番外編《雨月》

雨花(うくわ)3



 去年と同じ花見会場の公園に到着すると、もう大勢の人で賑わっていた。
 公園の入口まで迎えに出てきた風太や竜彦たちが、喜世子と珠恵の持って来た荷物を引き取ると、今度は身軽過ぎて落ち着かなくなる。一番重そうな荷物を持ち後ろをついてくる翔平に、珠恵は手を差し出した。
「翔平君、私も持つから」
「いいよ、もうそこだし」
 翔平がそう答えるのと重なるように、振り返った竜彦から声が飛ぶ。
「珠ちゃんいいって。そいつ甘やかしたら調子のるから」
「何っすか、調子のるって」
 笑っている竜彦に翔平が言い返す様子が、じゃれ合っているようにも聞こえて、つい笑ってしまう。結局、珠恵が持っているのは自分の荷物だけになっていた。
 少し前を行く風太は、荷物を手に喜世子と話しながら歩いている。
 雨で桜が殆ど散ってしまうのではないかという心配は、杞憂に終わったようだった。周囲を見渡すと、雨や風に舞い落ちたのだろう地面に散った花びらもたくさんあるものの、それ以上に、大半は花も残っていて、今日が見頃の満開を迎えていた。

 確保されていたのは去年と同じ場所で、もう待ちきれない何人かは、菓子やツマミを肴に飲み始めているようだ。
「珠恵」
 呼ばれて見上げると、風太が内緒話をするように顔を寄せてくる。
「正さんには、呼ばれても近付くな」
 小声で耳打ちをされた内容にリアクションを取る間もなく、風太の顔が離れていった。
「優衣ちゃんが風邪気味で、今日は二人は来れないんだって」
 周りを見渡して、美和の姿が見えないことが気になっていたところに、喜世子が珠恵に向けてそう声を掛けてくる。美和と、そしてもうじき一歳になる娘の優衣に会えないのはとても残念だった。
 初めて会わせて貰った時はまだ首もしっかりとは据わっていなかった優衣は、会うたびにすくすくと成長し、この間は掴まり立ちをしていた。
 美和が訪ねてくる時間帯は、珠恵が仕事に出ていることが多いため、今日は久しぶりに会えることを楽しみにしていたが、心配の方が先に立つ。
 一寿は、一人娘の優衣を、姫と呼んで溺愛している。今日も本当は早く帰ると言ったらしいが、美和からは邪魔だからゆっくりして来いと言われたと、愚痴を零している。
「そのうちあれだぞ、娘からも『ゲッ帰ってきやがった』ってな顔されんぞ」
「そうそう、オッサン寄んなとか言われてよ」
「んでそのうち、お前みたいなよ、ロクでもねえ男連れて来て、パパ、私この人のお嫁さんになりたいの、とか何とかいいやがんだよ」
 ガハガハと笑いながら一寿をからかう目上の職人連中に、一寿がやめて下さいよと、本気で嫌そうな顔をみせている。少し気の毒に思えたが、きっと慣れているのだろう皆は、そんな一寿の反応を含めて可笑しそうに笑っている。
 食事もメンバーも殆ど揃ったところで、本格的な宴が始まり、既に出来上がりつつある数人を含めて、一気に賑やかさが増した。
 二度目の珠恵は、もう殆どのメンバーとは顔を合わせた事があったが、中には初対面の人もいて紹介される。
「へえー、あんたが風太の」
 いつもこういう時、珍しいものを見るような視線を向けられるが、今回も同じような反応をされた。

 作ってきたご飯やおかずを広げて、それを皆でつまみながら、そこここで話が弾む。珠恵が風太の分のおかずを皿に取り分けおにぎりを手に取った時、こちらに向けられた言葉が耳に届いた。
「で、お前らはいつ一緒になんの」
 顔なじみの水口の言葉に、動きが止まる。
 ――え
 そのまま珠恵へと向けられた水口の視線が、再び風太の方へと戻っていく。やはり今の問いは自分達へのものだったのだと意識した途端、心拍数が上がった。
 何をどう返していいのかわからず、かといって風太を直視することも出来ずに狼狽えてしまい、手にしていた鮭の入ったおにぎりを取り落としてしまった。
「あっ」
 後ろの方に少しだけ転がったラップに包まれたおにぎりを、追いかけて手を伸ばそうとすると、先に伸びてきた大きな手がそれを掴み上げた。
 顔を上げると風太と目が合って、途端に顔が熱くなるのがわかる。まさかこんな場所でそんな事を話のネタにされるとは思ってもいなかった。
 風太が手にしたおにぎりを取り返そうとすると、それを握ったまま、答えを待つようにこちらを見ている水口達の方へと、風太が顔を向けるのがわかった。水口の問いかけが聞こえていたらしく、近くにいた何人かが、同じようにこちらへと視線を送ってくる。
 助けを求めるように喜世子の方へと視線を向けたが、背を向けて話し込んでいて気付いてくれそうになかった。
「まあ――。そのうち」
 そう答えた風太の声が耳に入り、一瞬思考が停止し、すぐに心臓が痛くなる。
「んだ、そりゃ」
「ハッキリしやがれってんだ、なあ、あんたもそう言ってやれ」
「あ、あの……いえ、私は……」
 しどろもどろになりながら、珠恵は、これ以上この話を続けないで欲しいと。自分に振らないで欲しいと胸の内で必死でお願いをしていた。
「まあでもなあ……でも結婚つってもよ――」
 願いが届いたのか、幸いなことに話はそこから互いの妻の愚痴へと移り、それ以上問い詰められる事にはならずに済んだ。変な汗を掻きそうな程に、動揺していた身体の力が少し抜ける。
「珠恵――」
「……え?」
 それでもすぐには風太の方へと顔を向けられずにいると、珠恵を呼ぶ声が耳に届き、慌てて顔を上げた。意識して視線を逸らさないようにしている珠恵の不自然さに、風太が少し苦笑いを浮かべた。
「それ、貰っていいか」
「あっ、ごめんなさい、どうぞ。……あの、風太さん」
 皿に取り分けた風太の分のおかずを、ずっと手に持ったままだったことに気がつき、慌ててそれを手渡す。周囲も珠恵が気にするほどにはさっきの話題を引き摺っている風もなく、もう二人に注意を払う者がいないことにようやく安堵した。
「ん?」
「おにぎり、鮭と海苔を多目にしておきました」
「――ああ」
 朝方の遣り取りを思い出したのか、少し間を置いて頷いた風太が、手にしたおにぎりのラップを外し始める。風太の手の中にあるおにぎりの形が変わってしまっているのを見て、珠恵はそれがさっき落としてしまったものだと気がついた。
「あの、風太さん、こっちを」
 新しい鮭のおにぎりを渡し、風太の持っていた方を取り上げると、不思議そうな視線が向けられる。
「なんか違うのか?」
「あの、こっちは落としたので、私が」
「……別に、食ったらいっしょだろ」
「でも、そっちの方がキレイだから」
「ラップ巻いてっからそれも汚れてねえだろ、そっちも俺が食うから」
「風太さんは新しいのを」
「何で」
「こっちは私が食べます」
「だから、何で」
「これは形が……あの、ちゃんと三角じゃないから」
「三角じゃなくても食えるだろ」
「風太さんに、きれいな三角のを食べて欲しいんです」
「……」
 これくらいでムキになる自分もおかしいと思いながら、ついそんな事を口走ってしまう。呆れたのか、黙って珠恵を見ている風太から目を逸らそうとして、周囲が妙に静かな事に気がついた。
 正面に座っていた水口と、今日初めて顔を合わせた二人の職人が、ニヤけ顔でこちらを見ている。珠恵の視線を追うように、風太も顔をそちらへと向ける。
「……何、すか?」
「いやぁ、噂には聞いてたけどよ」
 二人の視線は、間違いなく珠恵と風太をからかう類のものだ。
「噂?」
「なあ翔平、こいつらいつもこんなか」
 席を立って移動してきた翔平が、通り掛かりに突然掴まってそんな事を聞かれている。
「え、何っすか、いつもって」
「や、だからこの二人よ」
 翔平の視線が、風太と珠恵に向けられて、ああ――と、なぜか得意気な顔をして頷く。
「そうっすよ」
「へえ、翔平おめえも目の毒だよなあ」
「こんなん毎日見せつけられてよ」
「いや、ほんとマジそうなんっすよ」
 ここぞとばかりに二人の話に乗っかっていく翔平は、随分と楽しそうに見える。少しそれを恨めしく思いながら、続いている話題がまた自分達の事であるのが、堪らなく恥ずかしく居た堪れない。下手に口も挟めずに、珠恵は赤くなっているはずの顔を俯き加減で隠しながら、手にしたおにぎりを頬張った。
 視線を逸らす時にチラッと見た風太は、苦笑いを浮かべるだけで、遣り取りを聞き流している様子だ。こういう話題になると、いつも狼狽えるのは珠恵だけで、風太が動じているところは見たことがない。
 ともすれば、動揺する珠恵の様子を楽しんでいるのではないかと疑いたくなるくらいだ。
「つか、風太よ、最近お前結構言われてんの知ってっか」
「――何すか」
 四人で散々色々話した挙句、不意にその矛先が風太へと向けられたようだ。その内容に、俯き加減でおにぎりを齧っていた珠恵も、そっと顔を上げた。
「最近お前、丸くなったってよ」
「そうそう、みんな言ってんぞ」
「何すか、それ」
「いや、まあでも、どうりでそう言われるはずだよな」
「んと、お前もそういう顔出来んだってホッとしたわ」
「……俺にはキツイままっすよ」
「おめえはしょうがねえだろ、弟弟子だし、翔平だしよ」
 翔平の頭を軽く叩きながらそう言って笑う職人の、日に焼けて皺の寄った目元をつい見つめてしまう。
「こいつと初めて会った時なんてよ、んと、目つきの悪ぃただのクソガキでな」
「挨拶なんてポケットに手え突っ込んだまま、首をなあ」
「そうそう、下げんじゃねえんだよ、前にクッて突き出してな」
「それで挨拶のつもりかって、おやっさんに頭、叩かれてよ」
 珠恵の知らない昔の風太の話が始まると、さっきまでの羞恥も忘れて夢中で聞いてしまう。
「あんま余計なこと吹き込まないで下さいよ」
 多分あまり聞かれたくないのだろう、風太は苦笑いを浮かべている。
「お前も、こんな話真剣に聞くな」
 珠恵にもそう言って、残ったビールを飲み干してから、黙々とおにぎりやおかずを頬張り始めた。
 いつもとは違い、今日は味方が多いと踏んだのだろう翔平も、風太の昔の話をし始めて、珠恵はその様子を想像しながら、内心驚いたり実際に目を丸くしたり笑ったりしながら、それを聞いていた。

 しばらくすると、昌也が、そして仕事帰りの真那が駅で会ったと愛華を伴い合流し、益々賑やかさが増す。珠恵が翔平や、真那、昌也たちと話をしている間に、ちょっと顔を出してくる、と風太は席を立ち、今年も賑わいを見せているターニャの店のメンバーたちのシートへと向かって行った。
 普段でも、風太は話を向けられれば答えはするが、大勢の人がいる中であまり話す方ではない。だから、この花見の席で風太が無口な事に、取り立てて周りが違和感を覚える事はないようだった。

 今も風太は、周囲の喧騒を壊さぬ程度に振る舞ってはいるが、この場所に居心地の好さを感じている訳ではないのだろうと、珠恵には、何となくそんな風に思えた。

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