミートボール、ナポリタンと、次々と勢いよく口元に運ぶ様子が目に入った。
「お前は食わねのか」
「あ、食べます」
 頷いて立ち上がった拍子に、風太の言葉が耳に届いて、立ち止まった。
「前から思ってたけど、お前って結構手先、器用だな」
 その手で物を作る仕事をしている風太からの、揶揄うような口調ではない褒め言葉に、さっきとは違う意味で顔が赤くなる。
 数える程だが、図書館のポスターや飾りを、持ち帰り家で作ったことがあった。上手い下手はともかく、そういった作業は以前から好きだった。だから、褒められたことに素直に嬉しさが込み上げる。
 誤魔化すようにもごもごと言葉にならない返事を返してから、キッチンへと引き返して。冷たい両手で熱くなっている頬に触れ熱を冷ましながら、用意したお子様ランチに、風太が手をつけてくれたことに、少しだけホッとしていた。

 自分用の昼食を手に珠恵が居間に戻ると、風太の目の前の皿に盛っていた料理は、もうほとんどがその口の中に消えていた。普通の皿に盛り付けただけの同じご飯を食べ始めた珠恵の前で、最後に残っていたチキンライスとミニバーグを口に運んだ風太が、握ったままのフォークを皿の隅に当てるコツっとした音が耳に届く。
「あれだな。確かに、ガキが好きそうなもんばっかだな」
 どこか淡々としたその口調に、珠恵は口の中にあったものを飲み込んだ。視線の先で、伏せ気味になっていた風太の顔があがり、その口元にふと苦笑が浮かぶ。
「そんな顔、すんな」
 胸に湧いた痛みが、きっとそのまま顔に出てしまっていたのだろう。そんな事も誤魔化せない自分が、嫌になる。
 風太の話を聞いた時、ただ風太に食べさせてあげたかったとそう思った。出来ないことだとわかっていても、幼かった頃の風太の時間をほんの少しでもあたたかなものに塗り替えたいという、願いにも似た思いを抱いた。
 でも。それは自分を満足させるだけの、ただの思い上がりに過ぎないのだろうか。
「私……」
「うまかった。ごっそさん」
 そう言った風太は、フォークを皿に置くと、珠恵が何かを口にする前にその頭にポンと手を置いて、飛行機型の皿とグラスを手に取り、台所へと食べ終えたそれを運んでいった。

「珠恵」
 ボンヤリと手を止めていると、風太に名前を呼ばれて、顔を上げる。
「食わねえのか」
 半分ほどで手が止まっている珠恵の皿を、風太が見ている。
「え、……あ、いえ」
 フォークを動かし始めた珠恵の向かい側に腰を下ろして、お茶を口に含んでいた風太の足が、何かの拍子にテーブルの下に置かれたものに触れるカサッという音がした。
 あ、っと思った時には、風太の手に青いリボンが巻かれた白い袋が握られていた。
「あっ、……あの、それ」
 後で渡すつもりでいたそれを先に見つけられて、焦りながら風太を見つめる。何だ、と言いたげな目が珠恵に向けられていた。
「風太さんへのチョコレートと、それから……」
 袋の中には、香り付けに洋酒を少しだけ混ぜ込んだひと口大のチョコが三つだけ入った箱と、そして、少ないチョコの代わりにと編んだ手袋が入っていた。チョコレートは、古澤家の皆にも同じ物を配るつもりで用意してある。
 編み物は昔から時々していたから、手編みは重いだろうかと思いながらも、手袋ならマフラーより気軽に使ってもらえるような気がして編んだものだ。
「開けていいのか?」
「はい」
 袋を開けてまずは手袋を取り出した風太が、グレー地に手首の辺りにだけ小さなネイビーのアーガイル柄が入ったそれをじっと見ている。
「これも作ったのか」
「はい、あの、入りますか?」
 作業用手袋のサイズを参考にした手袋に手を入れる風太を見ながら、さっきからもうご飯の味はほとんどしていなかった。
 入れた指や手を曲げたり伸ばしたりした風太が、ちょうどいい、と言ってくれたことに安堵した。使わせてもらうと言いながら手袋を外した風太が、それを無造作にポケットに入れる。そうして、チョコが入った小さな箱を振った。
「こっちは食っていいのか」
「はい」
「これも作ったのか」
「あ……はい」
 感心なのか呆れているのかわからないような表情を浮かべた風太が、箱を開けて指で摘んだそれを口の中に入れるのを、思わずじっと見つめてしまう。
 好きな人にチョコレートを作って送ることも、手作りのプレゼントを渡すことも。珠恵にとっては全部が初めてのことだった。食べてもらうためのチョコやご飯を作る時間、それを使う風太を想像しながら手袋を編んでいる時間は、珠恵にとってもとてもドキドキする楽いものだった。
 だから、例えお世辞でも「うまい」と言って貰えたことに、くすぐったさを覚えてしまう。

 けれど、さっきからひとつだけ。
 もう目の前から下げられてしまったお皿のことが、消化不良を起こしたみたいに、胸のどこかに引っかかっていた。


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