番外編《雨月》

通り雨-②小雨



 朝から何度目かの溜息が、無意識に零れてしまっていた。じっとこちらを見ている視線に気がつき、我に返る。
「何か、ありました?」
「え?」
「今日あんまり元気ないし。溜息とかついちゃってアンニュイ? って感じだし」
「あ、ごめんなさい」
「森川さんとケンカでもしたとか」
 さらっと口にした真那の言葉に、お弁当を食べていた手がピクッと動く。思わず逸らしてしまった視線を追うように「え、うそ、当たり?」と、真那が大きな声を上げた。
「うっそー、ほんとに喧嘩したんですか」
「あの、喧嘩って、いうか」
「信じらんない」
「そ、そういうのじゃなくて」
「きいちゃうけど何で?」
 もの凄く直球な問い掛けに、曖昧にモゴモゴと答えを濁しながら、視線を箸先へと戻す。
「もしかして……森川さん誰かと」
 何かに思い当たったかのように目を細めた真那は、珠恵の頭の中に言葉の意味が浸透する前に、首を振った。
「ないか。うん、ないない」
 自分で自分に答えを出して、それに納得している様子だ。
 昌也とさえ殆どまともに喧嘩などしたことがない珠恵には、昨日のあれが喧嘩と言えるものだったのかも、はっきりとは分からない。でも、あれからずっと、風太も珠恵も互いに最小限の口しかきいていないし、昨日の風太に珠恵が腹を立てたことも確かだ。
 だからと言って、今でも思い出すと腹が立つのかと言われると、そうでもない気もする。怒り慣れていない珠恵は、怒りという感情があまり持続しない。思い返してみては、やっぱり自分は悪くないと思おうとするのだが、すぐに、もしかして自分の言い方が悪かったのではないかと、気に病む方へと気持ちが傾いてしまう。

 夕べはあれから、結局、風太の勉強もみていない。集中出来ない、と部屋から追い出されてしまったからだ。
 食事の時間だけ母家に下りてきた風太は、普段と変わらないように見えて微妙な不機嫌さを隠し切れておらず、喜世子を除いたメンバーは箸を動かしながら、様子を伺うように風太をチラッと見ては、問うような視線を珠恵に向けてきていた。
 晩酌もせずに、ただ黙々とご飯を口へ運んでいる風太に、すぐに我慢しきれなくなったのか竜彦が声を掛けた。
「風太お前、どっか具合でも悪ぃのか」
「……や、別に」
「なあ珠ちゃん、あいつどっか悪いの? ビールも飲んでねえし」
「あ、いえ」
 今日ばかりはこちらに振らないで欲しいと思いながら、ぎこちない顔で竜彦に答える。
「つか、何か機嫌わりいのか?」
「……別に」
「悪ぃなこりゃ。おい翔平、お前また何かやったのか」
「ちょっ、何で俺なんっすか」
「お前今日昼間、風太についてただろが」
「今日は何もしてないし、俺そんなの知らないっすよ。だいたい、帰って来るまでどっちかってゆうと機嫌よかったくらいだし」
「そういやそうだな。……なあ珠ちゃん、あいつなんか怒ってんの?」
「……知りません」
「ごっそさんした」
「はやっ、もう食い終わったのか。お前、ちゃんと噛んで食ってんのか」
 周囲の会話に応じることもないまま、あっという間に食事を平らげ風太が立ち上がる。その態度と、いつもより素っ気ない珠恵の答えとに、さすがに竜彦も何かを感づいたようだ。
 居た堪れないような気持ちと腹立たしさと、周りに気を遣わせていることの申し訳なさと。さっきから風太とちゃんと目も合わないことも合わさって、また、ちょっと泣きたくなる。
 誤魔化すように、顔を上げずに黙々とご飯を食べ続けていると、「珠恵」と、竜彦の軽口を聞き流した風太が珠恵を呼ぶ。そ声に、ゆっくりと顔を上げた。
「お前、すぐ部屋に戻って来んな」
「え?」
「集中してえから」
 それだけを告げると、珠恵の返事を聞くこともなく、風太は居間を後にして出て行ってしまった。風太とちょっと気まずい、という事だけを耳に入れていた喜世子は、その遣り取りを呆れたように見て、珠恵に向けて肩を竦めるような苦笑いを浮かべている。その顔は、ほんとどうしようもないね、とでも言っているみたいだ。
「何っすかあれ、ちょっと感じ悪くないっすか?」
「……翔平」
「えっ、もしかして喧嘩とか? うっそ珠ちゃん、風太さんとケンカしたの?」
「おい翔平」
「ねえ竜さん、今のって喧嘩」
「あーっ翔平っ! お前なあ……ちょっと空気読め」
「え?……あっ、た、珠ちゃんごめん、いや、珍し過ぎてちょっとびっくりしただけで」
 風太は、本気で怒ってるんだろうか。あんなことで、本気で呆れられたのだろうか。でも、間違ってないはずだ。
 何でもない、とその場を取り繕ってはみたものの、皆に向けた笑みも強張っていて全く説得力がなさそうだった。
 無言で向けられる皆の気の毒そうな視線に、そのことを情けなく思いながら、食べ終わった食器を片付けることを口実にそそくさと台所へと向かった。
 結局、夕べはこの家で風太と暮らし始めてから初めて、別々の部屋で眠った。隣の部屋からは、夜中になってもずっと明かりが漏れていた。

「――え、もしかして、結構深刻?」
 黙り込んでしまった珠恵を、軽く眉間を寄せた真那が伺うような顔で見ている。そもそも、喧嘩なのかどうかもわからないこんな状態になっている原因は、浮気――どころか、勉強をみようとする度に、風太に押し倒されたことだ。
 そんなこと、相談どころか恥ずかしすぎて口になど出来ない。
「あれ、なんか耳、赤くなった」
「……え」
「えーちょっとぉ、喧嘩じゃないの?」
「あの、だから」
「今、なに思い出してた?」
「な、何でも」
「あっやしい」
「……あの、そんなこと」
「私には教えたくないとか?」
「そ、そういうことじゃなくて」
 真那が敏感なのか珠恵が分かり易過ぎるのか、こういう時の真那は妙に鼻が利く。
「じゃあ教えて?」
 期待に満ちた大きな目が、珠恵を見てニッコリと微笑む。笑顔は可愛いのに、追い詰められている気がするのは、どうしてだろう。
 真っ赤な顔でしどろもどろに、どうにかこうにか昨日の事をオブラートに包んだ上で話している珠恵を見ながら、真那は、呆れたような顔とニヤニヤした顔とを交互に繰り返している。その顔を見ていると、悶々としていた事がどこか馬鹿らしくも思えてきた。
「――うっわー、で、そんな約束までしちゃったんだ」
「約束っ、て、いうか……」
「だって、拒否らなかったんでしょ」
「らなかった、っていうか……出来なかったっていうか」
「にしても森川さん、期待を裏切らないよね」
「期待?」
「ちゃんとガツガツしてるっていうの?」
「ガッ……そ、れは」
「だって、あの見た目でそっちは精進料理系です、とか言われたらちょっとがっかり過ぎだもん。やっぱりあの系の男子にはがっついてて欲しいってゆうか。まあ、喰われる方は大変だけど。ね、珠ちゃん。にしても森川さん、こんなに一緒にいるのに勉強教わりながら毎日ムラムラするって、どんだけ好きなのって感じ。いいなあー」
「まっ、真那ちゃん、声大きい」
 心底楽しそうに笑っている真那の前で、珠恵は恥ずかしさに消えてしまいたいくらい、顔に血が上っている。
「多分、からかって、遊んでるだけだから」
「どうかなぁ、確かに半分はそうかもしれないけど、後の半分は、あわよくばだよ。てゆっか、8、2であわよくばだってそれ絶対」
 珠恵の倍以上は喋りながら、いつもなぜかご飯の進みが早い真那は、もう、弁当を殆ど平らげてしまっていた。話す間手が止まってしまう珠恵は、慌てて、箸を動かすスピードを上げたけれど、もう殆どご飯の味などしない。
「うちのもやしろうなんて、全然だし。ま、あれはあれで期待を裏切らないヤル気のなさっていうのかなあ」
「まな、ちゃん?」
「足して割りたいって感じ」
 清士郎という名前の彼氏の事を、最近真那は、もやしろう、と呼んでいる。
 何をどう言えばいいのかわからない、というような弱り果てた顔を浮かべた珠恵の反応に、不満気にプクッと膨らませていた頬の空気を抜いて、真那が笑った。
「にしてもあれですよね。森川さん、よっぽど自信あるんだ。だって、自分で言い出した割にはその条件結構きつくないです?」
「え、あ……どう、かな」
「そんだけ点数上げようと思ったら、相当やんなきゃダメだし。今頃しまったーもっと低くしとけばよかったって思ってるかも」
 結局、夕べ風太がいつ眠ったのかもわからないが、確かに寝る前には、教科書とノートにここ最近にはない程真剣な顔で向き合っていた。
「でも、前のテストの時、ちょっと色々バタバタしてて点数、低かったから、頑張れば有り得なくない、かも」
「かも、って。その条件クリアできたら、珠ちゃん好きに料理されちゃうんでしょ。……きゃー、もうアレだよ?  きっと」
「アレ?」
「森川さんの頭ん中、今頃、珠ちゃんをどうやって喰ってやろうかってそればっかだよ」
「え……そ、そんなこと」
「だって、その点数取れたら、何でも言うこと聞く、って約束なんだよね」
「……うん」
「何でもって、具体的になーんも決めてないんでしょ」
「……うん」
「やだー、どうするんですか、変なプレイとか要求してきたら。ほら、――だとか」
 急に声を潜められ、顔に一気に血が上るのがわかる。口に入ったご飯を呑み込んで、ちょっと泣きそうな顔をして真那を見つめた。

   ◆ ◆

「決まってんじゃないの」
「なになになに?」
「裸エプロンよ」
『ああぁぁ〜』
 妙に自信ありげなターニャの声に、皆が一斉に頷いている。けれど、この辺りはまだまだ、助走にしか過ぎなかった。
「でもほら、コスプレとかもありじゃない?」
「ナースとか婦人警官?」
「ポリはダメよ」
「そうかしら、却って燃えちゃうんじゃないの」
「うーん、白衣系とかもアリ?」
「それ、あんたの趣味じゃない」
「やだ、わかっちゃった? じゃああれは、ロウと鞭」
「ないないない。あの子どう見てもSだけど、多分この子にそういうことはできないわよ」
「あー。それもそうねえ。じゃあ軽ーいのは? 縛るとか目隠ししちゃうとか」
「まあそれくらいならありね。でも私はやっぱり、裸エプロン捨てがたいわあ」
「何て言ったって、男のロマンだもんね。あ……でもでも、アタシはもちろんしてあげる方よ」
「あんたの事はどうでもいいから」
「うーん、エプロンもいいけど、なら裸に男物のYシャツとかもいいんじゃない」
「でも風ちゃん多分、長Tしか持ってないわよ、あれ」
「長ティーかあ。まあこの際それでもいいけど、でも、そんなのいつでも出来るしちょっとインパクトに欠けるかあ」
「あらやだ、この子動揺してる。もしかして、あんた経験済みじゃないの」
「いっ、いえっ」
「声が裏返ったわ」
「したことあるんだあ」
「あの、ちがっ」
「やだわあー、大人しそうな顔してあんた風ちゃんとそんな事してるのね」
「それ、は、でも、あの」
「イメージ変わっちゃったわあ。ねえ、ならもうちょっとハードル上げてもいいんじゃない?」
「Hなランジェリーとかは?」
「いいわねえ」
「……えっ! もしかしてそれ、ふ、風ちゃんが買いに行くの!」
「ナンシー、唾飛ばさないでよ」
「だって、そんなの想像したら……ああーダメっ、アタシもいく」
「どこ行くのよ」
「お店、ついてっちゃう」
「やっだあ、それ私もついてく!」
「あんた達あの男に締められるわよ」
「あっ」
「びっくりするわねミカ、関心ないのかと思ったら、何よ急に」
「ほら、出てないのがあった。オモチャ系」
 何に同意しているのか、皆がまた一斉に納得したかのように頷いて、そこからは、その正体を絶対に確かめたくないようなカタカナの名前が口々に上げられていく。

 繰り広げられている会話には関わりたくない、という珠恵のささやかな願いは置き去りにされて、客も他にいないせいか、店子まで寄って来て、すっかり周囲を固められている状態だった。
「――じゃあ……あんたはこれに一本でいいわね」
「あーでもでも、どうしよ。うーん、やっぱり私は、裸エプロンにしとくわ」
「は、だ、か、エプロン、と。じゃあ、ケン、あんたは」
「私はナース服」
「はーい、私はエプロン」
「うーん、じゃあ、私はランジェリーに一本」
 いつの間にか用意された紙に、エプロン、SM……などという文字が箇条書きされ、その下に、名前と線が引かれていく。真那まで参加して盛り上がっている会話が、自分に関わりのあることだとは絶対に思いたくない。
 そもそも、一本とか、何を意味してるんだろうか。怖くて確かめる気にもならない。
「ほら、あんたはどれ」
 ターニャの呼び掛けに答える声がないことに気が付いて、顔を上げると、皆の視線が珠恵に向いていた。
「……へ」
「んもうっ、鈍い子ね」
「ちょっとナンシー、この子脅えてるじゃないの」
「レミイ姉さん、この女は私たちの風ちゃんをモノにしたんだから、これ位は耐えて貰わなきゃ」
「どのみちあんたのもんになる男じゃないでしょ。ねえ、お珠ちゃん」
「あ……あの」
 今日は、少し遅い時間から店が貸切になるらしく、レミイ姉さん、と呼ばれている助っ人も、この時間から店に入っていた。初対面ではないが、まともに口をきくのは初めてだ。
 金髪にモンローのようなウィッグを付け、口元にある本物なのかどうかよくわからないホクロが目立つその人が、珠恵に同意を促すように笑みを浮かべて首を傾げている。
「ちょっと、あんたの方が怖がらせてんじゃないの」
「そんな事ないわよねえ。……私、怖い?」
 じっと迫るように見つめられ、慌てて首を横に振ると、赤い唇がニッと笑う。
「――よねえ」
「あんたのその笑顔が怖いわよ。ほら、離れて離れて。ほら、オタマちゃんは、どれに一票?」
 レミイの肩を軽く押しながら、ターニャはカウンターの上に置かれていた紙を二本の指で摘まんで、珠恵の目の前でひらひらと揺らした。
「あ、あの……」
「字、読めんでしょ。何なら読み上げてやろうか?」
「い、いいです、わ、私は……あの」
「今のとこ、エプロンが僅差でリードしてるわよ」
 いくつもの目が、一斉に珠恵へと向けられている。助けを乞うように視線を向けた先で、ペンを握り締めた真那が待ち構えている。カウンターの中の弘栄は、さすがに振られても参加しない変わりに、少し気の毒そうな顔で薄く珠恵に笑って見せたっきり、黙々と、グラスを磨いてた。
「あの……でも、何でもきく、って言っても、こ、こういう感じのこととは限らないと」
「他に何があんのよ」
「他にって、そ、れは……た、たとえば、ご飯とか」
「言ってて自分でも違うって思ってんでしょ」
「……」
「ほらね、さ。早くどこに賭けるか言いなさいよ」
「あの、こ、こんな事に、皆さん、本気で関心あるわけじゃ」
「あるわよ」「ありまくりよ」「おおありよ」
 野太い声と妙に甲高い声が、重なって聞こえる。その迫力に、二の句が継げなくなる。
「ていうか、むしろこんな事でもしなきゃやってらんないわよ」
「言えてるわあ」
「ほんとバッカらしい。何がケンカよ」
「ほんとよねえ」
「い、いえあの……」
「彼ったら私のこと毎晩求めてくるんですぅ。もう、こまっちゃーう、って、何の相談それ? 自慢か、自慢してんのか?」
「ケンちゃん、素になってる」
「あ、あらやだ、つい。ごめんなさいねえ」

 そもそも、こんな事を誰かに話そうなどと思っていたはずでなかった。
――じゃあ、今日はご飯食べて帰ろうよ。気まずいのに早く帰る必要ないって。
そう言って誘ってくれた真那が向かった先が、なぜか、何度か真那も連れて行った事があるターニャのお店だったのだ。だから、ここでこんな話になっているのも、珠恵の意思とは全く無関係だ。
「ああっ、もういいわ。一から五、どれか好きな数字を言いなさい」
「あ、あの」
「ほら早く」
「タマちゃん、ママの目がマジになって来てるから早く言った方がいいわよお」
「に、二番」
「二番ね。じゃあ……あらっ」
 ターニャがニッコリとご機嫌な笑みを浮かべる。
「オタマちゃんは、Hなランジェリーね」
「へっ、い、いえ、ち、違います」
 周囲で色んな声色の悲鳴が上がる。
 その声と、怖いくらいの笑顔に囲まれながら、こんなことになるなら、少しぐらい気まずくても風太がいる部屋に帰った方がよかったと、恨みがましい視線を送ってみても、皆と一緒に楽しんでいる真那は、気付きもしない。
 必死で否定しても誰も聞いていなくて、どうすればいいのかわからずに熱を上げたままの顔を伏せた珠恵は、早くこの拷問のような時間が終わってくれないかと、夕べとは違った意味で、やっぱり少し、泣きたい気持ちだった。

(続く)

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