「あれ? 風ちゃん」
お守りを買って戻る途中で、名前を呼ばれ立ち止まる。
すれ違いざま親し気に風太の名を呼んだ声の持ち主に顔を向けながら、胸の内で真っ先に考えたのは、「珠恵がここにいなくてよかった」と、そんなことだった。
風ちゃん――と、風太のことをそんな風に呼ぶ者は限られていて、その大抵は夜の時間の顔馴染みだ。
「やだ、なんかすっごい久しぶり」
「ほんとそうだよー。最近ちっとも遊びに来てくれないんだもん」
どんな風に話せば女らしく見えるか、どんな風に笑いかければ男が振り向くか、そんなことを熟知している彼女らの振る舞いに、今はどうしてもそれとは真逆の別の女の姿を重ねてしまう。生き抜くための術を知っている彼女らのしたたかさは嫌いではない。風太にとってはある意味、それは身内のような感覚でもあった。彼女らはそれぞれに自分の武器を最大限有効に使って生きている。
ただ風太は、今はもうそうではないただひとりの女に、どうしようもなく嵌ってしまっただけのことだ。
珠恵のことが脳裏を過ぎると、今更消しようのない過去の行動にさえ、どこかバツの悪さを覚える。おかしなものだ――と、そう胸の中で苦笑を零す。
微妙に色を滲ませた二人の言葉を適当に躱しながら、今ここでこうしてるところも、あまり珠恵には見られたくはないとそんなことを考えていた。
「しょうがないよねー。風ちゃん今、ラブラブみたいだし?」
「だからこっちは放ったらかし?」
「……なんだそれ」
「ミカちんとかターニャさんがそんなこと言ってたよ」
「あの辺のいうことは適当に聞いとけ」
「でもいるんでしょ?」
「まあ……そうだな」
「じゃあ遊びたくなったら、また店に顔見せてよ。風ちゃん来ないと寂しいし」
「客みんなにそれ言ってんだろ」
やだなあ、と言いながら女の手が腕を叩く。指先に綺麗なネイルを施した細い指は、そのまま腕にとどまっていた。
「他の人には営業だけど、風ちゃんに言ってるのは本音だから」
微かに本音を滲ませたように思わせる手管のような言葉を、もとより本気に受け取ることはない。適当に聞き流しながらふと顔を上げ視線を巡らせて――。
その光景が目に入った途端、風太は取られた腕を外していた。
「悪い、ちょっと」
「え、風ちゃん?」
考えることもなく口を突いたお座なりな言葉に、二人が顔を見合わせるのがわかる。けれど、そんなことはもうどうでもよくなっていた。
――なんだあいつ
一人で待っているはずの珠恵に、話しかけている男がいた。こちらからは横顔が見えているが、少なくとも風太の見知った顔ではない。笑いながら話す男に、珠恵も何か受け答えをしているのがわかる。
人混みを選り分けるように近付いていく途中、立ち止まり話している学生っぽい男女四人の会話が耳に入った。
「――でも、知り合いだっていってなかった?」
「あれって古典的な手じゃないの?」
「あいつの癖の悪さは、ほんと半分ビョーキだしな」
「けど今までのとタイプ違いすぎない?」
「だから余計ムキになってんのかもよ。話長えし」
「で、落ちたらポイ?」
「ねえ誰か止めたら」
「やだよめんどくせえ」
そんな遣り取りの断片を、なぜか風太の耳は拾い上げていた。
いったい何を話していた末になのか、珠恵が携帯を鞄から取り出すのが見える。その頬が赤く色づいていることも。今度こそ、胸の内で思いっ切り舌を打つ。
「――珠恵」
男の視線を遮るように、風太はその名を呼び珠恵が手にした携帯に手を伸ばした。
急に割り込んできた風太に対しても、愛想よく振る舞ってみせる口調の軽いその男が、本当に珠恵の知り合いだったと聞いたところで、面白くないことに変わりはない。
さっき見かけたグループがこちらへと視線を送っているのが視界の隅に入り、雑踏の中で耳にした遣り取りがどうやらこの男のことを言っていたらしいということがわかると、余計に気分の悪さが増した。
珠恵はといえば、たまたま同級生に声を掛けられただけだと本当にそう思っているようで、別れた後も田臥とかいうその男の話を風太に聞かせようとしてくる。その事で、より自分の機嫌が悪くなっていることを、風太は自覚していた。
――福原さ、彼氏待ってるって言わないから
珍しいものを見るような不躾な目を風太に向けたあの男が、本当はどんなつもりで珠恵に声をかけたのかはわからない。珠恵の言うとおり、ただ知り合いを見かけたというだけで、それ以外の意味はなかったのかもしれない。
ただ、「福原」と珠恵のことを親しげに呼ぶ男に風太が覚えたのは、不快感だった。そして多分あの男は、それに気が付いていた。気が付いていながら、わざとのように殊更何度もその名を呼んでみせたように、風太には思えていた。
――なんで言わなかった
口を開けば、そんな風に珠恵を責めるような事を言ってしまいそうだった。名刺なんか捨てろと。同窓会など行かなくていいと。
そんな事を言って、例えその通りにさせたところで、後味の悪さが残るだろう。
珠恵の事に関しては、本音を言えばいくらでも度量の狭い男になり下がることを、自分でもよくわかっている。そして多分、風太がそう言えば珠恵はそれに従うだろうことも。
だから辛うじて、それを口には出さないようにしているだけのことだ。
同級生だと言われたところで、風太にとっては、自分の知らない珠恵のことを知っている気に食わない男だという情報が増えただけのことだ。あの手の男は、自分が女にどう見られているかをよく知っている。たいていの女が、自分の事を少なからず気にいるだろうとわかっている者の持つ自信が、透けて見えていた。
風太の不機嫌さが伝わっているのか、口数が少なくなった珠恵の気配を感じながら、何度目かのため息を深く吐いた。
――あんまりぎゅうぎゅうに縛り付けてたら、おたまちゃん、そのうち窒息しちゃうわよ
苦笑交じりで聞き流していたはずの武四郎の言葉が、今そこで言われているように聞こえてくる。
やっぱ初詣なんて慣れねこと、するもんじゃねえな――と思うそれが、信じてもいない神だとか仏だとかに対する八つ当たりだともわかっていた。
風太の脳裏に、目を閉じて熱心に何かを祈る珠恵の横顔が浮かぶ。初詣に行きながら、風太自身は手を合わせるでもなく、ただぼんやりとそんな珠恵が目を開けるのを待っていた。
まっすぐに背を伸ばし真剣に目を閉じて。そんなに一生懸命、いったい誰に何を願っているのだろうかと、そんなことを考えながら。
風太には聞こえないその声を聞く者が本当にいるのなら、そんな存在さえ、きっと自分は気に入らないと思うのだろう。
もう一度吐きそうになった溜息は、辛うじて飲みこんだ。
* * *
部屋の扉を開けてから、ようやく珠恵が口を開いた。空元気を出そうとしていることは、何となく伝わってくる。その原因が自分の不機嫌さだとわかっていながら、風太はまだそれを覆い隠すことができずにいた。
着ていたダウンジャケットのポケットに何気なく手を入れると、指先がカサッと小さな音を立てるものに触れる。さっき神社で、これを買いに戻っていたことをその時になって思い出した。
「ああ、そういや――これ」
振り向いた珠恵にようやく声を掛けて、それを手渡す。近所の神社で買っただけのお守りに、珠恵は驚き、そうしてとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
風太自身は、珠恵に貰ったお守りも、それが珠恵に貰ったものだから身に着けているだけのことだった。今、珠恵に手渡したお守りも、そこに神の御利益があるなどと信じている訳ではない。
けれど珠恵は、そんな風太の気持ちなど知らずに、スーパーで買った安物の傘やその辺で買っただけのお守りを、とても大事なものであるかのように手に取る。
ただそれだけのことで風太の身に縋りついてくる珠恵は、媚も計算も見えないのに、そうして風太の中にあるスイッチをいとも簡単に押してみせるのだ。
風太の腕を抱き締める温もりを、引き寄せて胸に抱く。他の男の影が入り込む隙間など、どこにも与えたりしない。お前は俺のものだと、そう教え込むように。
風太が誰かに祈り願うことがあるとすれば、それは、叶えてくれるかどうかもわからない、見えもしない神に対してではない。今、自分の腕の中にいる、珠恵自身にだった。
願うことは、ただひとつだけだ。
ここに居ろ、と。
他のどこでもない。ずっと、この腕の中にいろ――と。
(fin)