番外編《雨月》

通り雨-①降雨



「――だから、この公式の場合は、ここの数字をこっちに……ふっ風太さん」
「んー」
「あ、あの、ちゃんと、聞いてますか」
「ああ、これ、こっちに持ってくんだろ」
「はい、でも、あの、風太さん」
「で、ここに入れて」
「手が」
「……で、答えがこうだ。だろ?」
「そう、ですけど、でもあの、手は、こっちじゃなくて」
「違うのか?」
「違いますっ」
「合ってんじゃねえのか」
「いえ、あの、答えはそうです、けど……ちょっと、あのっ」
「合ってんだろ」
「合って、ますけど」
「なら、今日はここまでっつうことでいいか」
「へっ……?」
 いったいどういう器用さなのか、数学の問題を解きながら、さっきから何故か風太の手が、珠恵の太腿の上で不穏な動きを見せていた。その手が、今日はここまでの言葉と共にスカートの中に入って来ようとするのを、寸でのところで押し留める。
「い、いいかって……いいわけありませんっ、今日はここまでって、さっきはじめたばかりじゃ……駄目ですっ、ふ、風太さん」
 風太の片手を押さえるために両手を使わなければならない珠恵の隙をつくように、別の手が耳朶からうなじの辺りへと向かおうとする。
「だ、めで、す、風太さんっ、待ってくださ」
 どこか楽しげに微かに口角を上げた風太の瞳には、もう妖しい光が宿っている。その目に捕われては駄目だと逸らそうとした珠恵の顔を引き戻し、あっという間に唇が塞がれた。
「……んっ、ダメ、す数学」
「答え合ってんだろ」
「……です、けど」
「じゃあ」
「まっ、まだ、終わって、ませ……っ、たくさ、ん、残って」
「ならちょっと、休憩だ」
――休憩……って
「ねっ、待って……めですっ、今日は、本当に、駄目っ」
 足元を這い上がる指の動きと、思考を蕩けさすような舌の動きに抵抗しようともがく。今日こそは、このまま済し崩しになるわけにはいかない。
「風太、さんっ」
 風太の名前を半ば叫ぶように呼びながら、両手を目一杯伸ばし必死で肩を押し戻した。顔を逸らし、もう殆ど押し倒されそうになっている身体を捻って、腕の中から抜け出すと、それだけで珠恵の息は上がってしまっている。
 捲れ上がったスカートの裾と乱れかかった髪を慌てて直しながら、睨むように風太を見つめた。
「き、休憩って、今さっき始めたばかりじゃないですか」
「一時間はやってんだろ」
「まだ15分しか経ってません!」
「そうか?」
 一向に悪びれない様子の風太から、ここで目を逸らしたらまた負けてしまう。
「だっ、だいたい、昨日も、その前の……日だって……だから……結局全然、進んでないのに」
「お前もいいっつっただろ」
「い、いいなんて言ってません」
「嘘つけ、最後なんてお前何回も――」
「なっ」
 昨日の痴態を敢えて口にしようとする風太に、顔がカッと熱くなってしまう。羞恥に顔を染めた珠恵の様子を見ている風太の顔に、意地の悪い笑みが浮かぶ。
「そ、そんなの、知りません」
「なんだ、覚えてねえのか」
「おっ……覚えてません、とにかく」
「なら思い出さねえとな」
 いったい何が「なら」なのだろうか。話の流れにあ然として大きく瞬きをした珠恵は、慌てて首を横に振った。
「い、いいです」
「つーか、思い出したら、こっちがその気んなってきた」
 思い出す前からその気だったように思うが、今は、そこに触れない方がいいくらいの事は珠恵ももう学んでいる。
 目が合う度に首を横に振る珠恵を、追い詰めるように見つめていた風太だったが、しばらくすると、諦めたように身体の力を抜いたのがわかった。珠恵から目を逸らし、テーブルに置かれたノートを見つめて深い溜息を吐いている。

 冗談を真に受け必死になっている珠恵に、さすがにもうからかう気が失せたのだろうか。風太の態度の変化に戸惑いを覚えながら、珠恵も、ほんの少しだけ身体から力を抜いた。
 目の前にある横顔に、ふと苦笑いのような笑みが浮かぶ。
「やっぱ向いてねえんじゃねえか」
「何が、ですか」
「俺みてえなバカに勉強なんて」
 独り言を口にするようにボソッと風太が零した言葉に、思わず大きく首を横に振った。
「そんな事、ありません」
「集中力ねえし」
「そんなことないです。私、あの……うまく言えないけど、だけど風太さん、今の学校に入る時だって、凄く頑張って、図書館にまで通って勉強してたの、見てて凄いなあって思ってました。誰かに言われた訳じゃなくて、毎日働きながら、自分一人であんな風に頑張るのは、簡単な事じゃありません。それに今だって、仕事が終わってから毎日学校に通って。だから……疲れて、嫌になることだってあるかもしれないけど、だからって向いてないなんてそんな事は」
 ムキになったように答えている珠恵の方へと、風太が顔を向けた。ほんのついさっき浮かべてみせたような自嘲じみた笑みは、どこにも見あたらない。
 それどころか、珠恵を見つめて口角を軽くクッと上げた風太に、自然と身体が少し後ずさりそうになる。
「そうか?」
「……はい」
「要はやる気の問題か」
「え……あ、はい、あの」
「なら、簡単じゃねえか」
「じゃあ」
 やっと、本腰を入れる気になってくれたのだろうかとホッとしそうになった瞬間、続けて風太が口にした言葉に、一瞬、口を開けたまま固まった。
「こっちのヤル気が治まりゃ、勉強やる気も出るってことだ」
「……へ」
 ――そう、なのだろうか
 軽く混乱した頭が、一瞬、つい納得しそうになる。けれど、風太の目元に薄っすらと浮かぶ笑みに気付き、すぐに我に返った。

 そもそも、前回のテストの結果があまり芳しくなかったからと、期末テストを前に勉強を見てもらいたいと言ってきたのは風太の方だったのだ。
 なのに、いざ始めてみると、しばらくの間は真剣に説明を聞いていたはずの風太が、いったい何の拍子にかはわからないが、突然スイッチが切り替わり、珠恵を押し倒すということがこの三日間繰り返されている。
 初日は、ちょっとふざけているのだろうと思っていたはずが、何がなんだかわからないうちに抗う間もなく、そして昨日は、まさか二日続けてそんな事にはならないだろうとの油断を衝いて――。
 この二日間、結局風太の思い通りにことを運ばれているのだ。
 流されてしまったことを思えば、昨日までのことを珠恵が一方的には責められない。だからこそ、今日という今日は、きっぱりと突っぱねなければならない。
「だ、駄目です。昨日も、その前の日だって、し、したじゃないですか」
「覚えてねえな」
 ついさっき、昨日の事を口にしていたくせに、ワザとらしくとぼける風太を、殆ど威力などないだろう顔で睨んだ。
「さっきは覚えてるって」
「つか、勉強してると何かそんな気分になんだからしょうがねえじゃねえか」
「し、しょうがなくありません、開き直らないでください」
 それは、勉強を始めた途端に読みかけの本が気になったり、部屋の片づけを始めてしまったりするのと同じ一種の逃避ではないのだろうか。けれど、これではいつまで経っても勉強が進まないどころか、テストの出来にも影響しかねない。
「鉛筆、持って下さい」
「やる気になんねえ」
 明らかに不機嫌な声色。子どもみたいな聞き分けのなさに、さすがの珠恵も少しだけカチンときた。風太のための勉強なのに。
「今日は……もう絶対、駄目です。今日は、っていうか」
「……」
「今日、だけじゃなくて」
「……だけじゃなくって、何だ」
「風太さんのテスト結果が出るまで、もう、しません」
 頭で考えるよりも先に、気付けば、そう口にしてしまっていた。何をしないと言ってるのかなんてわかっているだろうに、問い詰めるように風太の眉が片方だけ上がる。
「……は?」
「そういうことは、お……お預けですっ」
 眉根を寄せた険しい顔を見つめながら、ここで押し戻されてしまえばいつもと同じだと、もう一度目を逸らさず風太の顔を真っ直ぐに見つめて、強い口調でそう宣言した――つもりだった。
 けれど、珠恵は人に怒ることに慣れていないのだ。どうしても、震えた情ない涙声になってしまう。
 静まり返った部屋に、ピリピリとした空気が漂う。もの凄く不機嫌そうな顔で珠恵を見ている風太の目を、逸らさずに見つめ返してはいたけれど、すぐに、零れ落ちてしまいそうなほどの涙が瞳に浮かんでくるのがわかる。
 逸らさないようにしていたのではなく、本当は蛇に睨まれた蛙のように、身動きが取れなくなっていた。
「んだ、それ。結果出るまでって」
「ふ、風太さん、今度のテストは点数を上げたいってそう言ったのに、これじゃあ、全然勉強、進みません」
「にしたって結果出るまでって……二週間以上あるじゃねえか」
 流石に泣きそうになっている珠恵にばつの悪さを覚えたのか、僅かに風太の目元から力が抜けた。しかし、珠恵の本気を感じ取ったからだろうか、先程までより強く、不機嫌なオーラが周囲を覆っている。
 長い沈黙――きっとそう感じていたのは珠恵だけだろうが――を経て、珠恵を見つめている風太の口元に、不意に笑みが浮かんだ。
「わかった」
 頷いた風太が本当に諦めたのだろうかと、警戒したまま、確かめるように見つめる。
「――の代わり」
 放り投げていた鉛筆を手に取り、指先でそれを器用に回した風太の口元に、今度は確かに、不敵な笑みが浮かんだ。

(続く)

タイトルとURLをコピーしました