喜世子達に心配を掛けたくなくて、母家には寄らず直接部屋に戻り洗面所で顔を洗う。思ったとおり、泣き腫らしたひどい顔をしていた。風邪かもしれないと嘘を吐いたが、泣きすぎたのか本当に熱っぽくて、頭が痛い。
こんな顔のまま明るい部屋で風太と対峙して、ちゃんと誤魔化しきれる自信はなかった。
メッセージを送った後でミカがくれたアドバイスに従って、風太が戻る前に、急ぎ部屋着に着替え電気も点けずに布団に横になる。
明日が休みでよかったと思いながら、熱を持ったようになっている瞼の上に、冷たい水で絞ったタオルをのせた。
冷やりとしたタオルが、重くなった目の奥には心地よい。眠くはなかったが、身体が布団の中に沈み込んでいくような感覚に見舞われた。
さっきからずっと、胸がキリキリとして痛い。目を閉じていると、風太の言葉が頭の中をグルグルと回る。色んな感情が湧き上がってごちゃ混ぜになり、うまくまとまらない。もういったい何が悲しく泣いているのかもわからないのに、また涙が出そうになって、何度も呼吸を繰り返してそれを押さえ込んだ。
泣き止まないと、もうすぐ、風太が帰ってきてしまう。
* * *
扉が開くいつもより静かな音がして、隣の部屋に明かりが灯る。どこか遠慮したような足音が部屋の入口辺りで一度止まり、少ししてすぐそばにしゃがみ込む人の気配を感じた。
目を閉じていると、大きな手がタオルを避けてそっと額に触れる。その手の温もりに、また涙が浮かびそうになる。
珠恵に触れる風太の手は、体温という意味ではなく、いつでも温かくて優しい。
薄っすらと、目を開けてみた。
「……ふうた、さん」
「悪い、起こしたか」
心配そうに覗き込む風太と目が合って、すぐに視線を伏せた。
「いえ……」
「具合、悪いのか」
「……あの……頭が少し痛くて、今日は、ごめんなさい」
少しだけ本当の事を混ぜ込んで、嘘をついている罪悪感を誤魔化そうとしている。ターニャの店で隠れて話を聞いてしまったことも合わさって、真っ直ぐに風太の目を見ることが出来ない。
話す声が鼻声で掠れているせいだろう、風太が疑っている様子は感じられなかった。それどころか、本気で心配していることが声色から伝わってくる。
「いや、それはいいけど、風邪か」
「……かも、しれません」
「病院は」
「いえ、あの……ひどくはないので、少し横になってれば、ましになると思います」
「無理、すんな」
「……はい」
「明日んなっても具合悪かったら、吉永先生とこ行け」
「……はい」
「メシは」
「今は……あまり」
首を小さく横に振る。胸が一杯で、何かが口に入る気はしなかった。
「なら……取り敢えず、少し寝てろ。隣にいるから何かあったら、すぐ呼べ」
「……はい」
これ以上嘘を重ねるのが心苦しくて、話が途切れた事に少しホッとする。あやすように髪を撫でた風太の手が離れて、そのまま立ち上がろうとした。
「あっ、あの」
咄嗟に、その手を掴んでいた。薄暗い部屋の中で、少し浮かせ掛けた腰を戻した風太が珠恵を見つめる。目を閉じて、握り締めた風太の手を抱き込むようにして、横に向けた身体を少し丸めた。
「どうした」
「もう少し……いて、下さい」
脈動に合せるように、ズキズキと頭が痛む。もっとちゃんと伝えたいことがあるはずなのに、目の奥から広がった熱でどこかぼうっとした頭では、上手く言葉を見つけ出すことができない。
返事の代わりに、もう一方の手が伸びてきて再びゆっくりと髪を撫でてくれる。何度かそれを繰り返されているうちに、泣き疲れた身体から力が抜けて、頭の中までとろんと解けるような心地よさが顔を覗かせ始めた。
「……ふうたさん」
顔を伏せたまま、風太の名前を呼ぶ。
「ん?」
「ふうた、さん」
風太の気持ちに応えるだけの言葉をもち合わせていない自分が、苦しかった。
これまで、風太の気持ちを口に出して言って欲しいと思わなかったのは、怖さだけじゃなく、きっと感じていたからだ。珠恵を呼ぶ声や見つめる眼差し、触れる手から伝わる風太の想いを。
「ふうたさんの手……すきです」
髪を撫でる手が止まり、珠恵が握り締めた風太の手に僅かに力が入る。同じくらい力を込めて、風太の手を抱き締めた。
「声も……すき」
「やっぱお前、熱、あんだろ?」
ほんの少し呆れたように笑った息が零れる。本当に、熱が上がっている気がした。
「ふうた、さん」
「ん?」
「やっぱり……」
「……」
「全部、すき、です」
珠恵を守って死ねたならば幸せだと、そう言ったこの人のことを、珠恵も守りたかった。ずっと一緒に、生きて、いきたいのだと伝えたかった。
温かくて淋しいこの人に、何度でも何度でも伝えたかった。風太が知らないと言って口にしない想い。それは、言葉にしなくても伝わっている。
風太の分まで珠恵が言葉にして、大切に心を込めて届けたかった。
風太を忘れることなどないと。どこにも、行ったりしないと。ずっとずっと、そばにいたいと。
「もう、わかったから、少し寝ろ」
「……はい」
苦笑いしながら、少し呆れたように、でも優しい声。
「ふう……た、さ」
「……ん?」
「……ずっと、いて……ください」
物音ひとつしない部屋の中で、風太の、短い溜息のような吐息だけが、空気を震わせる。
「……ああ」
やがて、呟くような答えが返ってきた。
――ずっと、だ
眠りの際に、珠恵の名前を呼ぶ声と、そう耳元で囁く風太の声が聞こえた気がした。
握り締めた手の温かさと髪を撫でる手の優しさに。
確かにここにいる風太の存在にほんの少し安堵して、泣き疲れた子どもみたいに、そのまま珠恵は本当に眠りに落ちてしまった。
布団の縁に腰を下ろしたまま、そっと息を吐き出す。
風太の手を抱くように眠ってしまった珠恵は、それでも、しっかりとその手を握り締めたままだった。
少しずつわかってきていた。以前、家から連れ帰って来た時もそうだったが、どうやら珠恵は、こんな風に体調が悪い時、いつもよりもどこか無防備になり甘えるような素振りを見せる。
それが風太をどんな気持ちにさせているのか、本人はわかっていないのだから、堪らない。
最近は図書館の仕事も、少し忙しい様子だった。それに夕べは随分と冷え込んでいたから、体調を崩してしまったのかもしれない。
そんなことを思いながら、しばらくの間、ただボンヤリと頬杖をついて眠る珠恵を見つめていた。そばにいると、やはり胸の中が温かいことに気がつく。
どれくらいの間、そうしていただろうか。隣の部屋で携帯の震える音が短く聞こえて、咄嗟に手を引き抜こうとした。
「……た、さ」
微かに身じろいだ珠恵が、寝言なのだろう、風太の名前を呼んだ。
その時、唐突に風太の中に一つの感情が、答えを示すかのように浮かび上がった。
――いとしい
今ここにあるこの気持ちが、愛しいという想いなのだと、知らないはずなのにそれが正しい答えだと、確かにそうわかった気がした。
甘くて温かくて優しくて、けれど柔らかいだけのものではなく、同時に疼くような痛みを与える感情。
これまでも確かに感じていたこの気持ちは、珠恵が風太に与えてくれた、呼び起こしてくれたものだった。
この女のために死ねたなら、きっと生まれて来たことにも意味があったのだと。自分の命にも価値があったのだと思える。ターニャに話したように、想像するだけでも至福であるそれは、確かに自分の奥底に潜む願望に近かった。
けれど、同じくらいの強さで、望んでいるのだ。この女と――珠恵とずっと共に生きていきたいと。
大切なものを守るかのように、柔らかな胸元に抱えられた風太の手。珠恵を起こさないように、ほんの少しだけその手に力を入れる。
――珠恵
いとしい、名前を胸の中に刻むように口にする。
初めて名前が与えられたその気持ちが、溶け込むように風太の心に馴染むのを感じながら、それがもたらす小さな疼きを誤魔化すように、俯いて、もう一度深く息を吐き出した。
「遣らずの雨」 完