番外編《雨月》

遣らずの雨 ⅲ



 喉元をせり上がる熱い息が、漏れ出さないように口元を強く覆った。それでも、震える唇から嗚咽が漏れそうになる。ぎゅっと閉じた瞳から零れ落ちた滴が、スカートに落ちて広がっていく。
 ミカの手が、上下する珠恵の背を優しく撫で下ろしていた。

「あんた……それ、ちょっと病的よ」
 風太がクッと笑う声が小さく聞こえてくる。
「引いてるんですか? タケさん」
「そりゃ、正直……ちょっと引くわよ」
「聞きたいつったの、タケさんですよ」
「まさかこんなヘビーなのが来るなんて想定してないわよ。だいたいねえ」
「まだ何かあるんですか」
「あんたがいなくなりゃ、あの子に寄ってくる男も現れるかもしんないわよ。それで構わないってこと?…………ってか、やめてよ睨むの。やっぱダメなんじゃない。っていうか風ちゃん、あんたもしかして、ちょっと酔ってんじゃないの?」

 いつもと変わらぬ声色に戻ったターニャの声を耳にしながら、顔を起こしてミカを見つめた。
 優しい目をして珠恵を見つめ返したミカが、何かを汲み取ったように、ほんの微かに首を横に振る。少し困ったようなその表情に、また涙が溢れてきた。
 店の中からは、まだ風太に話し掛けるターニャの声が聞こえてくる。コツっと何かが扉に触れるようなごく小さな音に続いて、パントリーの扉が開いた。
 ハンカチで覆ったままの顔をソロソロと向けると、後ろ手に扉を閉めた弘栄が、黙ったまましばらく珠恵を見つめている。ミカにも弘栄にも、こんな顔を見せたくなくて、すぐに視線を伏せた。
 二人の前を横切りパントリーの奥へと歩を進めた弘栄は、そこにある勝手口の扉を開けて、促す様な視線をミカに送った。
 ミカに支えられるように、静かにそっと立ち上がり店の外へと出る。こんな状態では、とても普通の顔をして店に現れることなど出来そうになかった。
「弘栄さんありがとう」
 ミカが掛ける声に釣られるように、ただ頭を下げるだけで精一杯だ。
「大丈夫ですか?」
 気遣いを滲ませた声色に、せめて顔を上げて頷いてみせた。
「今日は、帰った方がよさそうですね」
「うん、これじゃね」
 珠恵の代わりに頷いてくれたミカに続けて、もう一度小さく頭を下げた。唇の端をほんの少し上げた弘栄は、そのまま勝手口からパントリーを通り、棚から缶詰とミネラルウォーターを数本手に取って、店の中へと戻って行った。
「珠ちゃん、ごめんね」
 弘栄の姿が消えてから勝手口の扉を閉め、また珠恵の背を撫でてくれるミカの声に、首を横に振る。
「すぃ……ませ……」
「あー、いいいい。もう、あれ聞いた後じゃしょうがないし」
「……ごめ……なさ……」
 どうにか涙を止めようと深く息を吸ってみても、なかなか収まりそうもなかった。
「調子に乗って面白がったりしてごめんね。ママも、そう言いたいんじゃないかな」
「い……え」
「でもママ、あれ途中から多分、最初の目的とか忘れてたっぽいけど」
 少しだけ可笑しそうに笑ったミカの手が、珠恵の背を小さく叩いてから離れて行った。
「でも風ちゃん、わかんないって言ってたけどさ」
 半ばしゃくり上げたような状態でハンカチで目の下を覆ったまま、言葉を止めたミカを見つめた。
「あんなの聞かされたんじゃ、もう言葉とかどうでもよくなっちゃうね……あ、やだ珠ちゃんまた泣いちゃった」

 やっぱり――
 こんな風にこっそりと聞いたりするんじゃなかった。今更しても仕方がない後悔が込み上げる。きっと、聞くべきじゃなかったのだ。
 嬉しいという気持がないと言えば嘘になる。けれど、同じくらい、胸が軋むように痛かった。
――あいつの情は、重すぎて、あんたはそのうちそれを苦痛に思うかもしれん
 吉永の言葉を、不意に思い出す。
  風太の想いを苦痛に思うことなどなかった。けれど、自分の想いばかりに捕われて、風太自身の気持ちをちゃんと受け止めていなかった気がして、それがとても苦しかった。

* * *

 駅前に着くと、珠恵の携帯を使ってミカが風太にメッセージを送ってくれた。
『連絡が遅くなってごめんなさい。少し風邪をひいたかもしれないので、お店の人にうつるといけないから、今日は先に帰ります。大丈夫だから、風太さんはゆっくりして来て下さいね。ターニャさんにも、謝っておいて下さい』
 きっと自分でも、本当に風邪をひいたならこんな風に書いただろうメールの文面に、ほんの少し驚きを感じながら、綺麗な指先がそれを送信するのを不思議な気持ちで見ていた。
「珠ちゃんっぽい?」
「あ、え……はい」
「もうその感じなら、風邪ぎみって誤魔化さなきゃ仕方ないかなって。でも、大丈夫って言っても多分、風ちゃん急いで帰ってくるだろうから、珠ちゃんも早く家に帰りなね。今日は、病人なんだから」
 そう笑ったミカは、じゃあ私はそろそろ出勤するからと、珠恵に手を振って夜の雑踏の中に消えていった。
 ふと、自分から香る花のような匂いに手元を見つめる。ミカが貸してくれたハンカチを、ずっと手に握り締めてしまっていた。いずれにしても、たくさんの涙を吸い込んだそれは、洗って返さなければならないような状態だ。
 鞄に仕舞おうかと思ったけれど、家に向かって歩いている途中でも時折思い出したように急に涙が浮かびそうになる。その度に、珠恵は好い匂いのするハンカチでそれを拭った。


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