花見の当日、午前中は夕べの雨を引き摺るように花曇りだった天気も、午後からは雲の合間に青空がのぞき、気温も少しずつ上がり始めているようだった。
昼前に場所取りに出向いた翔平から入ったそんな報告も、けれど殆どずっと台所に詰めている喜世子と珠恵には、余り実感する間もなかった。増してや、手際よく支度を進める喜世子についていくのが精一杯の珠恵は、外を見る余裕もなくひたすら忙しなく立ち働いていた。
おかずの用意がある程度整うと、あとを喜世子に任せて、今度はおにぎりを握る。解した焼き鮭、梅干し、昆布などの具を中に入れたものと、シンプルな塩結びに海苔だけを巻いたもの。去年手伝いをした時には、ただただその数に圧倒されたが、心構えができていた今年も、繰り返しおにぎりを握りながら、これだけの量が今日のうちに消えてしまうことを思うと、ある種の感動すら覚えてしまう。
途中で喜世子も加わり全てを握り終えると、冷ましていたおかずと、握ったおにぎりを、お重や使い捨ての弁当容器に詰め込んで。湯を沸かし、台所の後始末をしてようやく支度が整った。
荷物を取りに戻って来る予定の翔平に連絡を入れてから、しばらくの間居間に腰を下ろす。大きく息を吐き、腰にくるね、と苦笑する喜世子に同意しながら、お茶を入れた。朝から殆ど何も口にしていないけれど、ずっと食べ物を作っていたからか、あまり空腹を感じない。
「お花見、今日で却ってよかったね」
外をゆっくり見渡す余裕ができ、喜世子と二人でそんな天気の話や、花見での思い出話を聞きながら、珠恵も温かいお茶を口にしてようやく人心地が付いた。
他の皆は、外から直接の花見をする公園に向かうため、今日の家の中はとても静かだった。
珠恵が部屋を出た時間には、まだ布団に潜り込んでいた風太も、つまみやアルコール類を調達し、先に現地で待機している翔平達と合流しているはずだ。
夕べ風太は――。
多分殆ど眠っていなかった。
夕食の後片付けを手伝い、花見の下準備を少しだけしてから風呂に入った珠恵が、いつもより遅く部屋に戻った時には、まだ外は雨が降っていた。
部屋の中は静かで、風太は先に布団に入り横になっているようだった。
風呂上りの心地よい疲れに、ぼんやりと寝支度をしながら、部屋の壁に掛けられたカレンダーに視線を送る。何気なく明日の日付を見ているうちに、ふと思い浮かんだことに、鞄を引き寄せて中から手帳を取り出し、最初のページを開いてみた。
しばらく見つめていたそのページから視線を上げて、手帳を鞄の中に仕舞い込む。何の物音もしない隣の部屋にいる風太は、起きているのだろうか、それとも眠っているのだろうか。
そんなことを思いながら、珠恵は立ち上がり、細く開いていたカーテンの隙間から外を眺めてみた。外の様子は部屋の中からではあまり窺えないが、それでも、軒先に当たる雨の音と時折窓を濡らす水滴から、雨が降り続いていることはわかる。
上げていた視線を戻した珠恵は、カーテンを隙間なく引き電気を消して、薄く明かりが灯った隣の部屋へ足を向けた。
珠恵の方へと背を向けるような形で、風太は横になっていた。そっと布団を捲り、その隣に身体を滑り込ませる。寝息一つ聞こえない様子に、きっと風太は眠っていないのだろうと感じた。
――お前は、楽しそうにしてろ
明日が何の日だか、風太が気付いていないはずがなかった。
つい推し測ろうとしてしまう風太の本心から気を逸らすように、珠恵は、軒先に当たる雨の音を聴きながら、そっと目を閉じる。
やがて睡魔に襲われ霞んでいく意識の中で、風太が、静かに布団を抜け出す気配を感じた。
夜中に薄っすらと目を覚ますと、隣の部屋から漏れる明かりが壁にチラチラとした陰影を作り出している。テレビがついているのだろう、その一定しない光量の明かりを見ながら、珠恵は上体を起こした。
少し迷ってから、立ち上がりそっと隣の部屋を覗いてみる。小さく音を絞ったテレビの画面には、場違いな程に明るい雰囲気の外国のテレビショッピングが流れていた。炬燵の上には、ビールの缶と半ばまでビールが半分程注がれたグラスが置かれている。
風太は、普段部屋でビールを飲むとき、グラスは使わなかった。
初めから気がついていたのか、今気がついたのか、こちらに背を向けて炬燵に入っていた風太が、ゆっくりと振り向いた。
「――起こしたか?」
「いえ、あの」
テレビの音や光が煩くて目が覚めたわけではないのだと、小さく首を振って、車の中の時と同じような表情で珠恵を見上げた風太を見つめ返した。
気になって様子を覗いてみただけだったが、気付かぬ振りをしてそのまま眠っていた方がよかっただろうか。
風太が、一人にしておいて欲しいと思っているのか、それともそうでないのか、珠恵にはわからなかった。
「どこも、こんなんばっかだな」
その言葉の意味がすぐにはわからず、答えあぐねていると、風太の視線がテレビの画面へと向けられる。テレビショッピングの事だと理解すると共に、声を掛けられたことでそこに居てもいいと言われた気がして、部屋に足を踏み入れ風太のそばに近付いてみた。
春とはいえ、夜中の部屋の中は、ヒンヤリとして肌寒い。腕を擦った珠恵に気がついたのか、風太は自分が羽織っていたパーカーを脱いで珠恵に手渡した。
「風邪ひくから着とけ」
「でも、風太さんが」
「俺は寒くねえから」
「……はい」
これ以上いいと遠慮しても風太は引かないだろうと、手渡されたグレーのパーカーを手に取り羽織る。珠恵にはすべての丈が長くて、袖も殆ど指先まで隠れるそれは、持ち主の匂いと体温を移して温かく、どこか風太に包まれているような気がして安心する。
「入っても、いいですか」
「眠くねえのか」
「眠たくなったら、また寝ます」
返事の代わりに、再び画面の方へと視線を移した風太の横顔に、テレビから漏れる光で安定しない影が作られていく。
そっと炬燵に入り込んで、商品に興味を覚える訳でもなく、何も言わず同じようにテレビの画面をボンヤリと見つめていた。
時刻は、もう明け方の四時を迎えようとしていた。
ワザとらしい程大げさな使用者の体験コメントを聞きながら、ずっと起きていたのかと、そう問い掛けようと風太の方を振り返ると、薄暗い部屋の中、真っ直ぐに視線が繋がる。振り返る前から、風太はテレビの画面ではなく珠恵を見つめていたように思えた。
質問はすぐに声にはならず、視線を逸らすことも出来ずに、しばらくの間ただ見つめ合っていた。
風太の顔に作られる光と影のコントラストが、その顔を、笑っているようにも、怒っているようにも、そして泣いているようにも見せる。
「ずっと……起きてたんですか?」
目を逸らさないまま、珠恵は呟くような声でようやくそれだけを聞いてみた。口元に小さく笑みだけを浮かべた風太は、珠恵から顔を逸らし、再びテレビの方へと視線を送る。
その瞳は、画面の中の映像とは違うものをそこに映しているように珠恵には見えていた。
「たいてい、夜中はこんな番組がかかってたな」
「……通販、ですか?」
どこで、とは聞かなくてもわかる気がした。
「酔っぱらいに夜中に叩き起こされて、面白くもねえこんな番組見せられて」
「……」
「絶対使わねえだろって商品、下のモンに注文させて……」
口元に笑みを浮かべたまま、風太の視線がそっと伏せられる。
「酔ってっからな。てめえで買わせたくせに、物が届くと下らねえもん買うなって殴られる奴もいて。そういや、電話口の女を口説いてたこともあったな」
呆れたような苦笑いを零しながら、僅かに上げられた視線が珠恵を見つめて、すぐに逸らされた。
画面の奥にきっと見えているのだろうその人のことを語る風太の声は、どこか、思い出や懐かしさよりももっと近い場所にある記憶を、思い起こしているように聞こえた。
去年の花見は、四月の第一土曜。
その日は――今年の、今日だった。
眠る前に見た手帳で珠恵が確かめたのは、去年から来年にかけての、三年分のカレンダーが並んだページだった。
花見の予定が日曜にずれたことで、奇しくも、去年と今年の花見は同じ日にちとなっていた。
――今日は、安見さんの命日だ
ほんの短い間であっても、風太を養い、時間を共にし、そして親方と出会わせた、この世にはもういない人。
珠恵が知っているのは、二人の関係のほんの僅かな欠片にしか過ぎない。
風太にとって、その人の存在はどれ程大きなものなのだろうか。自分の背にその人と同じものを背負う程のそれは、いったい、どんな重さなのだろう。
珠恵にわかるのは、その人がいなければ、今の風太はいなかっただろうということだ。親方との出会いも、こうして珠恵と共にある今もきっとなくて、もしかしたら、互いの存在を知ることすらなかったのだと思うと、想像であっても胸が締め付けられるように痛くて、泣きそうになる。
誤魔化すようにテレビの画面へと一度視線を向けてから、珠恵は、風太に笑みを返した。そうして、そばにいても何も見つけられない言葉の変わりに、テレビのリモコンに添えられていた風太の手に、伸ばした手を重ねた。
温かくて大きな手のひらが、すぐに珠恵の少し冷たい手を強く握り返してくる。
「――雨、やんだな」
カーテンの掛かった窓の方へと顔を上げた風太が、ポツリとそう口にした。
「そう、ですね」
「明日、早えんだろ」
「……はい」
「お前は、もう寝ろ」
――風太さんは?
そんな疑問が、迷うように風太を見つめた珠恵の顔にわかりやすく浮かんでいたのだろう。
「俺も、もう少ししたら寝る」
風太は、続けてそう口にした。
私も――起きてる、と言おうとした珠恵の顔を、瞬きを忘れたような風太の瞳がじっと見つめた。
「いいから、ちゃんと布団で寝とけ」
本当は、テレビの明かりだけが灯るこの暗い部屋に、風太を一人にしたくはなかった。けれど、それはただの独りよがりな思いで、風太は一人になりたいのかもしれない。
小さく頷いてみせると、珠恵を見つめていた風太の瞳が微かに眇められ、リモコンの上で重なった手が、少し強く握られた。微かに腰を浮かせたタイミングで、腕を引かれ首筋から髪を掻き上げる様に差し込まれた手に、引き寄せられる。
目を閉じる間もなく、少し強引に唇が重ねられる。風太の腕を掴んだまま、不意打ちに身体に入ってしまった力を抜いて、ゆっくりと目を閉じた。
珠恵の髪を握り締めたまま、縋る様に少し痛いくらい強引なそのキスは、けれど、どこか欲情を感じさせる類のものとは違っていた。
ゆっくりと名残惜しげに離された唇から視線を逸らして、ほんの少しだけ俯く。名残惜しいと感じているのは、本当はどちらなのだろうか、と、そんな事を思ってしまう自分が少し恥ずかしくなる。
風太の腕が珠恵の身体を離れると同時に、珠恵も掴んでいた風太の腕を離した。
「――おやすみ、なさい」
俯いたままの視線は上げずに、静かにそう呟いて立ち上がる。ほんの短い時間、珠恵の身体を温かくしてくれていた風太のパーカーを脱いで返し、隣の部屋に戻ろうとして途中で足を止める。
僅かな逡巡の後、もう一度後ろを振り返った。
「風太さん」
呼ばれて、こちらを見遣った風太の顔を、見つめる。
「……ん?」
「おにぎりの具は、何がいいですか」
「……鮭」
その答えに笑みを浮かべて頷いて、背中を向けようとした珠恵を、今度は風太の声が追いかけてきた。
「それと、何も入ってねえ海苔だけのも多めに作ってくれ」
振り返ると、風太はもうテレビの画面へと視線を戻してしまっていた。
「……はい」
返事を返して部屋に戻り、冷たくなってしまった布団の中にもぐり込むと、珠恵は今重ねたばかりの唇にそっと触れながら目を閉じた。
目が冴えてしまったと思っていたのに、体温が馴染むように少しずつ温かくなる布団の中で、チラチラと瞼の裏に映る明かりを感じていたのも束の間、すぐに記憶が途絶え眠りに落ちる。
目が覚めた時には、珠恵に背を向けた風太が、隣で眠っていた。
(続く)