また、桜が咲く季節が巡ってくる。
春が来るのに合わせたように丸みを帯び始めていた桜の蕾を見上げながら、花見の頃まで、この寒さが続くのではないだろうかと思っていたのは、つい先週のことだというのに。
季節を思い出したかのように急に暖かくなった気候に、今度は、花見の頃まで桜が保つのだろうかと、それが心配になる。
古澤大工店とその仕事仲間とで毎年行っている恒例行事の花見は、四月の第一土曜日の予定だった。けれど今年は、親方や職人の不都合が重なったため、直前になって、翌日の日曜日に変更されていた。
ここ最近はずっと喜世子と共に食事の準備をしていた一寿の妻、美和は、まだ子どもが小さいからと、喜世子は手伝いの申し出を断っていた。多少の分担があるとはいえ、その大部分を担う喜世子一人に、あれだけの支度を任せるのはさすがに負担が大きいだろうと、珠恵は、当初の予定で土曜日に取っていた休みのシフトを、急遽真那に交代して貰い、日曜日に休みを取った。
わざわざ休みを変えなくていいと言っていた喜世子も、珠恵が日曜日に休めることになったと伝えると、正直助かったと、少しホッとした様子だった。
今年は、ただでさえ真那や弟の昌也も招待して貰っているのだ。その分去年より、参加人数は多くなっている。シフトを変わって貰った真那は仕事帰りに、そして昌也も大学の授業が終わってから参加する予定だった。
花見に向けて、今年は珠恵も少し任されている弁当のおかずを考えたりしていると、少しずつ気持ちも浮足立ってくる。
四月に入り、そこここでほぼ満開になり始めた桜の、淡いピンクの花びらが咲き誇る様を通勤途中で見かける度に、少しだけ泣きたくなるような、温かい気持ちを胸中で感じていた。
この週末まで花がもっていて欲しいと、毎日切に願っていた。
前日の土曜は、朝から曇りがちで、夕方からは静かに雨が降り始めていた。桜が散ってしまうのではないかと、それが気がかりだったが、どうにか今の所は風も雨も思ったほどひどくはなさそうだ。
それでも、仕事を終え板野と駅まで向かいながら、つい雨のことを気にしてしまう。
「風が余りなさそうだから、結構残ってるんじゃない」
「そうだと、いいんですけど」
「全部散ったりはしないと思うけど。まあ、どうせ最後は皆花なんて見てないでしょ」
「確かに、そうですね」
板野が半ば慰めるように言ってくれるのに笑って頷きながら、それでも、心のどこかで、満開の桜を望んでしまう。
「まあ、今日の人は気の毒だったね」
花見を予定していたのだろういくつかのグループが駅に集合しているのを見ながら、板野は最後にそう締めくくり、お疲れ様と、改札を潜っていった。
電車を待つ駅のホームで携帯を確かめる。何か買って帰るものがあるかと聞こうと思っていたら、帰りに駅前のスーパーで食材を買い足してきて欲しいというメッセージが喜世子から届いていた。
喜世子に返事を送ると、『雨が降ってるから風太が駅まで車で迎えに行くって』と返信が届く。併せて送られてきたリストと、真那と相談しながら作ることにしたおかずの食材を購入すると、それでエコバッグ二袋が一杯になっていた。
「明日で、よかったですね」
荷物を全て車の後部座席に積み、風太の運転で家路につき始めてから、珠恵はそう声を掛けた。
街並みの風景を時折遮るように、フロントガラスの向こうでワイパーが動いている。この雨では、板野の言った通り今日は花見は無理だろう。
「ん? ああ……」
流れ落ちる雨のその先を見つめたまま、風太から、あまり気のない返事が戻って来る。
もしかして、余計なことを言っただろうか。風太は、花見も桜の花も、好きではないと、そう言っていたのに。それを忘れてたわけではなかったのに、この行事を間近に控え、どことなく気忙しい様子や、昨年とは違って、今年は準備段階から携われることに、浮かれきってしまっていたのかもしれない。
信号待ちで車が停止すると、口を噤んでしまった珠恵の方へと、風太の視線が向けられるのがわかった。
「雨だろ?」
「――え?」
「だから、花見のことだろ」
曖昧な返事をする珠恵が答えあぐねているとでも思ったのか、風太がわかってるという風に重ねてそう口にする。
「あ、……はい。でも……」
どう言葉を続けようかと珠恵が僅かに迷う間に、正面の信号が青に変わり、風太の視線は、進行方向へと向けられた。
濡れたガラス越しに、雨にけぶる外の景色を見やると、少し先の道路脇にある民家の庭先に、淡いピンクの色がぼんやりと浮かんで見える。車が近付くにつれて、雨の雫に打たれて揺れる花がくっきりと眼に入り、すぐに背後へと流れて行った。
「なきゃいいとでも、言うと思ったのか」
今の桜を瞼の奥に残像のように思い浮かべながら、物思いに沈んでいた珠恵には、風太の口にしたことがすぐに頭に入ってこない。
「……え?」
「だから、花見」
「あの……いえ」
問われた内容に上手く返事が出来ず、運転している風太の横顔をみていると、その口元に苦笑いが浮かんだ。
「余計なこと考えてねえで、お前は普通に楽しんだらいい」
「……はい」
風太はこんな風に時折、珠恵が上手く口に出来ないことを汲み取り、言葉を返してくれる事がある。もしかしたら、それ程にわかりやすい態度を、見せてしまっているのかもしれない。
桜が咲き乱れ、やがて舞い散るこの時期、風太は、そこにいったいどんな景色を見ているのだろうか。
珠恵の目に映る桜と、風太が見ているそれの間には、きっと埋める事が出来ない隔たりがある。
風太と出会ってから、珠恵にとってこの花は、特別なものになっていた。
去年の今頃――まだ風太への想いは珠恵の一方的なもので、その先があることなど想像もしていなかったあの頃。
成り行きで誘って貰った花見で、初めて風太の過去の片鱗を知った。
静かに舞い落ちる桜の木の下で、風太が語ってくれた過去には、胸がヒリヒリとするような痛みを覚えた。けれど同時に、僅かでも風太を知ることが出来ただけで、ほんの少し距離が縮まった気がして、そのことに心が弾んでいたのも確かだった。
あの時間は、珠恵にとってとても大切な思い出だった。それまでの桜の記憶を、全て塗り替えてしまう程に。
だから、花見の準備にも自然と気持ちが高揚してしまう。
けれど風太の気持ちを考えると、こんな風に、はしゃいだ気分になっている自分が、とても自分勝手な人間に思えてしまう。
「――珠恵」
悶々と胸の内でそんな事を考えて、落ち込みそうになっていると、風太に呼ばれた。
「あ、はい」
もう、家に着く頃だろうと慌てて顔を上げる。
こんな風に、落ち込んだ姿を見せることは、風太に余計な負担を掛けてしまうと、気持ちを切り替えるように意識して返事をした。
ちょうど車は家の手前の角に差し掛かっていて、風太は、ウインカーを出して道を左折しながら、巡らせた視線が一瞬だけ珠恵を捉えて、また正面に戻された。
珠恵を呼んだまま、それ以上何も言う気配がない風太は、母家の方へと再び角を曲がり、玄関より随分手前でライトを落として、一度車を停車させた。
玄関先ではなくなぜこの場所なのだろうかと、少し戸惑いを覚える。
さっきより少し強くなった雨が、ワイパーを止めたフロントガラスに当たる音がはっきりと聞こえていた。
「楽しみ、なんだろ」
「え」
静けさを破った風太の声に、運転席へと顔を向ける。ハンドルに腕を掛けたまま、顔を正面にむけた風太は僅かに視線を伏せていて、薄暗い車内では、その表情は陰になってはっきりとしない。
「だから、花見」
「あ……私……」
やっぱり、顔や態度に現れてしまっていたのだろう。珠恵の考えていることなど、風太の前ではきっと、何も誤魔化せていないのだ。
「ごめん、なさい……」
咄嗟に口を吐いた言葉に、言った瞬間から後悔が込み上げた。運転席で風太が、深く溜息を漏らす。
「謝るような事があんのか?」
「ごめ……」
呆れたような、微かに苛立ちを含んでいるように聞こえた風太の声に、ついまた謝りそうになり、慌てて口を噤んだ。
こんなのは――。風太が楽しめない事を、自分だけが楽しむのが悪いと思う気持ちなど、ただの自分勝手な思い上がりに過ぎない。そう、わかっているのに。
もう一度溜息が聞こえて、ゆるゆると顔を上げた。水が流れ落ちて行くフロントガラスの向こうに視線を遣ったままの風太は、怒っているようでも、呆れているようでもない表情で、どこか遠いところを見つめていた。
「あのな」
「……はい」
「別に、やじゃねえから」
「……え」
「だから花見」
「……風太、さん?」
横顔を見せていた風太が、珠恵の方へと顔を向けた。
「お前とならな」
「……え」
「だから、楽しみなら楽しいって顔してろ」
「あ……」
どうして、この人は――。
「また泣く」
「……っだっ……て」
「また俺が皆に責められんだろ」
今度こそ苦笑いした風太に、珠恵も、微かに震える口元に笑みを浮かべてみせる。
――嫌いだった
――この花、いい思い出ねえから
ならば、これから先、毎年毎年咲く桜の季節を、風太の中の記憶をいつか塗り替えてしまう程の、たくさんの温かな思い出で満たせればいいのに。
本当は、強くそう思うのに、言葉にすると嘘っぽくなりそうで、上手く伝えることが出来ない。
こんな風に、いつも自分ばかりが風太からこんな言葉を貰っていて。なのに何も返せないことが。何かしてあげたいと思うのに、何も思いつかないことが。自分でもどかしい。
「泣いて、ません」
「なんだ、それ」
珠恵の頬に手を伸ばしながら、ふっと伏目気味に笑った風太の表情は、雨と街灯が作り出す陰影を帯びて、どこか淋しそうにも見えた。
「風太、さん」
泣いてないと言ったはずの珠恵の涙を拭う大きな手を取り、まだ少し震えている唇を閉じて、そっと風太に顔を寄せた。
何か言いたげに開きかけた唇に、自分のそれを重ねる。
ほんの僅かな間触れ合った唇を離しながら、口元に小さく笑みを浮かべると、目の前にある瞳が、深い夜の色を纏いながら、珠恵を見つめていた。
「明日は、晴れるといいですね」
それが、珠恵が口に出来た精一杯だった。けれど、風太の口元に、確かに微かな笑みが浮かんだことはわかった。
「――なあ」
「はい」
「そういやお前、明日休みなんだよな」
急に、わかったことを確かめるように尋ねられ、少し怪訝に思いながら頷く。
「はい、あの、明日は喜世子さんを」
「じゃあ、あれだな」
「あれ?」
「あれはアレだ」
「あの、風太さ」
「ヤレるっつうことだな」
「…………え」
車内の空気が、ほんの僅かに、濃度を増した気がした。
何時ものように、この手の話であたふたする珠恵を見る風太の表情に、さっきまでとは違う、けれどよく知っている笑みが浮かぶ。
「あ……あの、でも今日は明日の仕込みがあって、明日も朝早くから支度を始めないといけなくて、それで、だから」
「……で?」
「だから」
「……」
「き、今日は……ちょっと、あの」
言いたいことなどとっくにわかっているだろうに、何も言わず口元に笑みを浮かべたままで。
再びライトを灯し、ワイパーで水を跳ね落とした風太は、それ以上何もゆっくりと車を玄関先へと前進させた。