番外編《雨月》

雨花(うくわ)4


 なかなか戻って来ない風太が気に掛かり、珠恵は、愛華や竜彦たちと話している真那に断わりを入れ、席を立った。
 何人かの職人連中とも顔見知りになっている真那は、ほろ酔い加減でもうすっかりこの場に馴染んでいる。昌也は、年下の翔平と愛華と話をしているようで――愛華に至っては相手をしているというより、遊ばれて振り回されているようには見えるが――退屈はしていない様子だ。
 立ち上がった珠恵が何気なく視線を振り向けると、振り返った喜世子が、微かに笑みを浮かべて小さく頷くのがわかった。

「あらあ、おタマちゃんいらっしゃぁい」
 ターニャの店のシートに向かうと、見知った顔の店員が声を掛けてくれる。さすがにもう随分慣れてはきたが、まだほんの少しだけドキドキとする。
 見渡すまでもなく、風太もターニャも、そして弘栄の姿もここにはない事がすぐにわかった。
「風ちゃんとママ、あっちにいるわよ。ふ、た、り、き、り、で」
 こちらから尋ねる前に居場所を教えてくれるのはありがたいが、近付いてきた顔が、意味深な微笑みを見せる。
「気を付けないとアレよ」
「……あれ?」
「早くいかなきゃおタマちゃん、風ちゃん喰われてるかも」
「やだあ、こんな野外で?」
「なになに、野外プレイなの」
 キャーとかヤダーなどと、色とりどりの声を上げて笑っている店子たちの遣り取りに、珠恵が気圧されていると、気の毒に思ったのか、ケンちゃんと呼ばれている店子が声を掛けてきた。
「おタマちゃんが来たら向こうにいるって言えって、ママからそう言われてたのよ」
 その言葉に頷いて礼を言ってから、その場を立ち去る。
「またお店にいらっしゃいねぇ~」
 そんな声と、なぜかウインクや投げキッスに送られながら、珠恵は教えられた場所――恐らくは去年も風太が一人でいた桜の辺りだろう――へと足を向けた。
 花見用の提灯の明かりもない、花見会場の裏側になる土手沿いのその一角は、今年も、人影は疎らだった。

 近付いてくる珠恵の気配に気がついたのか、並んで腰を下ろしていた背中が一つ、振り返り、立ち上がるのが見える。隣で寝そべってしまった風太に何か声を掛けてから、ターニャが珠恵の方に向かって歩いて来た。
「もう、遅いのよアンタ」
 目の前で立ち止まったターニャに挨拶をすると、そんな言葉が返って来る。
「あの……すみません」
「風ちゃんひとりじゃかわいそうだから、私が相手しといてあげたわよ」
「はい」
「ちょっといい感じだったのに、もう。しょうがないから、譲ってあげるわ」
 口調はキツイけれど、どこか今日のターニャの目は優しい。小さく頷いてみせると、風太の姿を肩越しに見遣ったターニャが、微かに笑った。
「見つけて欲しい子どもみたいよね、あれ」
 曖昧に笑みを返すと、伸ばされたターニャの手が珠恵の髪に触れた。咄嗟に身体に力を入れてしまい、そのことに少しばつの悪さを覚える。
「余計な心配しなくても大丈夫よ。アタシ、女は丸っきり駄目だから。ほら」
 示された指先には、桜の花が摘ままれている。すみません、と口籠りながら顔が赤くなるのがわかる。
「まあでも、風ちゃんの目の前でこれやったら本気で睨まれそうだけど」
 ほら、と差し出された桜の花びらを手のひらで受け取った。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして。ほら、早く迷子の所へ行ってあげなさい」
「はい」
 頭を下げてターニャの脇をすり抜けようとすると、後ろから呼び止められた。
「あ、ねえ」
 立ち止まって振り返る。
「はじめてよ」
「……え?」
「ずっと、そばに寄ることなんてできなかった」
「……」
「だから、初めて。風ちゃんと二人で、お花見したの」
 交わした視線の中に、深い悲しみや慈愛のようなものが映し出されているようにも感じる。この人にとっても、今日という日が特別なものだったことを思い出した。
「――はい」
 口元にフッと笑みを浮かべて今度こそ背を向けたターニャは、振り返らずに、花見の喧騒の中へと戻って行く。その後ろ姿をしばらく見つめてから、珠恵は風太の元へと足を向けた。

 ほんの少し散りかけた桜の木を仰ぎ見てから、足元へと視線を向ける。仰向けに寝転んだままの風太が、そんな珠恵の様子を下から見上げている。
「あの、隣、いいですか」
「ああ」
 組んだ両手を頭の下に敷いて寝ている風太の隣には、小さなビニールが敷かれている。そこに視線を向けると、口にしない疑問に風太が答えをくれた。
「女だから地べたになんて座れないって、持ってきたのを置いてった」
「ターニャさん、ですか」
「ああ」
 唇の端を上げて笑う風太の隣、ターニャが置いて行ったビニールシートの上に腰を下ろす。しばらく黙ったままで、風に乗り散り落ちる桜の花びらたちをを見ていた。
「風太さん」
「――ん?」
「この場所、覚えてますか」
「……」
「去年も、この桜を、ここでこうして見ました」
「そう、だな」
「今年も。お花見ができて、あの……よかったです」
 続けて言おうとした言葉を一度呑み込んで、風太の方へと顔を向ける。桜の木を見上げていた風太の視線が、珠恵のそれとゆっくりと交わった。
 手を伸ばし、風太の髪に落ちた花を指先で摘まんで、ついクスッと笑みが零れる。
「――こんなの落ちてきたら、普通気付かねえか」
 そう言って珠恵が花の形のままのそれを目の前にかざすと、鼻を鳴らすように風太が小さく笑った。
「気付かねえもんだな」
 笑みを返すと、伸ばされた風太の手が笑っている珠恵の頬を優しく摘まんだ。
「また、ここで。風太さんと、ここでこの花を見ることができるって……思ってなかった。だから、私。本当は凄く嬉しくて、楽しみにしてました。……それに――」
 頬に触れていた風太の手がそっと離れて、言葉の続きを待つように、黒い双眸が珠恵を見つめている。
「この花は……さくらは、私には、風太さんの花――だから」
 黙ったままの風太は、気持ちを読まれることを避けるかのように、珠恵から視線を逸らして目を閉じた。
 特別過ぎて、ただ好きだとさえ言えなくなったその花を、もう一度珠恵は見上げた。この花の美しさや儚さに、いったいどれ程の人が魅せられてきたのだろう。そう思うと、散り落ちている花びらにさえ愛しさを感じる。
 ――風太の背に咲いている花
 不意に重みを感じて視線を戻すと、風太が膝の上に頭をのせていた。横向きに寝そべったその表情は、珠恵からは殆ど見えなかった。
「重いか」
「……いえ」
「なら少し、貸しててくれ」
「はい」
 頷きながら、そっと風太の髪に触れる。気持ちよさそうに、風太が息を吐くのを感じた。
「――なあ」
 くぐもった声が足元から聞こえて、髪を撫でる手を止めた。夕べ殆ど眠っていない風太の声色は、どこか眠そうにも聞こえる。
「さっきのあれ」
「さっき、ですか?」
「ああいうの……、酔っぱらったオッサンの勢いに押されて言うもんじゃねえから」
「――え」
「……そのうち、な」
 聞こえていたはずの風太のその言葉の意味が、少し遅れて頭の奥に届き、その途端に鼓動が跳ねる。
 考えていなかった訳ではない。風太と暮らし始めて、このままいつかは――そんな風に漠然とは思っていた。けれど、風太が口にしたその言葉に、胸の中に痛みにも似た何かが広がっていく。
「……はい」
 答える声が震えてしまうのは、もうどうしようもなかった。
「あとな」
「……はい」
「来年は。――二人で、どっか花見に行くか」
 顔を見せないままの風太の言葉は、それが本心なのか、珠恵を喜ばせるために言っている事なのかはわからなかった。
 それでも、また来年も、その次の年も――。
 そんな風に繋いでゆく先にずっと共にある時を約束されたような気がして、震える声を誤魔化せそうにもなく、ただ、しっかりと頷いた。
「……20分だけ寝るから、起こしてくれ」
「……」
「その間に、泣きやめよ」
 声を出さずにもう一度頷くと、そうしてくれと望むように、風太の手が珠恵の手を自分の頭の上に誘う。震えが伝わる膝の上では眠りにくいだろうと思いながら、そっと風太の髪を撫でるうち、本当に小さな寝息が聞こえてきた。

 足元に掛かる頭の重みが、少しの肌寒さを和らげるように温もりを伝えてくる。
 指先で涙を拭った瞳を開くと、揺れる視線のその先で、ひらひらと降る花びらが、眠る風太の上に柔らかく舞い降りた。



番外編「雨花」 完

タイトルとURLをコピーしました