番外編《雨月》

通り雨-③雨過


 試験が終わるまでの間、風太はずっと隣の部屋で寝起きし、いつも夜遅くまで明かりが灯っていた。そんな状態が続くと、身体の方が心配になってくる。ここのところ仕事も忙しいらしく、休みも少ない。その上、毎晩遅くまで起きているのだ。
 だから、テスト期間が過ぎた時、珠恵はもう結果云々より、終わったという事に正直少しホッとした。
 その間、会話自体はほんの少しずつ増えてはいたが、風太もなんだか意地になっているようだったし、こちらから歩み寄るのも何かが違う気がして、結局、どこかぎくしゃくした感じを拭えないまま日々が過ぎ、そしてやっぱり、触れ合うことは一度もなかった。
 ほんの二度ほど、どうしてもわからない箇所を聞いてきた時も、質問が終わるとすぐにお役御免だったし、教える時も、向い側の席を示された。その方が聞きやすい、と言われたけれど、本当にそうだったのかはわからない。
 二人の様子を見ている喜世子は、笑って言っていた。
「あれは珠ちゃんに怒ってんじゃなくて、慣れない勉強のし過ぎだよ。ほっときゃいいから」

 気にし過ぎてぎくしゃくさせているのは自分なのだろうかと、珠恵がそんなことを考えるのにも疲れてきたころ、ようやく戻って来たテストの結果は、風太が口にした点数に、平均して一点だけ足りなかった。
「まあ……こんなもんか」
 結果を珠恵に手渡しながら、溜息交じりに苦笑いを浮かべた風太から、そこに並んだ数字へと視線を移す。どれも、前回のテストの結果より高い点数ばかりだ。
 元々、風太が自分に課した点数は、真那が言ったようにかなり厳しいものだった。仕事や学校から帰宅して、毎日夜遅くまで机に向かっていた事も知っている。だから、つい、ここ最近のモヤモヤした気持ちも忘れて、どこか悔しそうな面白くなさそうな顔をした風太に向かって、言ってしまったのだと思う。
「風太さん、あの」
「ん?」
「風太さんが言ってた、何でも……っていうあれ……あの……」
「ああ――」
 風太が、苦笑いする。
「私……いいです」
「いい、って、何が」
「何が……いいか言って下さい」
「……」
 赤い顔をしながら、だって風太さんすっごく頑張ってましただとか、一点足りなくても十分すごいです、とか、私は何もしてないから、だとか。そんな事をしどろもどろに言い募る珠恵を、風太がどんな顔で見ていたのかは、確かめる事が出来なかった。
「もうわかったから、ちょっと黙れ」
 少し呆れたような声と共に、頤に触れた指先にそこを掬い上げられると、唇が重なっていた。久しぶりのキスと風太の体温に、足りなかった何かが満たされていくような安堵を、確かに覚えていた。
 触れられない、いつもよりどこか余所余所しい空気を、寂しいと思っていたのは、きっと珠恵の方だったのだ。
「お前なあ……」
 唇が離れて、閉じていた瞳を薄っすらと開けると、珠恵の目に、見慣れた少し意地悪そうな笑みを形作った風太の瞳が映る。
「んなこと言うから、俺につけ入られんだろが」
 髪を撫でる手に引き寄せられて、風太の胸に額をくっつけると、緊張が緩んだのかホッとする。その途端、目の前が滲み始めた。
 シャツをぎゅっと掴みながら、吐息が小さく震えてしまう。
「……珠恵?」
 風太の声に、僅かに戸惑いが滲む。
「泣いてんのか?」
 首を横に振って、珠恵は顎に力を入れた。
「ちがっ……けど……でも……」
「なんだ」
「ホッと、して……ほ、んとに……い、嫌になってたら、どうしようって」
 呆れたように、風太が溜息を吐くのがわかった。
「んな訳あるか……ったく」
 一緒にいるようになってからこんな状態が続いたのは初めてで、どこかでずっと戸惑いや不安を覚えていたのだろう、ホッとすると同時に、勝手に涙腺が緩んでしまったのだ。
「――かった」
 不意にボソッと聞こえた気まずげな声。確かに「悪かった」と聞こえた気がして、少しだけビックリする。
 そっと顔を上げると、どこかばつが悪そうな顔をした風太がフイッと目を逸らしてしまった。ちょっとだけ不服そうな風太の顔を見つめるうちに、珠恵も、そもそものことの始まりを思い返して、次第におかしさが込み上げてくる。
 思わず笑ってしまった珠恵の唇に、また風太のそれが軽く触れた。
「ああ、そういや」
「……はい」
「さっきの話」
「さっき?」
「お前が、いい、つったの」
「あ……はい」
 何を言われているのかがわかり、珠恵は自分で言い出したくせに、つい息を詰めてしまう。
「あれな――」

◆ ◆

 結局、何でも言うことを聞く、という珠恵に風太が告げたのは、明後日の休みの前の日に、仕事の後待ち合わせて外食するという、拍子抜けするような内容だった。1点でも点数が足りなかったのだから、それでいいと。
 けれど、外で食事といいながら、それが初めから計算ずくだったのか、そうでなかったのかはわからないけれど、外食の後は流れるようにそのまま泊まって帰ることになり、この日、家には戻らなかった。

 ごく普通のシティホテル――。
 廊下を曲がり、手を引かれて入った部屋のドアが閉まった途端、そこに身体を押し付けるようにして、食べられるんじゃないかというような激しさで、唇を塞がれていた。
 ベッドに辿り着くのも待ち切れないように、確かにいつもより性急に珠恵を求めた風太だったが、ターニャ達が言っていたような要求は、やっぱり、ひとつもされなかった。
 激しい息遣いが聞こえていた部屋の空気が、ようやく少し落ち着きを取り戻してくると、身体に回された腕の中で微睡みながら、珠恵は、点数が取れていたら、風太は何を言うつもりでいたのだろうか、と、その本音を聞いてみたくなった。
「……風太、さん」
「……何だ」
 風太の肩に軽く頭を乗せたまま、そこにあるさくらの花びらを見つめる。少しだけ気怠そうな風太の声が頭上から届くと、肌越しにもほんのすぐそばから聞こえるその声に、それだけで胸がドキドキとする。
 触れ合っている肌の温かさに、すぐにでも瞼が落ちてしまいそうだ。そんな風に半ば寝ぼけているからなのか、箍がゆるんでしまっていたのか、深く考える事もなく珠恵は頭の中に浮かんだそんな疑問を口にしていた。
「あの……」
「……ん?」
「本当は、風太さん、何を、言うつもりだったんですか」
「何をって……何の事だ」
「あの……な、何でも言う事をきくって……どういう事を……」
 口にしてしまってからようやく我に返り、何を口走ってしまったのかと恥ずかしくなる。赤くなっているのだろう耳朶を緩く摘まんだ指に、そこが軽く引っぱられた。
「なあ」
「……はい」
「お前は」
「……え?」
「何だと思ってた」
「え……あ、の」
「俺に何言われるって想像してた」
「……べ……別にあの」
「言ってみろ」
 生ぬるい吐息が耳元に掛かり、ぬるっとした温もりがそこを食んでから、艶やかな笑みを浮かべた風太の顔が、赤く染まった珠恵の顔を覗き込むように見つめてきた。
「言わねえと、好きなようにすんぞ」
「あ、あの、好きにって……今日は、もう」
「嫌なら、言ってみろ」
 さっきまでだって散々好きにしていたくせに、珠恵を追い詰めるような言葉を口にしながら、甘い声が耳元で笑う。
「ほら……」
 腰の辺りに緩く回されていた手が、また、息を吹き返したみたいに、柔らかな肌を辿り始める。
「待っ……あの、エっ……エプロンとか、あ、あの……し、下着とか、あの、でもこれは」
「なんだその、エプロンっつうのは」
「……男の人の、……ロマン、だって」
「……」
 どうしてこんな話を自ら振ってしまったのかと後悔しながら、消え入りそうな声でそう答えると、珠恵が何を言わんとするのか理解したのだろう、風太の目が軽く見開かれ、そこに、ニヤッとした笑みが浮かんだ。
「ああ――」
「あの、でもそれは、私じゃなくて」
「そりゃ、いいな」
「あの、風太さ」
「頼んだらやってくれんのか」
「へっ……い、いえ、それは」
「次はそれにするか」
「次って、あの」
「何か、すげえ勉強する気んなってきた」
「ふ、風太さん」
「にしても……お前、誰にそんなこと吹き込まれた」
「あの、それは……」
 ターニャの店で、『何でもいう事をきく』が賭けの対象になっているのだと聞いた風太は、呆れたように溜息を吐き苦笑いを浮かべている。
「それであいつらこないだあんな顏してたのか」
「……え、この間って」
 この間――風太はターニャの店に顔を出していたんだろうか。けれど、そんな事を問い掛ける間もなく、隣にあったはずの風太の身体が反転して、あっというまに、ベッドに組み伏せられていた。
「つうか、お前が余計なこと言うから」
「えっ……ちょっと待って、あのっ……風太さん」
「待たねえ」
「だって」
「だいたい、もう嫌っつうほど待っただろうが」
「あの……っ――」
 唇が塞がれて、あっという間にその手が、珠恵の身体を好きなように弄び始めた。まるで、ここ何日の分を一度に取り戻そうとするかのように、この日の風太は、執拗だった。
 点数が足りなかったからと、確かそんな殊勝な事を言っていた気がするのに、結果的には「駄目です」という言葉も聞き入れられなくて、風太の手に翻弄されながら、珠恵は何だか、どこか少し腑に落ちない気分だった。

――ああ、そうだ、珠恵
――……っん……
――お前……今度から、教える時
――ゃっ……
――俺の、横じゃなくて前に座れ
――……な……に?
――……それと
――ふう、たさっ……それ……やっ……
――あいつらに、なに、されたか聞かれたら……
――……ぁっ……
――凄えこと……されたっ、つっとけ

 風太が言っている言葉の意味など、もはや頭の中に入って来るはずもなく、まともな返事も出来るわけもなかった。
 ただ、数日振りに楽しそうに笑う風太のその顔を見ながら、珠恵はほんの少し、胸の中がキュッとして、泣きたくなった。


(fin)


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